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追いつく噂

ある噂


「ねえ、高山と四組の仁藤さんが付き合ってるんだって。」

「あの二人が?」

「駅前を二人で歩いてるところを見た人がいるらしいわ。」

「誰から聞いたの?」

「誰だっけ。」

「誰だっけ?でも本当に好きよね。」

「なにが?」

「そういう噂話。」

「そうじゃない人なんていないでしょ。あなたにしてもその隣のあなたにしてもね。」

「まあそうね。好きか嫌いかって言えば嫌いじゃないし、本当に好きかどうかってことなら、本当に好きかもしれない。」

「ただ思うのだけどこうして話したところでその二人に関してはもちろんうらやましいと思うものでしょ?」

「まあ隠さずに言えば。」

「そうよね。くだらない嘘をつかずに真実を言うならそうなのよ。でもね。実際にその付き合っている人たちっていうのもそれはまた楽しい日々を送っているのでしょうけど、この私たちが話しているこの楽しさと比べるとどうなのかしら。」

「比べると?」

「なんだかこっちのほうが楽しいような気がするのよね。」

「女通しで話すことは確かに楽しいわ。これこそ本当に。」

「そうじゃなくて。」

「そうじゃなくて?」

「付き合っている二人の日々、一緒に帰ったり休日には町に出かけて百円ショップかお菓子が割合安く売っているチェーン店なんかでちょっとした駄菓子をいくつか買ったかと思えば、その付近でそれぞれ違う味のアイスクリームも買ったりして、お互いのフレーバーを一口ずつ交換して味を確かめ合うのと同時になにを確かめ合ってるのかしら、なんてことをするのと比べてね。そういう二人をこうして噂するこの今のどちらが楽しいかって感じのこと。」

「それはもちろん彼らに決まっている・・のかしら?でもなんとなく言いたいことはわかる気がするわ。好き通しの二人でそういうことをして、まあ楽しくないことは無いと思うけど、そのあとになにが満たされるのかって言えばどうか、それは本当に楽しいかどうかってことはわからないものね。そもそも男子となんて付き合ったところで新しい発見があるかどうか、期待してしまったら後でひどく絶望することになりそう。実はひどくつまらなかったりね。突き詰めてみれば。あっちの人たちが話題にする趣味なんてどうせ決まり切っているものでしょう?」

「また脱線しないで。要は人の噂話をしているほうがなによりも楽しいってこと?」

「なによりもとはいかないかもしれないけど、殆どのことよりは楽しいと思うわ。その二人の日々よりももしかしたら。でもそれでは困るのよね。そうなって誰もが噂話をしているほうがいいと思い始めては噂のネタとなる出来事も起きないわ。誰それが付き合うとか、告白してふられたとか、喧嘩したとか。」

「こんな話を男子にでも聞かれたら、その男の子はどう思うかしら。」

「こんなことを話している女子たちってね。」

「間違って聞いてしまったらきっと微妙な心境になるわよね。付き合うことになんら希望も持たれていないなんて知ってしまったら。」

「ただ男子達こそ、私たちと付き合おうとはしていないかもしれないわ。草食系男子っていう言葉があるくらいだし。」

「ガツガツしてくるのも気持ちが悪いけど、でももうちょっとやる気は出したほうがいいかもしれない、あの人たちは。だってよくよく考えれば彼らが女子と近しい場所にいることができる機会なんてのは、こんな学生の時だけなんだもの、たぶん。」

「そんなこと考えてるのね。」

「違うの、お兄ちゃんが言ってたのよ。社会人になると異性と触れ合う機会なんて皆無だぞって。あの人がそういう職業だからなのかもしれないけどでも、そういう環境は珍しくもないらしいのよね。」

「そう、だけどもうちょっと声を潜めたほうがいいかも。」

「本当に聞かれては引かれちゃうよね。」

「誰にも聞こえないわよ。割合と小さめの声だし、放課後になりたてでみんな部活の準備やら、帰る前の仕度をしながら喋っていたりうるさいものだもの。私たちの話し声が一番小さいくらい。」

「声が伝わるのはそっちだけとは限らないでしょ。ほら、この席って一番後ろの窓側になるし、夏の暑さで窓は全部開けられているものでしょう?」

「そうね。だから?」

「隣のクラスの、私たちのクラスから見れば後ろの教室の一番左前位に誰か居でもすれば、この会話は丸々聞こえてしまっているかもしれないわ。」

「ベランダを通して?」

「ええ。」

「あっちだってまだうるさい盛りだと思うけど。」

「それはそうだけどね。でも音なんてものはどんなふうに伝わるかわからないことがあるものよ。どの辺が共鳴したり打ち消し合ったりなんかして、机に突っ伏しているその人の耳には近しい場所でガヤガヤさせられている音達よりも幾分か、いいえ、私たちの話す声だけが小さいけどでも、はっきりと聞こえていたりするの。」

「突っ伏してる?その人はなにをしているのかしらね。」

「時間つぶしかしら。」

「なんの?」

「知らないわ。放課後行くところがあるんじゃない?でも今から出てはちょっと早いのよ。」

「だからそうやって待っているの?誰かと話せばいいのに。そんな突っ伏していたのでは見た目にもなんだかみじめよね。」

「その人がどういう性格か、またはクラスの人たちとどういう雰囲気の関係性を持っているかわからないけど、別に深刻なことはなくて、そうすることでその人は集中して考えごとをすることが出来るからそうしているだけだったりする、ということでいいのだと思うわ。」

「何を考えているかといえば、これからしようとしている何かのことになる?」

「そうでしょうね。」

「考えこむことなのだから難しいことなのかしら?」

「さあね、ただなんとなく普通の人が私たちの目の前でこうしてどうでもいいか、どうでもよさそうなことを喋っている人たちのしていることとは違う、なにか変わったことのような気はするわ。」

「思い返してみればその人のように考え込んでするようなことなんて、緩い学校生活を送る私達にはなに一つとして無いものね。」

「何をしようとしているのかしら、その人は。」

「もう少しすればその人もいずれは顔を上げて教室を後にするでしょうから、気づかれずに後を追って行ってみたりなんかすれば知ることができるでしょうね。」

「でもそうはならないのよ、私たちは。」

「そうね、私たちはこうして教室で噂話をすることをこそなによりも楽しみとしている人たちなのだもの。」

「そう、私たちはそんな人たち。」


校舎によって形作られた大きな陰の中、少し歩くとすぐ校門に行き当たる。そこから一歩外へ出るともうそこは学校社会の外。

流れる空気感が少し違う。学校という浮世離れしたなんともけだるい雰囲気に包まれた場所とは違った、本来の社会の姿がそこにある。

目の前には細い道が左右にまっすぐ伸びているだけ。

そこを出たすべての生徒はどちらかに折れ、そのどちら見ても左と右は学校敷地の塀と工場の壁とに挟まれている。閉塞感が強くあまり好きな風景ではない。

この壁の向こうでだってなにの工場か知らないが、建物のすすけた様子を見る限りきっと先進的なものが作られているわけではないのだろう。

全体的に見て新しい町ではないため車道と歩道の区別はなく、電柱の立つ位置も中途半端に張り出しており、後ろから車のエンジン音かそれらしい気配でもすれば、そこを通るすべての住民や通行人は万が一車とそれらの間に挟まれることの無いよう、そしてイライラしたドライバーから怒鳴られることの無いよう、すぐにどけるなどいちいち気を使わなければならない。

今の時代、どこの田舎だって主要な道路を含め町中の道は区画整備でとっくの昔に広くなったりしているはずなのに、この町はそれが始まる気配もない。

親は落ち着いていい街だというが、自分にははっきり言って住み心地がいいのかそうでないのか判断がつかない。

学校を出て5分程度もすると民家が密集しているエリアへと歩みを進めることになる。

住宅街というものは新しいものでも古いものでも絶対的な静けさに包まれており、そこにいるとなにか時が止まったように感じ、図書館にいるときの感覚に似てなんとなく息苦しい。

路地に人の姿は見えず、過去幾度となくこの場所を通り過ぎたものだが家々からはなにかしらの物音や声が聞こえて来たことは一度として無い。

もしかしたらこれらの中には誰もおらず、たとえ居たとしてもそれはもう頭で考えることも喋ることも、立ち上がることもないようなものたちがただそこにあるだけなのかもしれない。ここを通るとそんな様なことを考えてしまう。

