猫かぶり系主人公の日常の崩壊2
「俺、生きてる?」
先ほどまで血を噴出していたはずの首元が妹に引きちぎられる前に戻っている現実に、京はわが目を疑う。
自分の着ているパーカーやベッドのシーツは生暖かい血に濡れており、自分が傷ついていたことを証明する確かな証拠だ。
だが、何度触れて確かめても、そこに傷は一切ない。
「一体、どうなっている? 夢でも見ていたのか? だが、この血はなんだ? あのド腐れメス豚の血か……?」
仮に京が昼間、聖のベッドにもたれかかったときから今まで寝ていたとして、聖が京をベッドの中に引きずり込んだとする。
すると、多少無理はあるが、つじつまは合う……気がする。
その理屈で考えていくと、どうして夢の中で聖が吐血したことが現実に起こっているのか、聖がこれほど吐血したうえでどこかに移動することができるのか、そもそも聖はどこへ行ったのかなど疑問が発生する。
だが京は、今だ混乱から抜け出せず、数分前に自分が確かに"死んだこと"を受け入れることができていなかった。
自分の中でそれらしい結論をつけたところで、京はナースを呼ぶことにした。
スマホで辺りを照らし、見つけた枕元にあるナースコールを使うが、反応がない。
「停電か……? ちっ、行政何やってんだぁ? 誰の税金で飯食わせてやってると思ってんだ、ああ? ざけんじゃねえぞ、クソがッ!」
ナースコールを壁に叩きつけたい気分になったが、それは何とか堪える。設備を破壊したときの言い訳も弁償もごめんこうむる。
ちなみに、京の主な収入源は両親のお小遣いである。アルバイトに精を出し国に税金を払っているわけではない。
京は、とりあえず聖の問題を何とかしなければいけないと、直接ナースに会いに病室の外に出る。
すると、今まで聞こえてこなかった音が聞こえてきた。
怒鳴り声に、獣が吠えるような声。
それに、
「いやぁぁぁーーー!! やめてぇ! 来ないでぇぇぇ……」
女性の悲鳴だ。だが、唐突に止んでしまった。
(なんだ? 何が起きてる? 悲鳴の場所に行ってどうなったか見てみたいが……それはこの状況を理解してからだ)
他人の不幸を見たい、その欲求に釣られそうになったが京は状況の理解を優先する。
一旦室内へと戻りスマートフォンでブラウザを開き情報を検索しようとするが、そもそも通信状況が悪くインターネットにすらつながらなかった。
先ほどの悲鳴が聞こえた正確な場所は不明で、辺りからは緊迫した雰囲気を伝える声が響いてくる。
これはさすがに、聖が脱走したなどと知らせることのできる雰囲気でもなさそうだ。
京は慎重に階下へと向かいながら、情報を集め、隔離病棟からの脱出を目指すことを決める。
階段へとたどり着いて目にしたものは、おびただしい血液の量と肉片。
おそらく人の指と思しき物も落ちていた。
(おうおう。派手にやってんじゃねえか。是非とも拝見いたしたかったところだが……くそっ。他人の不幸もおちおち楽しめたもんじゃない。だが、推測はつく)
ゆっくりとなるべく音をたてないように一段一段降りていく。
順調に三階から二階、一階へと降りていき、ついに一階の廊下へ到達した。
ここから病院の出口まで二百メートルほどだ。京ならば二十五秒あれば十分だ。
だが、脱出するには大きな壁が立ちはだかっていた。
「や、やめろーー!! ――ギャアアアアァァッッ! 俺の、俺の腕ェ!!」
「誰か!? 誰かぁ!! 先生の血が止まらない!! 早く治療――」
「ギシャァァァアー!!」
たった数十メートル先で誰かが襲われていた。
ぼとり、と程々に重たいものが床に落ちた後、ビチャビチャと水気のある音が聞こえる。
(やはり、"暴徒"か)
あたりに落ちている懐中電灯やスマホに照らされ、浮かび上がったその姿はちょうど人と獣の中間ともいえるべき外見をしていた。その姿に交じった獣は、猫系統のものだろうか。特徴的な目と耳の形、鋭く伸びた爪がそう判断させる。
(ああああああ! 何で俺がいるときにこうなる!? せめて、俺が病院の外にでた瞬間になってくれればよかったってーのによお!! 今日は厄日だ……これもあの阿婆擦れのせいだ!! 死んで詫びやがれ!!)
