猫かぶり系主人公の日常の崩壊3
「……おにいさんとおねえさんは、"ぼうと"じゃないの?」
齢十に差し掛かっているかどうかという少女は、京と女性に問うた。
ぼーっとした表情で可愛らしく小首をかしげるその姿は、平常であればかわいいと周りに騒がれたはずだ。だが、鮮血に染まった衣服が否が応でも非日常であると強烈に主張する。
待て、何かおかしいぞ。京の勘はそうささやく。
なぜこんなところに少女が一人だけで突っ立っている? 親はどうした、殺されたのか? 血まみれの衣服は親が殺された時に飛び散ったものか? だが、すぐにでも殺せそうな獲物を理性で動いているとは思えない暴徒が逃がすか?
京の頭の中をいくつもの疑問が駆け巡る。
しかし、それは隣の女性により中断される。
女性は、取り出したハンカチで少女の手と口元から垂れている血を素早く拭い去り、話しかける。
「……ああ、そうだ。わかったら、こいつの背中に乗れ」
女性が京に目配せをする。
「ほら、僕がおんぶしてあげるよ」(はいはい。わかりましたよ、こうすりゃいいんだろこうすりゃ)
京はしぶしぶ自分の背中を差し出して少女に乗るように促す。
血まみれの服が気持ち悪いなぁ、などと思っているが京自身の服もすでに血で汚れているので五十歩百歩である。
「……おんぶ?」
「まず、僕の背中にくっついて。それから腕を僕の首に巻き付けるといいよ」
信じられないことに、少女はおんぶを知らなかった。
わざわざ説明する京だが、少女は動かず。結局京が無理やり少女を背中に乗せて持ち上げることになった。
「さあ、行くぞ」
「そのまましっかり捕まってて」(あぁ、べちゃっとしてるよぅ。気持ち悪いよぉ……)
「……」
背負うなり、京と女性は一気に走り出す。体重は軽いとはいえ、大人を運んでいた先ほどに比べれば楽なものだった。
少女がいきなりのことに驚いたのか、腕を離そうとするが京が持つ位置を変えることにより事なきを得る。
そのまま、正門へと駆け抜けていくが、ここでついに恐れていたことが起こってしまった。
「ウホホホホホ!!!」
目の前に暴徒が立ちはだかる。暴徒は吠え声をあげた後に、腕で胸を叩いてポコポコポコと音を出した。ドラミングだ。
その暴徒は、外見からすると人間から逸脱はしていないように思えるが、他の暴徒たち以上に発達している上半身は、京たちに強烈な圧迫感を与えてくる。
その姿とドラミングをする特徴を持つ獣といえば、"ゴリラ"。
いわば、凶暴なゴリラが京たちの目の前に立ちはだかっていた。今までの暴徒たちの力からして、その腕から繰り出される打撃を一発もらっただけで動けなくなるのは必至だ。
京の足がすくみ動けなくなっているとき、女性が一歩踏み出し暴徒の前に立ちふさがる。
「少年、そこを動くな」
武道に詳しくない京が見てもそれととれる、堂に入った構えをとる女性。その体からは微塵の恐れも感じられず。
理性の消え去っているゴリラの暴徒は、最も近い獲物――女性に対して襲い掛かる。
「力を得れど、得られず。それ示すはすなわち――破滅だ」
女性は、とびかかってきた暴徒の腕を交わすと同時に、首に手をかけて後ろに回り込む。
そして顔にかけた片手で、ぐちゅり、とその両眼をえぐり取った。
「ウオオオオオおぉぉぉッッ!!」
悲鳴を上げる暴徒の背中を蹴り、宙で一回転。華麗な着地を見せた女性は、
「行くぞ」
と一言だけ京に声をかけて走り出した。
京は反射的にその言葉に従っていた。
(こ、こええええぇぇ! なんだあの女! 微塵も躊躇せずに目玉をえぐりやがった!! 想像以上にやべぇ奴じゃねえかッ! ああ、こんな女とは早く別れて逃げ去りたい……)
京が女性についてあまり考えないように無心で走り、正門まであと数メートルの地点で、暴徒に襲われても一言も発しなかった少女が声をもらす。
「あたたかい……こんなの――しらない」
京から離した手で頭を押さえて、うーうー唸る少女。そのせいで京は非常に運びづらい状態で走らなければならない。
「よし、出れた!」(いよっしゃぁぁ! これでこの面倒臭い女たちとはおさらばだぜぃ!)