路地はいよいよ狭くなる。

民家とその裏手の民家に挟まれた人一人がやっと通れるだけのスペースに入り込む。

それがずっと先まで続いて、どこか別の場所まで続いているのならそれはもう道として扱うことが出来る。

足元は他の敷地よりも大分低く、腰くらいの高さに民家の地面が来る。ブロック塀は高く、見上げる空は細い。周囲のすべてに厚い陰が張り付いている。

学校も終わるような時間帯はとうに過ぎているというのに、今は昼頃の陽気とまるで変わらない。それがこの場所の暗さを一層引き立たせている。

向こうに小さく見える路地が白く照り返していてひどくまぶしい。

一人進んでいく。

ふと気配を感じて後ろを振り返ると、遠くの方で黒い影が二つ揺れている。

そういう気がする。

真っ黒で判別はつかないが、なんとなくそれらはこちらに向かって距離を詰めてきている様に思えて仕方がない。

踵を返して歩みを速める。明るい日差しの下に出るまでもうすぐ。

目の前に近づいてくる白はだんだんとその輪郭から色を持ち始め、本来の姿を見せてくるようになると草に覆われた斜面が現れる。

目の前のけもの道はまっすぐ上に伸びているが、あと数歩を残して未だ自分はまだ陰の中から出られずにいる。

日差しの下から見ればこちらはまったくの闇の中、こんな場所では何かあっても声を上げない限り、音を出さない限りは誰にも見つけてもらえないかもしれない。

だがもしそうならないのなら、いつのまにか後ろにぴったりとついてきているそれらを意識しながらひたすら緑の斜面を登る自分の姿があるかもしれない。


「こずえって、ちょっと人と違うよね。」

「なにが?」

「スマホの打ち方が。どう違うのって思うでしょうけど、それは私にもよくわからないの。でもスマホって大抵アプリで友達とやり取りすることが中心じゃない?ニュースサイトを見たりするよりも。」

「それはそうよ、学生の身分だもの。」

「だからおのずと文章を打つことが中心になって、スマホをいじっている友達とかを見ればそれはいつも文字を打っている時にはなるの。眺める時間よりもずっと多く。」

「ええ。わたしもまた同様にね。」

「そうね。でもあなたの場合、友達に送るメッセージを作っているという風には見えないのよね。なにか長い文章を打ち込んでいるような。」

「ひとより打ち込む時間がよほど長いということ?」

「いいえ、実際には長くもない。だってあなたはそれとわからないように、休み休みしながら打っているのだからね。」

「そう見えるのね。」

「なんだかそう思えるの。本当はパソコンなんかで打ち込んだほうが早いし、できるならそうしたいとあなたは思っているのだけど、なんとなくこういう場所だからそれは作業っぽくなってしまうとか、文章を打っている感じを特にいつもこうして顔を合わせている私たちに見られたくないないとかいう理由で、あなたは他の人に紛れて文章を打つことができるスマートフォンを活用してそんなことをしている感じ。」

「そうかしら。」

「そうよ、それはたぶん当たっているんだから。それにそう思っているのは私だけじゃないと思う。きっとそうでしょ?ねぇ、あなたはいったいどんなことをこそこそと作っているのかしら。」

「別になにもないわ。」

「いいえ、わかるのよ。見せてくれてもいいんじゃない?」

「見せてもらわなくても別にかまわないでしょ?あなたは。」

「もしかしたらそれが私たちのうちの誰かについてのことならどうかしら。」

「誰かについてのこと?」

「私たちに知られずに作る必要があるものだもの。それはそういうものってことにならないこともないでしょ?どう?それでも見せなくていいものになる?」

「そんなものじゃないわ。」

「もちろん信じられないなんてことは言う気もないわ。こうして多くの人がいる中敢えて会話を交わすような仲だもの。不安な心を払しょくして信じ込むべきだということもわかってる。ただ正直なところを言うとやっぱり不安ではあるのよね。この気持ちは仕方のないことだと思わない?」

「そうかしら?」

「ちょっと早織、こずえがなにを打ち込んでいてもいいでしょう?」

「でも気になるんだもの。もし見せてくれるなら、こずえがやぶさかでないのならってだけ。無理をしてじゃないわ。あなただって目の前で聞いていればわかるでしょ?この会話を。」

「無理やりじゃなくてもあなたはこずえにとってちゃんとした友達だもの、断りづらいじゃないの。それは無理やりっていうのよ。こずえも嫌がってるじゃない。」

「そう?だったらごめんね。こずえ。」

「いいわ。」

「それにもしもこずえがあなたやわたしについての気になるところ、例えば会話中の相槌がちょっと過剰で気に障るとか、同じとはいかなくても同じカテゴリに分類されるような話題ばかりを持ち寄ってくるところがなんだか人格を疑いそうだということを、私たちを嫌いになりそうになる前にでも文章として明記して、その溜まったうっぷんを発散しているということだとして、私たちになにか害はあるかしら?実際的な話で。一連のことはこずえの中でだけ、この頭の中でだけ、ということでなくそれはまあスマートフォンの中のいちメモ帳の中で形に現れることにはなるものだけど、結局そこだけで完結される話だわ。」

「総合的に言えばこずえがしているのは、わたしたちとこれからも仲良くしていきたいがためにしていること、そういうことね。」

「打っているのはそういうことじゃないけどね。それに本当にほかの人と同じことをしているに過ぎないかもしれないし。そうでしょ?」

「ええそうね。なんら見た目に違いもないのだから、他の人と。こういった自分もまたなぜあなたに対してそう思ったのか思い返しても理由が見つからないくらいよ。」

「そうでしょうね。」


切りがいいところで再びスマートフォンに目を落とす。だが早織はこちらが今すぐにでもなにを打ち込み始めようとしたところで、こちらの挙動を監視しようとじっと見てくることもないだろう。彼女はただふと思ったことを口にしたにすぎず、本当のところこちらの画面を見ようとも思っていない。話題にできると思ったことを自分なりに話を広げただけ。

彼女はそういう人なのだ。

こちらもそれがわかっているからなんら動揺することもない。だがしかし彼女の、そして誰の目にもこのスマートフォンのディスプレイの正面が映り込むことが無いよう手の角度には注意する。そういったことは怠らない。

スポーツバッグを抱える怪しい四人組の噂。夕方になると、とある四人組がどこかへ向かう姿がある。彼らの様子は学校帰りかそれに似たような感じで帰宅する人々の風景によく馴染んでいるため目につくこともないが、間もなく四人は町のどこかに消え、次に姿を現した時は三人に減っているのだそうだ。話によると四人のうちの先頭を歩いている人というのは実のところその後ろを行く三人には全く関係がなく、彼らに追跡されていたかわいそうな人になる。三人は気配を消すのがとても上手なようで、後ろにぴったりとくっついてもまるで気づかれることがないらしい。だから傍目には四人の集団が歩いているように見えるだけ。追跡された人はどうなったかといえば、誰の目にもつかない路地の死角に入ったと途端どうにかされ、スポーツバッグの中に入れられて持ち去られてしまうのだそうだ。



遠くから見つめる女


「その場には体操着が落ちているんだって。」

「体操着?」

「場合によっては教科書とかシューズとか。スポーツバッグに一緒くたにいれて学校に通う人も中にはいるだろう?あまりよくないことだけど。」

「そうだね。」

「噂によるそのスポーツバッグは襲われた人が肩から下げていたものなんだ。どういうことかわかるだろ?」

「三人はその人の持っていたスポーツバッグの中身を出して、その中にその人を入れてしまうと。」

「だからその三人はスポーツバッグを持っている人を狙うのだそうだよ。ちょっと不気味だと思わないか?」

「確かに。わざわざその人が持っていたものを使うってのがあれだね。」

「そう、あれなんだ。」

「自分の持ち物の中に自分が押し込められてしまう。その状況がなんとも不憫だ。」

「そう。なんとなくこの噂の印象に残るところはまさにそこなんだと思う。」


車の往来は遠くにあり声を張る必要はない。

互いにつぶやくようにして二人は長い歩行者専用橋を渡っていた。

ふと一人が足を止める。

しかしそれはほんの一瞬のことだったので、隣の彼は気づかない。


「しかし、なんだか気味が悪いと思わない?」

「なにが?」

「帰り時の今は町というか路上に一番人がいる時間帯で、全体的に活気づいているように見える感じなのに、ここはといえば僕たち以外誰の姿もない。」

「この橋を通るには国道沿いから少し外れないといけないからね。」

「うん。」

「それに向こうの橋も車道の両側に歩行者用に設けられたスペースはあるから結局はみな隣の橋のほうを通っていく。車道よりも高く作られた歩道はとても狭く危険なものだけど、慣れてしまえばみんな危険を認知しようとする感覚も麻痺させて自転車のスピードを落とすことなく平気ですれ違っていくよ。」

「それだけなのかな、こっちを誰も利用しない理由って。」

「人が使わな過ぎて寄り付きにくいとか。」

「やっぱり何となく気味が悪いとか?」

「もしくはいわくつきだったり。」

「そんなこと噂でさえ聞いたこともないけどね。」

「僕たちの耳に入ってきてないだけかもしれない。」

「もしそうだとしたらどんなことがあると思う?」

「さあ、こんなに見晴らしのいい所だもの。今すぐ思い浮かぶことはないかな。だけどそういう場所にも関わらず、ここはなんだか空気がよどんでいるような気がするんだ。ほんの少しだけ。」

「確かに今の今で言えば風が全然ないね。これはただの偶然だと思うけど。でも言ってることはわからないでもないよ。ここは雰囲気がいいとは言えない。そうである所を僕たちはなぜ通っているんだろうね。わざわざ国道から外れて手間をまでかけてまで。」

「一人だったら通らない。それだけだと思う。」


もう橋の終わりに差し掛かっている。


「ちょっと寄りたいところがあるんだ、今日はここで。」

「そう、じゃあ。」

「うん。」


友人と別れて一人土手を行く。歩みは遅く目はそれを捉えたまま離さない。

なんだろう、あれは。

はっきりとは見えない、ぼやけている。蜃気楼のようにゆらゆらと揺れて輪郭すら怪しい。だが見られている気はする。あちらから。

女の顔。

無意識に首をかしげつつも視線は外さないまま、ゆっくりと横を向きかける。見つめられているのならそれが見ているのはこの自分なのか、それともそうでない他のものがあるのか。確かめたい衝動に駆られたがやめることにした。

目が離せない。そのままそれに向かって歩いて行かざるを得ない。

吸い込まれていくようだ。それはやっぱりこちらを見ている。しかし近くに寄っていけば行くほどなんとなくだが、とても怖い顔で見られている気がする。目が、瞳の黒がすごく小さいのだ。

突然なにかを踏みつけた。

感触に驚いて地面を見下ろすと黄色の点字ブロックがある。

交差点に差し掛かっていた。信号もないような場所、車の往来はない様子。

ふと気づいて視線を戻す。

先ほどまで見つめ続けていた場所にそれはなかった。しかし向かう足は止まらない。

そう見えたようなものはなんだったか、その範囲の中でそれらしきものがないか目で追ってみるがなにもない。

緑の茂み、真っ白な顔に見えそうなものも見当たらない。

しかしながらそこになにかを見ていたことは確か。たった今のこと、記憶だってはっきりしている。

辺りは暗くなる予兆を見せ始めている。

いよいよ近い。だが未だにそれらしきものを見つけることはできていない。心臓の鼓動が身体の内部から響いてくる。

葉と葉の間に手を挿し入れる。

中指の先が葉に触れた途端、いきなりその手を掴まれて引き込まれた。

一瞬そういった光景が頭をよぎったため、触れた葉を両手の甲で一気にかき分ける。


バッグのチャックを締め、今にも立ち去ろうとしている男女。

ギョッとして振り返った瞬間不思議なことが起きた。そのどちらとも目が合ったのだ。


「あっ。」

「どうしてここに?」

「変更になったの。やる予定の場所に人がいてね。」

「そう。」

「あなたは?どうしてこんな場所に。手伝いに来たの?でも変じゃない?それは。」

「違うよ。なんとなく来たんだ。」

「なんとなく?なんとなくで私たちの居場所がわかったの?それは結構な問題だわ。ねえ。」

「そうだね。」

「違うよ。見られている気がしたんだ。」

「見られてる気がした?」

「目を離さずに近寄ってきたんだけど、一瞬よそ見したら見失ってしまった。」

「なにに見られていた気がしたの?」

「女の顔。なんだかすごい顔をしていた。」

「恐かったのではない?」

「うん。」

「あなたは私たちがここにいることを知らなかったのでしょう?そのはずだし。」

「そうだね。」

「私達の存在も思わず、恐いのになんであなたはわざわざそれに近づいて行ったのかしら?」

「確かめなければならない気がしたんだ。恐ろしいものを見たら目が離せなくなるだろう?」

「それがどこに行ったか見失ってしまうほうが、なんだかよくない気がする。そのほうがずっと怖い。そんな心理ね。」

「そんな感じ。」

「わからないことはないわ。で、それはどんなすごい顔だった?」

「顔というよりも表情かな。あれはどういう感情なんだろう。よくわからない。それはそんな顔をしてじっとこちらを見つめていた、ように思う。おぼろげにしか見えなかったけど。でもさ、それは僕に向けていたってこと?」

「これを?」

「うん。」

「いいや。いつものように誰も意識せずにそっとこれを掲げてすぐにひっこめただけだね。いつものように。」

「誰に向けてはないし、あんたがこっちに向かっているなんて思ってもみなかったわ。私たちは。」

「そう。」

「そうよ。」

「今日はこれで終わり?」

「あと一か所。なんなら手伝う?」


一人増やして土手に向かって歩き出す。大きなバッグを抱えるのは自分でないどちらかでいい。


「これから向かうのはあの辺。」


暗くなりかけた指さす景色の先、すこし森の色が濃くなっている場所。なんとなくだがその辺全体が少しすすで汚れているような気がした。茂の前で辺りを伺いながらその中に入れそうな所を探す。

こういう茂みというものはこんもりと密度高く見えても大抵その中は空洞になっているもの。中に入ってしまえば意外と居心地よく、隠れるには格好の場所となっている。恐らく多くの人が知らないことであろうし、自分たちのようなことをしていなければ知ることもない雑学的なこと。

室浜はバッグのチャックを開ける。中から藁で形作った頭から胴までを一気に出す。まるで女性の半身のように見えるが、それはこれにとりついた長い髪によってそう見えるのだろう。ウェーブが少しもかかっておらずまっすぐで真っ黒で艶がある。

次に棒を取り出して、今出した半身とを接続して室浜がスタンバイの体制を取る。意味深な顔でこちらに促してくる。棚葉とそれぞれ茂みから顔を出して辺りを伺うが近くに人の気配はせず、車のヘッドライトや自転車、人の往来があるのが遠くに見えるだけの寂しい場所に三人はいた。


「いいよ。やろう。」


待ち構えていた室浜は棒を上にゆっくりと持ち上げる。茂みから女が顔を出している状態になった、と思う。互いに息を殺す。

緊張が走る。

室浜を見ると棒を持つ手に力を込め、眉間にしわを寄せて地面をじっと見つめている。

いつもこう。

彼はこういうとき必要以上に緊張を現した面持ちをする。そうすることがなにか格好がつくとかで意識的にそうしているのか、それとも無意識的な癖なのか未だにわからない。

そんなひと時はしかし十秒程度で終わりを迎え、室浜は棒と人形を茂みから出した時よりももっと丁寧にやんわりと引っ込め、すぐに胴体と棒とに分解してバッグに収容し始めた。


「今日はこれでおしまい。さて、成果はあったかな。」

「どうだろう。」


半身の女がすっかり姿を消すと、室浜はさっさと腰をあげて帰ろうとする。


「ちょっと待って。」


思わず手で制止する


「もう一回確認して、誰かに見られないか。終わりまでが大事だし、今こそが誰にも見られてはいけないタイミングでしょ。あなたもそっち見て。」

「ああ、そうだね。」


今日も成果はなかったかもしれない。

今のこの時間帯、この辺りで女の幽霊を見た人なんていない。

だがそれもしょうがない、この実験はそうしていくしかないのだから。そんなことをこの男ふたりのうちどちらかは思っていたりするだろうか。明日は休日。

翌日の午前にでも町をぶらつけば、目の前の室浜が持つ黒いバッグを同じように肩に下げて自転車をこぐ棚葉とその横か先を行く彼女の姿が見られるかもしれない。どの辺で作業するものか把握してはいないが、そこでどんな会話が交わされるものか互いの性格を知り尽くしている自分にはそれが手に取るようにわかる気がする。


棚葉は前を行く自転車に追いついてハンドルを握る彼女に声をかける。


「どの辺だっけ?」

「今日はまずあそこ。」


そこはどこからも遠く、誰も寄り付く用を持たない様な、彼らにとっては安全で理想的な場所。

二人の目的は女の幽霊を見せることであって、人を驚かせることではない。見通しが悪く鉢合わせするような角や人が行きかうような道沿いのすぐ横の物陰は避け、誰にとっても女の幽霊が突然現れた、という状況は作らないようにしたい。万が一それに驚いた人が躓いて転ぶとか、走って逃げて車にひかれるといったことはあってはならず、自分たちの行為によって不幸な事故は起こしてはならないと日ごろから四人で確認し合っている。