「患者も逃げたようだな。では、私たちも逃げるぞ」
「しらないしらないしらないしらない……」
京たちが駐車場から救出した患者たちはすでにどこかへ逃げ去っていた。
女性の指示に、京が被った猫でも内心でも、大賛成と返そうとしたとき――背中の少女が動く。
「しらないしらないしらない――こわい。こわいこわいこわいこわい……いやぁーー!!!」
叫びだした少女は、京の背中で体を激しくよじらせる。
京が驚き少女を離してしまったことで、少女は地面に打ち付けられる。
それでも少女は、打ち付けた部分を抑えることなく、両手で頭を抱えて悶え苦しんでいる。
「大丈夫かい!? 落ち着いて! 早くここから逃げないと!!」(ああああああああ。いやだ、もう。今度は何なの? ホントやめてよ……)
二転三転する状況にうんざりする京は、ここでいきなり苦しみだした少女を見捨てては行けない。
とにかく落ち着かせて、女性に少女を押し付けて避難させなければならなかった。
少女のもとにしゃがみ、手足を抑え込んで目を覗き込む。
「ほら、僕は暴徒じゃない。大丈夫だから、一緒に逃げよう」
安心させるように京は微笑んだ。
少女はぴたりと動きを止める。
京は抑え込んでいた手を離し、微笑みを維持したまま静かに語りかける。
「……は、ん。ご……ん」
「落ち着いたかい? ほら今度は抱っこだよ。しっかり捕まって」
「ご、は、ん」
その言葉に京は猛烈に嫌な予感がし、その感に従い少女から離れようとする。
少女から手を離し、立ち上がろうとしたとき――腕を掴まれた。
こちらに近づいてきている少女の瞳と京の瞳が合うと、彼女の瞳は黄金色に染まり、真ん中に細長く縦に伸びた黒の瞳孔が浮かんでいたのがわかった。どう見ても、人間の瞳ではなかった。
一瞬気を取られた京は、京の首を掻き抱いてきた少女を振り払うことができず、そのまま――
「ぐあぁぁぁぁ!!」(いてぇいてぇいてぇいてぇいてぇいてぇいてぇいてぇいてぇいてぇ!!)
少女のとがった犬歯が首元に、がぶり、と突き刺さる。
京は少女の体を掴み、自分から引き離すように全力で投げた。
くるんと空中で一回転し、手足すべてで衝撃をやわらげ着地した少女は、京の方を睨み威嚇する。
愛らしい顔は怒りという感情がブレンドされることで、見る者に数段上の迫力を与える。
(こ、こいつ……! 噛みつきやがった! 人がここまで連れてきてやったというのに!! 人の善良な意志を踏みにじりやがって、クソガキが!!)
首元を抑えた手を目の前に持ってくると、月明かりに照らされた血がぬらぬらと光っていた。
応急手当は、感染症は、病院は。急いで治療したい京だが、状況の変化はそれを許さなかった。
「グォォォォオオオオオ!!!」
「ウオオオオオォォン!!!」
「ギシャアアアアアァァァ!!!」
駐車場を見ると、今まで目の前の獲物に夢中だった暴徒たちがこちらを向き吠え声をあげている。
「一体、どうなっている!」
女性が変化した状況に戸惑いの叫びをあげた。
「うぅぅぅ……こーん!!」
京を威嚇していた少女は地面に手足をつけたまま空に向けて吠えた後、犬や猫がかけていくように四つ足で京たちがいる方向の反対へと逃げていった。
京は、妹に襲われた夢で感じた痛みよりもマシなものの、無視できない痛みに思考を乱されながら生存する方法を必死に考えるが、やはりまとまらない。
女性は、京と逃げていった少女の方を素早く交互に見た後に一瞬だけ、パチリと目を閉じた。
その後、女性はすぐに行動を起こす。
「化け物ども! 私はここだ、ついてこい!」
正門の中央に立ち、化け物たちの前に自分をさらし、京とは反対方向――先ほど少女の逃げた方向へ逃げていった。
(よしよしよっしぃぃ! ナイスだ、ゴリラ女ぁ! これで俺は安全に逃げられるって寸法だな!)