もし女の幽霊を見た人がいたならその人物は、ふと視界の隅にそんな風なものがあった気がする、といった認識を持つ程度のことにしてやらなければならない。そういうものがあった気がしてもう一度その場所を見返すともうその場所には何もいなくなっていた、というような。だから目にした人といえばその人ただの一人だけ、隣の人に声をかけても見直せばそこには何もない。

もしかしたら気のせいだったかもしれないとさえ思ってしまうような。

誰が見ているかも怪しい場所で、女の形に似せた藁人形をそっと出してはすぐひっこめることで、そういった状況をうまく作っていく必要がある。

これは噂を起こすための実験になる。女の霊を見たという噂。


「ちょっと聞いてる?早く次の場所へ行かないと。というか、早く撤収準備をしてこの場所から離れないといけないでしょ。」

「ああ。それがこの作業のルールだった。」

「人形を出して引っ込めたらすぐにその場から立ち去る。もしも女の霊が誰かの目に入っていて、その人が誰かや誰か達と一緒にいたりしたのなら、その心持ち次第でそんなものがいなかったか一緒に行って確かめてやろうなんてことになって、こちらにやってくるかもしれないんだから。」

「そうならその人たちが今こっちに向かっているということになる。」

「そうよ。だから早く、そして慎重にこの場所から離れないと。私達が見つかっては実験が台無しよ。今までの苦労が水の泡だわ、っていうか今まで散々そうしてきたでしょ?」


二人は茂みの中から慎重に周囲を見回して、身をかがめながらその場を後にする。小道の階段を下りて民家の前を通り抜け、見知らぬ家のプロパンガスの横に勝手に止めた自転車にそれぞれまたがって次の現場へと出発する。次の場所が山の入り口付近なら、きっと日陰の中涼しげな風が心地よいに違いない。町の喧騒も届かないのであれば、自転車のペダルが空回りした金属音が際立って仕方ないだろう。もしもこの世にセミが存在しないのならきっとそう。


「昨日二人が作業しているところへ顔を出したんだって?突然。」

「うん。」

「茂みの向こうからあなたが顔を出してきた瞬間、二人はさぞびっくりしたでしょうね。なによりも本人たちは決して見つかってはいけないという意識が働いている中でのことだもの。」

「そうだけど、でも悪いとは思ってないよ。」

「あなたはボーっと浮かび上がる顔を見てそれに吸い寄せられたんだものね。」

「不思議なんだ。藁って見るからに黄色いのにその顔は真っ白だったように思えた。」

「やっぱりこれに変えて正解だったってことね。それは顔に見えたのなら。」

「そうかも。マネキンよりも藁で女を形作ってそれにカツラを被せるだけのほうが、それっぽく見えるっていうのが不思議ではあるけど。」

「人が物を見るときの認識の仕方や、人を見た時の頭の働きかなにかに秘密があるのかもしれないわ。」

「うん。」

「誰が言いだしたのだっけ、マネキンよりも藁人形のほうがいいって。」

「最初から決まってたんじゃなかったっけ?藁人形を使うはずがそれを作るための藁が確保できないとかで、しょうがなくマネキンを使うことにしたとか。」

「そう言いながらでもあなたは考えているんでしょ?四月から初めて三ケ月間おなじことをし続けているものの、まるで成果が見えない。女の幽霊を見たという噂は未だにどこからも聞いたことがなく誰の口からも出てこない。現にこうやって三日に一回、もしくはそれ以上の頻度をもって出現させているものなのに。」

「誰が見ているかわからない中で、しかも誰も見ていないという可能性が高い状況で女の幽霊に見立てた人形をゆっくり出し、そして十五秒と経たないうちにまたほんのりひっこめたところでは、そんな女の姿なんて今まで誰の目にも触れたことはないのかもしれない。」

「そうなものだから、物陰や茂み、屋根の上のような場所から女の人形を出しておく時間をちょっとばかり長くしようなんていう衝動は確かに湧き上がるときはあるけどでも、それは厳格に決められたルールだもの。」

「わかってるよ。そうでなければ誰かが一人、ふと教室の窓から、もしくは部活中の気が抜けた時、または放課後歩いて帰っている途中にでも考え事をやめたその瞬間に、視界の隅にそんなものを見たような気がした、なんて状況を作り出すことできない。それはたとえ一人ではなく数人、数十人いるなかでただ一人だけが見つけるようなものでなければならないし、本人が見たかどうかを疑うようなものでなければこの実験の本分じゃない。」

「私たちは噂を起こしたい、女の幽霊を見せたいがために、もう少し、あともう少しだけ人形を出してみようなんていう欲っぽいものは抑えてしまって、あらかじめ見せたい対象者を決めるなんてこともせずただ無作為に見る者の目を意識せず、学校の、町のどの人からも遠い場所にあるような、人が足を止めず、それ以前に通らないような場所においてほんのひと時だけこの人形を出すのみ。そういったことをただ決められた作業としてやっていく他選択肢はないものよ。」

「僕らの目的はだけど噂を起こすことではなく、起こった噂がどう変化していくかを観察することなわけだろう?」

「本当のところはね。」

「であればこんな回りくどいことをしなくても自分たちで噂を作ってしまい、口でもってその噂をそれとなく流してしまえば手っ取り早いのに。よっぽどだよ、こんな手間。」

「何か月前から同じことをあなたは言っているのよ。でもきっと私だからでしょうね、そんなことを言うのは。それはただ言ってみただけ、あなたは本当のところそんな気もなく、ただわたしのお決まりの反応を見たいがためにそう言うんでしょ。」

「うん。そんなことは考えたって実際にはやらない。それも実験のルールなわけだし。」

「この二人はこんなことを話しながら今日も適当に暗くなりそうな時まで作業をし、成果はあったものかどうかまったく意識することもできず帰路に就くのでしょうね。その次の日もまた、その次の時も。」

「四人はそういった活動をしつつ、それぞれの学校生活もそれなりに送っていくことになる。」

「しかしながらそんな日々はずっと続いていくこともなく、もうすぐ終わってしまうのだけどね。」

「実験結果を発表するんだっけ、なにかの場で。でもこのまま成果が無かったらどうするの?」

「聞いてるでしょ?成果がなくても発表することにしてるって。」

「本当に?こうこうこういうことを目的に、秘密裏にこんな活動をしていましたが、結局何の成果も結果も得られませんでした、って?」

「そう。」

「なんか恥ずかしいね。」

「仕方ないけどいいのよそれで。そう決まってるんだから。それに、それはそれでそういう結果が得られたことにもなるんだと思う。何人かは目撃したものの、その経験はその人達の記憶にとどめられたまま誰にも話されることはなく、従って噂にもなることはなかった。人はなにか恐ろしいものを見た気がしても、その信憑性が低ければ大して気にもせず、すぐに忘れ去ってしまうことが考えられるって感じに。」

「だけどそう言うには誰かが見たと仮定しなければいけないじゃないか。」

「そうよ。誰かは見てるわ、きっと。」

「三か月ほぼ毎日のように活動してきたから?毎日ではないか。」

「ええ。それは今日のことかもしれないし、昨日のことだったかもしれない。」

「そうあってほしいものだけど現実は厳しいと思うな。」


彼らの言葉通りその密かなる活動と、それを執り行う四人の学校生活は相変わらず続いていく。その中で自分たち活動を起因とする噂がないものか、学校で交わされるあらゆる噂を耳に入れていくが一向にその兆候は訪れることなく、いつしか四人の誰もが諦めの心境になっていた頃、それは唐突に訪れた。



職員室の教師たち


四時間目の終わり、昼休みの始まりのチャイムが鳴る。

教室からあふれ出てくる人たちの波を身一つで後ろに交わしつつ緊張の面持ちでまっすぐに職員室へと歩みを進める。階段の手すりを左の手のひらで擦りながら駆け降り二階の床に降り立てば、その向こうに職員室が見える。三年生のクラスはどれも授業の終わりが若干遅いのか、廊下に人の姿はない。違う学年の階に降り立つと、部外者を寄せ付けない張り詰めた空気感が襲ってくる様でいつも心細く感じてしまう。

職員室前。

いろいろとすり減った引き戸を引くと雑然と置かれた書類の山が目に飛び込んでくる。どのデスクも紙の束に埋もれてプリント一枚分の作業スペースも無いように見える。昼になったばかりなので人の姿もまばらにあるだけ。直近の先生は用務員の人と話していたり、連絡用黒板に予定かなにかを書き込んでいたりどの方もなにかしら作業をしている様子で、弁当箱を広げている人は一人もおらず、菓子パンを頬張っているのさえいない。

国語の先生がペンを片手に肘をついて目の前のプリントに目を落としているが、紙と顔とがとても近く、その姿は率直に言ってとても子供っぽく見える。普段教室で見る態度とは大分印象が違い、見てはいけないものを見せられている様な気分になった。ここでも部外者感が強い。誰も自分の存在を認識してはいない様子なのが余計に居心地悪い。

そういった仕打ちに対抗するべく、ちょっといたずら心が芽生えてしまう。思い付きだが職員室を訪れた生徒に課せられたルールを破ってみることにした。

できるだけ音をさせないよう引き戸をゆっくりと戻し、少しの隙間を残して締め切らないまま何食わぬ顔で中央の通路をスタスタと歩み行ってみる。このささやかなゲームに勝ちはあるか。しかしたとえ挨拶がないことを注意されることになったとしても、自分なら冗談で言い逃れできるものと踏んでいたりはする。注意すべき近くにいる先生方といえばどれも言うなればいわゆる顔見知りであるし、冷たいトーンで叱ってくるような関係性ではない。そう自負している。

中央通路の真ん中あたりまできたところで、突然三年生を担当する先生が机から振り返ってこちらを一瞥してきて少し驚いてしまった。こちらに向けたその目は、率直に言って怪訝なものを見るような目であり、入室の際の一言がないことを注意されるかと心の中で身構えたが結局なにも言われなかった。ただ見てきただけならばそれはそれで心外である。自分を担当する生徒でない人物にはずいぶんと配慮のない目を向けてくるものだ。職員室など生徒だっていつも訪れている場所だろうに。それに自分には正当な理由もあり、しかもそれは先生に課された義務によってここを訪れているものであんな目を向けられる覚えはない。午後の授業で使う理科室のカギを取りに来たのだから、タイミング的にもなんらおかしいこともない。

糸でかけられたバインダーを開き名簿に日付と時間と自分の名前を書いて鍵箱を開く。この間だって誰にも見られていないに違いない。本来なら誰かしら大人の立ち合いがいるルールになっていることは知っているが、それを守ろうとする人は自分を含めてここには誰一人居ないようだ。隣の部屋から電話する声が聞こえてくる。かろうじて何を言っているかその内容が判別できるくらい。それは少し興味深い話にも思えたが、結局は内容を頭に入れる前に職員室を後にすることにした。


教室に戻れば友達が机を三つ向かい合わせにして弁当を広げていることだろう。自分は今日、弁当ではなく朝コンビニに寄って買ってきた菓子パンとなるが、それで肩身が狭い思いをするわけでもなく、日々三人のだれかしらは弁当であるし誰かしらはコンビニ弁当やパンであり、お互いにどんな弁当かを気にするような仲でもないのでこれもまた気楽ではある。

昼の間どんな話をするかといえば、最近では専ら将来のことになる。それは進路といったようなものではなく、漠然とした夢についてのこと。小さい頃どんなことを夢にしていたかということをもとにそれをネタにして話を展開する。それはまた自分自身のことにあらず、むしろ他人について勝手に想像して話すことのほうがメインとなる。

例えばクラスの男子の誰々について彼が小さいころに持っていたであろう夢はなにか。顔や髪形や目つき等、その見た目によってそれはきっと宇宙飛行士だろうとみればさっそくそう決めつけて、彼がそうなるにはまず今の時点においてはどんなことをしていなければならないのか。かわいい風呂敷を広げて何も考えていなさそうな顔で弁当箱の中のご飯をお頬張っている場合ではなく、昼休みの間も食べる暇を惜しみ勉強に勤しんでいるべきだし、それにまずはその細々とした体に筋肉を付けなければならない、といったことを笑いながら話すのである。

この手の話の進行はこの三人の中の誰が発案したものか忘れてしまったが、汎用性と拡張性を備えたものではあると思う。今彼がしなければならないことをしておらず、その夢を目指すべき水準に達していないとなれば、彼が今現在から盛り返していくには彼がどうすべきかをこちらで勝手に考察し、それを話題にまた話を膨らませていくこともできるし、またそれをするには彼にどういったきっかけを与えればいいかということを想像するのもまた楽しいのだ。

自分たちは彼のことを思っているわけではない。話のネタとしてただ笑う対象にしているだけ。そういう類の話なので、他の人に聞かれては体裁がよくないことをよくわかっている三人は、自然と顔を寄せて小声気味になる。そしてそれは悪口にも通じることがあるかもしれないので、その考察の対象とする人物は女子からは決して選ばず、男子から抽出されるに限られる。

一度そういったノートを作って夏の自由研究としてみようかという話になったこともあったが、単純にみて先生から見た心象はいいものにならないだろうし、もしかしたら他の生徒たちから見てもシャレにならないかもしれないので実行には至っていない。


職員室を出て階段に向かうがその横のトイレに目が行く。廊下は未だ静けさに包まれたまま。

中を覗いて誰もいないことを確認し、まっすぐ奥の個室に入る。これもまた思い付きのことで三年生の階のトイレを使うことなど普段なら決してやらないようなこと。先のちょっとした冒険に味をしめて、もう少し難易度を挙げてみようと考えついてしまったのかもしれない。

入ってみると意外に居心地がいい。トイレというプライベートな空間において顔見知りの声を聴くことはちょっとしたストレスが伴うものだが、三年生の使うトイレということでそういった状況に見舞われる恐れがないという心理が働いているのだと思われる。

快適なひと時を終え、さっさと扉を開けて洗面台に向かう途中で人の話す声が近づいてくるのに気づいた。とっさに引き返して扉を閉める。

話し声から二人一組と読み取ることはできたものの、困ったことにそのうちの一人は個室には入らず洗面台付近にとどまっている様子である。これでは出ていくこともできない。今の自分にはひたすら彼女らが出ていき、この場所が自分以外完全に無人になる状態を待つしかない。

というのも今自分が入っているのはトイレの個室の一つではなく清掃用具入れとなる。

こんな場所から下級生が出てくるのを見たなら、そこにいる彼女は不審に思うに違いないだろうし、顔を覚えられて今後三年生の間で話題にされ、その噂が二年に降りてこないこともないわけではない。今この状況においては絶対に顔を見られるわけにはいかない。

しかしながら、とっさにこの場所に入ったことは悪い判断ではなかったものとも思っている。トイレの個室に入っていたところでどうせ出ていく勇気も自分はないだろうし、そうして待ち続けるとなれば、逆に個室から出てこないことを不審に思われて、状況はより厳しい方向に向かっていたかもしれない。その二人にはこちらがいないと思ってもらったほうがなにかとやり過ごしやすいと踏んでこちらに入ったものである。

一人はすぐに扉を開けて出てきたようだが、今度は洗面台付近で会話を始めてしまった。会話を聞いていると、付き添いできたもう一人の方はどうやら常日頃からこうやって彼女に付いてきている様で、ついてこられた方は呆れながらも強く拒むことはしていないようなそんな関係性にあるらしい。この二人は次誰かが入ってくるまで出ていくつもりがないように思え、どことなく二人に嫌がらせされているような感覚に襲われたが、彼女たちは自分のことを知らないはずと心を静める。どちらにしろ今は我慢して待つしかない。

しかしながらこの二人、なにを話題に長々と話しているのか。

聞き耳を立てて内容に集中してみると、それは思ってもみないことだった。


不思議な偶然もあったものだが、もしかしたらあと二、三日もすれはどこかから耳に入って来たことではあるかもしれない。狭い空間の中一人で息を殺して感慨を得つつも、二人が出ていくのを静かに待ちながらしかし、これを他の者にどのようなことでもって報告するかを想像する。本日活動の予定はなくメンバーが集まる用もないがしかし、やはり放課後に彼ら彼女を集めるべきだろう。

四人は自然に発生させた噂についてその後の様子を観察し、それがどう変わっていくかを記録していかなければならない。それにはその基となる噂、つまりは初めに確認できた噂がどうだったかを正確に記録しておく必要がある。今初めてそういった噂を聞くこととなった自分は、この内容をできるだけ漏らすことなくそのままをメンバーに伝える使命がある。彼らに会う前にもしっかりとこの内容を忘れないよう、なにか媒体に記録しておく必要はあるだろう。不意の出来事だったのでスマートフォンの録音アプリも立ち上げそびれてしまったし、今はその内容を聞くことに集中しなければならず手が離せない。もしかしたらしばらくはここから出られないかもしれない。彼女たちが去って誰もいなくなり、トイレを出るチャンスが訪れたところで自分は聞いた内容をこの場で記録し、入力し終えることを選ぶのだろう。教室で待つ二人は自分のことを多少心配するだろうがしかし、たいして待つこともなくそれぞれ食べ始めて食事を無事終えることはわかっている。そういう人たちである。あの二人はこの実験の存在を知らない。