京は女性が立てた作戦に従い、速やかに女性が逃げた方向の反対へ駆けだす。
首元を抑えたままの態勢は走りづらいが、女性が化け物をひきつけることで何とかなるはずだ。
ズボンのポケットに入れてあった奇跡的に汚れていないハンカチで傷口を抑えながら、市街に逃げ込む。
「どこだ、どこへ逃げる……?」
切羽詰まった状況で気付かなかったが、あちこちで事故が発生している。
交差点ではいくつもの衝突した車が見られ、歩道に突っ込んでいる車もある。それらの車のいくつかは炎上し、今にも爆発しそうな恐ろしさがあった。
女性はちょっとした事故があるが、と言っていたがどこがちょっとした事故だよと悪態をつく。
京は月光や炎の明かりを頼りにあちこちへ視線をやりながら走り続け、逃げ込めそうな場所を探す。
不思議なことに人はさっぱりいない。精々子供を探し回る母親や、よぼよぼと歩く老人ぐらいのものだ。
病院外で出会った人物はそれを除くと、あの女性一人だけだった。
「一体どうなっている? 何が起こっている!?」
思わず口に出してしまう京。
状況の理解に努めようとするも、それは"彼ら"によって邪魔をされた。
「グルルルラァァァァァアア!!」
「ギシャシャシャシャァァァ!!」
京の後方で暴徒が猛然と迫ってきている。
その数は、病院の駐車場で見かけた暴徒の数とほとんど変わらないように見えた。
(あの役立たずの腐れゴリラ女!! 俺を囮にして逃げやがったなぁ、人間の屑めぇ!!)
女性の行動を称賛した過去は頭から抜け、あらん限りの罵倒へと変わった。
女性の行動はまぎれもなく自己犠牲そのものであったが、実ることはなかった。結果が出なければ、京にとってそれは無意味も同然である。
京は、とっさに路地の方に逃げ込み彼らを巻こうとする。だが、暴徒たちは京を正確に追尾してきていた。
(くそっ。どうする、どうする!!??)
後ろを確認しながら走っていたせいか、路地に置かれていたゴミ箱につまずき態勢を崩す。
「あっ――」(まずいまずいまずいまずいぃぃいいい!!!)
反射的に首元を抑えていた手を壁につき、態勢を立て直すが止血用のハンカチを失くしてしまう。
それに構うことなく、前のめりになった勢いを活かしてスピードをつけ必至に足を動かしていく。
路地から無事抜け出せたとき、京は暴徒たちがついてきていないことに気付いた。
抜け出した路地からは、獣のうなり声と何かが叩きつけられる音がする。
「喧嘩か……? だが、どうして……」
原因に思い当たらなかったが、京はそれを幸運と捕らえ、すぐさま逃走を再開する。
逃げるルートの模索に頭をフル回転させながら辺りを見回していると、ここが通ったことのある場所であることに気付く。
(確か、この先には市民体育館――避難所があるはず! この状況下で避難所が開かれていなかったら、俺は訴訟も辞さないぞ、穀潰しの行政がぁ!!)
希望が見えたことで、その足に軽やかさが宿る。
あと少しで暴徒から逃げきれる。助かる!
まさしく、砂漠でオアシスを見つけたような気分になった京。そんな彼を呼び止める声があった。
「先輩!」
デデデデーン。有名なクラシックのイントロが頭に鳴り響く。
これは運命なのか。
いや、京の感じた希望と絶望の落差は、天国と地獄。
(なぜここで、こいつが来る……!?)
諦念を心に宿らせ、振り向いたその先には、炎に映えるブロンドの髪と、それ以上に爛々と輝く瞳を見せる後輩――女木桜の姿があった。