聞いた内容を書き記す際はメモのように箇条書きにするだけでよいだろう。誰に提出するということでもない。しかし書いた内容は一通り見て書き漏れがないかをチェックし、何時何分に聞いたものかは忘れずに記しておきたい。

焦る必要はない。噂は起こったのだから。

これは喜ぶべきこと。

しかし、一つだけ懸念がある。このまま清掃道具入れに留まった状態で彼女たちがトイレを出ていくのを自分は見送ることになるだろうが、それではその二人の顔を見ることなく終わってしまうことになる。それは重大な機会を失うことを意味してはいないだろうか?今後なにかしらの理由でその噂の源泉を辿る必要性が生じることがないとも言えない。もしそうなった場合、この二人の顔を知っているかどうかでその作業の労力は大きく異ったものになる。

他の三人に聞いたならどう答えるか、メンバーの誰かはきっとこう言うかもしれない。噂を辿る必要なんて今後生じることはない。それはだって、どうせ自分たちのしていたことに行きつくことになるってことなんだから。それでも自分はなんとなく本当にそれでいいものか思ってしまうのだ。根拠もなく。

そもそも自分の考える、噂を辿る必要とはどういう時のことを考えているのだろうか?


「でもこんな話をしていると知られたら頭がおかしくなったと思われないかな?」

「わたしはそうは思わないけど。でも誰かとなればそう思わないとは限らないかもね。今の時期だし受験はまだ先だけどでも、プレッシャーがかかってきていることは確かだもの。受験でノイローゼになったと決めつけてくる人もいるかもね。」

「そうなったら嫌だな。面倒くさいやつだって思われて敬遠されるようになったならそれこそ心を病んでしまいそう。ねえ、あなた以外に今の話は聞かれたくなかったかも。」


鼓動が強くなる。自分の存在が知られたらどうなるだろう。


「なかったことにはできない?」

なにを?

「誰かに聞かれてしまったら本当に困る。今の話はもうしてしまったことだけど。誰にも聞かれなかったことにできるものなら、そうしてしまえないかしら?」

「そうね。」

「なにかしらの方法があれば手間はかかってもそうしたい。いいえ、そうじゃないといけないの。ねえ、あなたはどう思う?まじめに考えたならいい方法でも浮かびそうだとは思わない?ずっとそこにいるのなら。」



未希


ぼーっと浮かび上がる女の顔。

見晴らしのいい場所で周囲の景色を何気なく眺めているようなときに、こちらを見つめてくる女がいるらしい。

その女は化粧が濃く、目元はアイシャドウがぼやけて全体的に暗くて瞳がどこにあるのか判別がつかなくなるくらい。口元はキュッと絞められて口角がわずかに上がっており、微笑んでいるのか怒っているのか判別がつかない。しかしそれよりも股の付け根まで延びた長い髪と、異様に高い背と、着ている薄い水色の無地のワンピースの印象が強い。

あまりにもじっと見つめてくるものだから、こちらとしても目が離せなくなってしまうのだが、なにかのきっかけでふと目を離したなら、次の瞬間には女は既にその場から姿を消してしまっている。

それはいつも遠くにいる。

しかしもしもすぐ近くで目にする機会に出会ったなら、それの右の手を見てはいけない。そこにはなにも無く袖がヒラヒラしているだけ。右手の切り口を見たものはどうにかなってしまうのだそうだ。


足音が近づいてくる。この感じは未希だとわかる。

学校の敷地で一番高い木の下で、脇に自転車を止めながら一人待つ。そこは下駄箱が並ぶ校舎の入り口とサッカー部とソフトボール部が練習しているグラウンドのどちらの様子もが見える見晴らしのいい場所。

走ってくる彼女の姿が大きくなってくるにつれ、校門を出た後で彼女と何を話して帰ろうかワクワクしてくる。

スマートフォンの電源ボタンを押して画面を消すとポケットに仕舞う。

彼女は徒歩通学なので、自分は自転車を押しつつ途中まで一緒に歩いて帰るのを日課にしている。


「ごめんねこずえ。待った?」

「ううん。」

「なんだかいつも悪いよね、自分が一緒に帰りたいからって。」

「わたしだってそうだからいいのよ。」


待つことは全然苦ではないし、実際のところ彼女にはそんなに待たされたことはない。なにか用事ごとがあったとしてもこちらを待たせることのないように早めに抜け出してきてくれていることはわかっている。なぜそうしてまで一緒に帰ろうとするのか。なぜかと聞かれればそれが二人の日課だから、そう返すしかない。彼女ならきっと言いそう。二人がこうして一緒に帰りだしてからというもの、ずっと欠かさずこうしてきたように思う。もしかしたらそうでなかった日もいくつかはあったかもしれないが、そんな日のことなどは忘れてしまった。彼女といるときはいつもただただ楽しいばかりで、悲しいとか嫌な気持ちになることがないので記憶にもあまり残らない。

少し寂しいがそれでいいと思っている。

しかし彼女と友達になるきっかけとなった日のこと、その時の出来事なら覚えている。去年のある実力テストでのこと。自分が彼女を助けたことがきっかけになる。そのテストはどのようなものだったか詳しくは忘れたが、内申点に影響する厳格なものだったように思う。

一日かけてテストを実施してきた中での最後の時間。彼女は一番後ろの席に座っていた。最終テストの終わりの合図がされ、彼女からテストを受け取り自分のプリントを重ねようとしたその瞬間、あることに気がついた。渡されたテストの名前の欄には何も書かれてはいなかった。ほぼ反射的だったと思う。自分はそこに名前を書き込んだ。彼女の名字と名前を。なぜそうしたかと言えばそのテストは厳しいルールで実施されていたこともそうだが、事前に教師からそういった書き忘れも一切認めないことを例に挙げてあらかじめ聞かされていたためである。しかしその行為は教師の目にとまってしまったらしく、大きな声で叱られみんなの前で大層恥をかいた挙句、放課後職員室に呼び出されてこっぴどく叱られる羽目になってしまった。危うくカンニング扱いでダメになりそうになったが、本当のことは最後まで言わずじまいだった。正義感だかなにかはわからないが、その時は叱られてもなんら心にダメージを受けることはなく、逆にその態度がにじみ出てしまったのか教師の説教を長くさせた。ひどい言葉でののしられもしたが、結果的にテストをダメにされることはなかったので悪い教師ではないと思う。自分にとって。

当の彼女はと言えばそのことに気づきもせず、自分が説教を受けているその最中もなにくわぬ顔で下校し、その次の日からも自分とは別になんの仲でもない日々を続けていくこととになる。しかしテストの結果が返される段になって、名前の欄に自分の筆跡でない名前が書かれたものがあるのを見た瞬間彼女は思い出す。最後のテストに名前を書き忘れたことに。それにもかかわらず、今手元にあるプリントには身に覚えのない筆跡で自分の名前が書かれてある。彼女はそれを書いた主をその日の記憶を思い返してすぐわかったようであるが、当の自分はといえばあの出来事の翌日からもそんなことはすっかり忘れていたように思う。


「お礼はなにがいいかしらね。」

彼女は私と顔を合わせる時には、つまり毎日のようにそんなことを私に聞こえなくらいの声で呟きながら、その機会をうかがっては私と一緒に行動するようになった。


「その時が来るまで身構えてるのよ。でもそれではあなたがミスを犯したり、ピンチに陥ってほしいって思ってるみたいに聞こえてしまう?」

「そうね。」

「まあそれでもいいかな、別に。あなたは大丈夫なんだから。」

「大丈夫って?」

「そういう時になってもその横には必ず私がいるわ。」

「その時を待ち望んでいるのは確かなようね。」

「ええ。でも変な期待はしないほうがいいかもしれない。些細なことじゃわたしは見て見ぬふりすると思うからね。それはよほど重大なことじゃないとダメ。」

「私のしたことってそれほどのこと?まるで命を助けられたみたいに思ってない?それはあのテストは結構重要だったし、あなたは状況的に見て大分助かったとは思うけど。」

「テストはさして重要じゃないのよ。それよりもあの当時の私達ってただのクラスメートであって友達というわけでもなかったものじゃない?」

「そうね。私達はお互いにどういう人か知らないで、そして互いを知ろうという必要性がある状況もさして訪れない感じだった。」

「そうであるのにも関わらず、あなたは自分を犠牲にしてまで友達でもないこの私を助けてくれたのだもの。」

「結果的にはね。とっさのことだったし。」

「それにあなたは、よく知らないはずの私のフルネームを書いてくれたわ。しかも全部漢字で。クラスメートの分の全部を知っていたわけではないでしょうに。」

「そう。偶然知っていたのよね。」

「あの後も、そのことに気づいてない私に対してなにも言ってこず、だから私も気づかないままだったものだけど、それにしてもあの出来事の直後からもなんら態度を変えずにいられたんじゃ、わたしもそういう態度で返すしかないものだわ。」

「自分は本当に忘れてしまっていたのよ。たぶんその翌日にはね。」

「よくそんなことが出来たわね。」

「お父さんから言い聞かされたある言葉があるのよね。」

「ある言葉?」

「売った恩はすぐに忘れること。」

「格言みたいなもの?」

「父によれば人に売った恩というものはすぐに忘れてしまったほうがよいもので、もしそういったものを忘れることがなければ、売った恩に対する見返りを知らず知らずの内に求め始める気持ちが芽生え始め、そうするうちにどんどん自分自身が心の狭い人間になっていくことになり、結果的に損をしてしまうことになるらしいの。今までその言葉を意識する機会というものはなかったけど、今回のことでその意味をよく理解できた気がするわ。」

「その時もあなたはその言葉に付き従って、自分だけが知っている恩なら忘れないといけないと思ってそうしただけではあるものの、そうでもしていなかったらあなたはこの私に対して嫌な印象を勝手に抱き始めてしまい、悶々とした日々の中で心を濁らしていたこともあったかもしれない。なんて感じ?」

「そうね。私の中であの出来事は、あなたとこういう関係になることが出来た良いきっかけ。恵まれた機会っていう印象があるだけね。」


彼女は知らないだろうが、こちらだって彼女のためにまたなにか助けになれるような機会はないかと日々探しているのである。彼女からなら相談だって受けたいし相談もしたい。それこそ知らないだろうが彼女が一緒にいてくれてこちらは本当に助かっている。

自分はクラスの様々なグループに顔を出しては適当に盛り上がって話したりはするがしかし、実のところなにか特定のコミュニティに落ち着くということもなく、渡り鳥のように気の向くままに行きたいところを行き来するだけ。そう聞くだけだといい立ち位置にいるように聞こえるが、端的にいうとどこにいても落ち着かないためにそうなっていたに過ぎない。彼女とこうした毎日を過ごす以前の日々について思えば、ずっと一人だった印象が強い。実際にそうだったのだろう。こういったことは彼女と行動するようになって初めて気づいたことで、以前の自分なら学校生活はこんなものだと思っていたし、彼女と出会わなければそれはそういうものとして捉えたまま疑うこともせずずっと過ごして行っていたものだろう。そしていつか彼女というきっかけによらず、なにかの拍子に自分のそういった現実に気づいて一人でに潰れていったこともあったかもしれない。

このわたしこそ彼女に救われたものと思っていい。彼女と一緒に行動するようになってからも、それぞれのグループに相変わらず顔を出してどうでもいいことを話したりはするが、それは言わば外出のようなもの。結局は彼女の横に収まる。そこが自分にとって心安らぐ場所であり、自分の居場所となっている。それはどこにいたって変わることはない。夏の市民プール、図書館、自転車で遠出して森のカフェを目指して寂しい田舎道を辿っても、彼女の隣に収まっている内はなにも恐くない。また彼女という居場所があることで、私は以前よりもずっとアクティブになれている。それはまた彼女も同じようであるように私は思う。



四人の本題


図書館前の石畳。広い駐車スペースの真ん中。そこは早い時間であっても休日であればある程度の賑わいがある場所。しかし今は先月から続く館内の内装工事で休館となっているためか、その周囲には誰の姿もなくガランとしていて寂しい。図書館はその敷地全体が木の植え込みに囲まれ、その下にはちょっとした人工の草の柵のようなものがあるので、それらの内側に入ってしまえば外から姿を見られることはない。

午前中の青い空気の中、広い駐車場を貸し切った状態で自転車にまたがった四人。午後になれば近所の小学生グループが来てうるさくなるかもしれず、この場所に集まって話すならこの時間の他にはない。それぞれの籠には似たような形のリュックサックが入っているが、どれもペシャンコで中身は入っていない様子。これからどこかに向かう予定もなくこの集まりのためにみなここに来て、その話し合いが終われば適当に寄り道でもしたりしなかったりして帰るだけのつもりでいるのだろう。騒ぐセミの数は少ないがその個体数によってうるささに変わりはないようで、ある程度喋る声を張ったところで敷地の外に会話が聞こえることはまずないように思うが、しかし自然と声を潜めてしまう。

四人で集まって話すときはそうするのが癖になっている。今まで行ってきた活動の性質上仕方のないことかもしれない。

ギアを意味なくカチカチ切替えながら室浜は周囲を伺うが、木々や図書館の建屋はなんら変わったこともなく、緑化設備の向こうに時折透けて見える道路には誰の姿もない。館内の様子もシャッターが閉めきられていてうかがい知ることはできないが、きっと中には誰もおらずこの箱もまた今は無人の建屋と化している。

視線を戻してみる。

それぞれの話す姿勢はどれも違っていて、ハンドルの形状に影響されて前傾姿勢になりつつそこに肘を乗せているのもいれば、背筋をまっすぐに伸ばして手を添えているだけの彼女の姿もある。折れ曲がったママチャリタイプのハンドルとマウンテンバイクのようにまっすぐとしたタイプのもの。自分の自転車は後者になるが、どちらかといえば前者の方が楽でよさそうだと最近羨ましく思っていたりする。ギアもあったりなかったりするが、ギアがない方の自転車にはバネがあるとかで、漕ぎ心地が幾分か快適だと聞いたことがある。


「その噂っていうのはやっぱり変化した後のような印象を受けるわね。」

「変化って?」

「人づてに話されていく中で最初の最初されていたような話からは既に変わってしまっているってことよ。」

「右手が無くて、その切り口を見るとどうにかされるという部分のことだね。」

「だけど私たちが最初に耳に入れることができた噂がそれになる訳だし、それを基にこれからやっていくしかない。」

「そうだね。」

「注意深くアンテナを張り、その噂がどのような感じに変わっていくかをちゃんと知っていかないとね。これからが私達にとっての本番なんだし。」

「第一段階の打ち上げは成功したということだ。長かったよここまでが。」

「努力した覚えはないけど、忍耐がいる作業だったもの、達成感はあるわ。まあ緊張感はこれからも保っていかないといけないけど。」

「そうだよ。あれらの作業を無にしてはいけない。実験は成功したということでもないんだから。こういう噂を起こすことができましたってだけじゃ、ただの迷惑集団になってしまう。」

「本当に大丈夫?」

「なにが?」

「この中の誰も不正なことはしてない?」

「手っ取り早く口を使って噂を流していないかっていうこと?」

「言ってたじゃない、そのほうが簡単なのにって。」

「そんなことはしないけどねってちゃんと言っていたじゃないか。僕だって苦労してきた四人のうちの一人だ。四月からずっと暇でもない生活の中から時間を作ってさ。いや、そうじゃなかった、去年の分も含めるともっとだよ。」


四人は四月からこういった活動を始めたわけではない。去年の冬も同様のことをしていた。

前回は十二月の冬休み期間中のこと。あれはとても寒かった。雪が積もった日は合計で四日間くらいしかなかったし、そういった日は活動を控えたりしたものだが、冬の乾燥した風の中、野外で人形を出す作業はたとえ短時間ではあっても辛かった思い出がある。作業自体よりも移動が寒くてしょうがない。冬の風はなぜかいつも真正面か斜め前から向かってくる。現場に着いてからは自転車を漕いで火照ったその身体で汗を少しばかりかきながら、ラーメンを食べているときのように鼻水をずびずびすすりながら作業に臨まなければならなかった。しかもすぐに冷え始めるのだ。あの時はまだ作業に不慣れだったので、今のように二人一組ではなく常に四人体制でいつもやっていたもので、よく活動の終わりにコンビニエンスストアに寄っておでんを食べていた覚えがある。冷えた体にたまごと大根が本当においしかった。いつもひとつか二つのカップに結構な量をいれてそれをつつきあうということをしていると、小学生になった気分で恥ずかしいんだか、楽しいんだかよくわからない感覚になったものだ。スープはいつも棚葉か室浜が飲み干す役目を買って出たが、本当は自分も飲みたかった。もちろん自分以外の誰もその容器をつついていなければの話にはなるが。

冬の活動と四月から始めた活動の内容に違いはない。唯一違っていたのはその人形だけで、去年の冬は今のような藁人形ではなくマネキンを使用していた。女を形作る藁が確保できないため仕方なくその代用としていたもの。

大晦日と三が日の間、雪の降った日を除いては冬休みのほとんどを費やしてやっていたように思う。自分たちはよほど暇だったのかもしれないが、その作業には使命感もあったし結果に対する期待も当然のように抱いていた。

三学期が始まると人形を出す活動はやめ、噂が出るのを待つことに専念した。日々ワクワクしながら、学校で互いにすれ違うたびにアイコンタクトかなにかを交わしながらまた毎日のように集まって、そういう噂がなかったか確認しあったものである。後から考え直せば、そういうことを耳に入れた時点においてだけ招集をかけるようにしておけばよかったかもしれないが、結果的にはそれでよかったものと思う。そうしてしまってはこの四人はそれ以降一度も集まる機会もなかったのだから。四人にとってその三か月は非常に長いものとなった。今か今かと待ちながらその兆候も確認できない日々、互いになにもないことを確認しあっては挫折感を味わった。寒い思いをした甲斐が何の成果ももたらさなかったことを知った四人は、薄くなった期待と冬の辛さの中で得たノウハウを持って、また四月から作業を再開することに決めた。それでも四人が険悪な雰囲気にならなかったのはあのおでんのおいしかった記憶がまだ仄かに残っていたからだろうか、特にこの自分についてはそうかもしれない。


「今までの作業を無駄にするようなことはしないわ。他の人はどうなの?自分の口から噂を流してしまったりしていない?言うなら今しかないわよね、タイミング的には。誰かいない?」

「どう?」

「大丈夫。」

「大丈夫ってどういうことよ?」

「やってないってことだよ。」

「でももしそうなら、どうすれればいいんだろうね。」

「もしそうなら?」

「この中の誰かが、口で噂を流してしまっていたなら。ルールを破ってズルをしたのでは、これからどう観察していこうともそれは意味のないことになるのかな?」

「そうらしいね。」


実験のルールは厳格に守られなければならない。しかしそれを決めたのは四人ではない。実験自体をこの四人が、もしくは四人のうちの誰かが発案したものではなくこれはどこかの誰かが考えだしたものにあり、実験者である我々はその誰かによって決められたルールをただ守ってその手順に従い実行するだけ。

人形をわずかな時間ばかり出してひっこめることも、それによって誰かがふと女の霊を見た気がする、といった状況を作り出し、それをもって噂を発生させることもすべて決められていたこと。実験の目的は噂を引き起こしその移り変わりを観察することと示されてはいるが、その目的のため、なぜこういった手順を踏む必要があるのか自分たちは実のところ知らない。

話によると、その理由はどこかの大学教授が知っているらしい。大学の権威のあるその教授はこの実験を発案しその方法を取り決め、それを行うべく学校関係者に依頼をしたものの、なにか致命的な手違いが生じたことによって教授は誰がそれを実施しているものかわからなくなってしまったのだという。それによるならば、その実験の実施者がこの四人にあたるわけで、当人たちもまたその発案した教授がどこの誰だかを知らず結果を提出する相手もわからないという事態となるが、実験の結果を発表し公表すれば、きっとその教授に見つけてもらえるだろうと四人は踏んでおり、その報酬すら期待している節がある。所詮は学生相手の依頼にはなるので報酬はどうであるかはわからないが、実験の協力者としてそれぞれの内申にだいぶ有利には働くのではないだろうか。しかしながら四人が実験を続けてきたのは、そういった報酬やご褒美を期待してのことではないように思う。小学生でもないのだし、男女が一緒に活動するなんてことは学生生活においては部活においてもそういう機会は無いもので、こういった実験という理由がない限り男女が一緒に行動することはまず無かっただろうし、用もないのに男女が一緒にいては、他からチャチャを入れられなくてもお互いを意識してしょうがなかったことだろう。四人はただ四人として集まる口実として、この実験という機会をいつからか欲していたように思う。また作業を継続してきた理由はそれだけではなく、こういった実験の手順を実際に実行に移すことで本当に噂が起こるものか、そしてその起こった噂がその予測通り変化していくものかどうかを実証してみたかったこともある。時間を持て余し、暇がある四人ともがまた実験をやめる理由をさして持ち得ていななかったことも大きい。


「そろそろ暑くなってきそう。」


朝の早い時間が過ぎると途端に辺りの空気は熱を持ち始め、夏のジメジメとした空気に一変する。その直前になればセミたちが一斉に鳴きだすのでよくわかる。室浜が一人そう呟いたのは、これまで進めてきた会話の中にはまだ本題が出ておらず、話すべきことが話されていないことを示し、彼はそのようにしてその話に移るのを促してもいた。口にしてはいないがきっとみんな思っていること。話さないといけないことは確かにある。

なにかがおかしい。

そのなにかとは噂の内容について。四人がみなその噂にきっとある違和感を感じている。


「思うんだけど、噂では女がじっと見てくるってことだけど。」


僅かな沈黙を破って棚葉が口を開く。


「それは目を離すまでずっとこちらを見てくるんだっけ。でもなんだかおかしい気がするんだよね、それって。」

「わかるよ、言いたいことはあれでしょ?僕たちは女の人形をほんの僅かだけしか、時間にして五秒から十秒、長くても十五秒程度しか出してはいない。」

「絶対にね。」

「それなのに、噂を聞くにずいぶんと長くその顔が現れているように思う。どうしてだろう?」

「噂だからじゃないかしら?それもまた人づてに伝わっていくうちに、変わっていったんだと思うわ。人に伝えるその人の願望とかその辺が反映されたりね。」

「顔がずっとそこにあるのを願っているってこと?」

「知らないわ。でもそれはそうあって欲しいっていうより、そうであって欲しくないって感じのことなんじゃない?」

「どういうこと?」

「こういう類の噂だもん。より怖く、おどろおどろしいほうに内容を傾けて伝えていくの。」

「なんで?」

「そのほうが怖いでしょ?」

「わざとそう話していくの?」

「そういうこともあるかもしれないけどでも、わざとそうする人はたぶんいないのよ。聞いたそういう噂っていうのは怖ければ怖いほど面白みを感じるものよ。そしてそれは現実に起こっているかもしれないことだからこそそう感じるもので、そこに創作が加わってしまったのではそれが台無しになってしまう。わかるでしょう?」

「そうだね。」

「だから人づてに話されていく中でそういう傾向はあったとしても、それは無意識での行為になるの。そういった自然的な変化だからこそ私達も観察していく価値があるんだと思う。だけどもしかしたらその人は本当に長い間じっと見られていたのかもしれないけどね。」

「人形は長い間出されていないのに?」

「その人は見たものにとても集中したか怖くなったかして、ごく短い時間をそんな風に感じたの。」

「物事がスローモーションみたいに見えることがあるのなら、」

「時間が長く感じることだってあるかもしれない。確かあなたもそういうことがあったわよね。」

「うん。」


違う、そうではない。

そう話しながらしかし、皆の頭にある違和感はそのことではないのだ。今のことは、それを話すのを躊躇しているばかりに別の話を持ち出したに違いない。もっとずっと重いものが目の前に横たわっている。その違和感とはなにか。

それは女のその容姿にあった。噂で話されるその女の姿かたち。どうも話を聞く限り、その女のそれは四人が扱ってきた藁の人形のことではないような気がするのだ。

化粧が濃く、目元は瞳の判別がつかなくなるくらいにアイシャドウが散らばって全体的に暗い。そして付け根まで延びた長い髪。微笑んでいるとも怒っているともとれる絞められた口角。人づてに伝わっていく中で、伝える人が勝手に想像しそのように口にしたと考えるのが普通だが、どうしてもそう思えない事情が四人にはあった。その見た目はあるものに似ていた。

以前使っていたマネキン。なんとなくそれに似ている気がするのだ。藁人形を作る以前、去年の冬休みに使っていたそのマネキン。しかも噂の女は右手が無いというが、そのマネキンは右の手の先を欠落していた。そのマネキンは全体的に薄汚れていて、自分はそれに口紅を塗った記憶がある。より感じを出すためにメイクを施そうということになり、自分の僅かばかりのメイク道具を使うのもいやだったのでわざわざドラッグストアの化粧品コーナーで買ったのだ。後から百円ショップで買えばよかったと後悔したことも覚えている。あのマネキンは表情がよく読めなかった。

四人は既に起こった噂に注視しつつも、それぞれが変わらぬ学校生活を続けていくことになったが、それきり定期の集会はやめ、用事が無ければ集まることもなくなった。

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