京は心の中で毒づきながら、静かに素早く出口へ向かっていく。
幸い、目の前に"エサ"は豊富にあるようでこちらを見向きもしない。
病院の入り口、自動ドアは動かなくなっていたようだが、誰かが必死に開けたようでガラスに血がついている。その誰かが無傷で脱出できたかは怪しいが、おかげで京はスムーズに入り口を通過できた。
日ごろランニングで鍛えた脚力のおかげで、京は無事病院から脱出することに成功する。
だが、脅威は病院の中だけではなかったのだ。
検査衣やパジャマを身に付けた患者が、獣の特徴がある人間――暴徒に追い掛け回され、嬲られ、殺されていた。
病院前の駐車場にいるのは十にも満たない数だ。だが、彼らは爪や牙といった非常に強力な武器を持っている。それに発達した腕や足が合わされば、人など一撃で沈んでしまう。
(嘘だろ……また隠れ鬼かよ、勘弁してくれよぉ……)
京の心境としては、もうお家に帰って布団に入ってねいたよぅ、である。
起床すると全部夢でしたオチが最高だ。夢ならば、やったぁ人死を目の前で見れたぞぅ! と喜べる。
今は固まっている場合ではない、と自分の命を大事にする京は逃げそうになる思考を捕まえて、何とか状況に対応していく。
とにかく暴徒に目をつけられてはならない。それは絶対だった。
駐車場に残された車の影に隠れながら、人が襲われた瞬間に次の安全地帯へと移動していく。それを繰り返すことで自分だけは生き残れるという作戦だ。
その作戦は見事的中し、何とか京は敷地の外へと脱出――しようとした瞬間であった。
「――これは一体どういうことだ?」
病院の敷地と道路を隔てるブロック塀をたどり、正門となる場所から飛び出した瞬間スーツを着た女性に遭遇した。
「……!?」
京は驚きすぎて、心臓が飛び出そうな気分だった。
罵倒しようにも、言葉すら出てこない。
目を大きく見開き、口をパクパクと動かす事しかできなかった。
「お前、何か知っているのか?」
女性の目が京の血の付いた体を眺めた後に瞳をとらえる。その眼光は、知っていることをすべて話せと脅迫しているように思えるほどの鋭さだ。
京はその眼光で一時的に冷静さを取り戻す。
「あ、えっと……病院内で暴徒が暴れだしたようです。ナースさんや医師が襲われて、おそらく何人も死んでます。今駐車場でも――」
「わかった。なら、助けなければ。少年、お前も来い」
(は? こいつは何を言っているんだ?)
京はその女性が言っていることを理解することができない。正確には理解を拒んでいた。
死人が出ているというのに、彼女はあの暴徒に立ち向かおうというのか。
一人で勝手に死ぬのなら構わない。だが、巻き添えを喰らうのはごめんだった。
京が彼女に断りを入れようとしたとき、
「病院の外は安全だ。多少事故は起きているが、暴徒は見られない。少なくともここの敷地内よりはマシなはずだ」
その言葉を聞いて、保守的な思考が回り始めた。
(おい。もし、この暴徒の惨劇がここだけだったとして、俺が入院患者どもを見捨てて逃げたとする。唯一の生還者とか言われる陰で、あいつは患者を見捨てたごみ屑野郎とか言われんのか……ゼッタイにごめんだッ!!)
この女性が患者を助けた時点で、京は十分な体力がありながらも患者を見捨てて一人逃げた"卑怯者"扱いされる。
この騒動が収まった後のことを考えると、ここで自分一人だけ逃げるという選択肢は京にとって非常に選び辛い。
命は非常に惜しい。だが、もう少しで警察なども駆けつけるはずだ。そんな打算も込めて、京は女性を手伝うことにする。
「……わかりました。僕は、動けそうにない人を背負って外に運び出します。あなたはどうされますか?」
「私は、お前の先導をする。作戦は決まった。とりかかるぞ。まずはあそこにいる者からだ」
女性はスーツ姿にヒールを履いているとは思えないほどのスピードで、駐車場の隅にうずくまり震えている患者の元へ突っ込んでいく。
京は女性に僅かな遅れをとった後、彼女の後をついていく。
「大丈夫ですか? 今外に運びます。背中に乗ってください」(さっさと殺されていればよかったものを)
京は患者を背負い、立ち上がる。
充分に走れそうだと、確認し次第走り出す。そして、病院の敷地の外へ運び出した。
一回目は成功に終わる。
「よし、次に行くぞ。次はあの車のもとにいる者だ」
「ちょっと待ってください。そんなこと言われても見えませんよ」
「ついてくればわかる」
そう言うなり、女性は走り出した。
(なんだこいつ。身体能力はやけに高いし、この暗闇で明かりもないのにどうやって色を見分けた? 不気味ぃ……!)
この場合、そのスペックの高さに安心しそうなものだが、京はただ気持ち悪いと思うだけだ。そもそもその女性のせいで命の危険にさらされているので、良い評価などつけようがなかった。
順調に患者を救い出していく京と女性の二人。
救い出す間にも犠牲となった患者はいるが、それでも幾人かの命は確かに救っていた。
このままだと病院内にも助けに行くぞと言い出しかねない。そんな懸念を持った京は、十人目を救った直後に女性に提案する。
「そろそろ中の暴徒たちも出てくるかもしれません。もう逃げませんか? 救った患者の方がまだ避難していないかもしれませんし」
「……そうだな。時には諦めが肝心、か……わかった。最後にあの子を助けてから、私たちも逃げるぞ」
相変わらず女性の指さす先には何があるのかさっぱり見えないが、女性に従い、京はあの子とやらを救いに出る。
周りから聞こえてくるのは、何かを咀嚼する音。おそらく患者たちの死体がむさぼり食われている。
京はそもそも人がいくら死のうと面白いだけ、という人間性を持っているため平気である。
だが、女性は一般的な正義感を持ち合わせており、実際に行動までしている。そんな彼女がこの状況に対して何ら感情的な反応を示すことなく、京という一般人を巻き込んで、悪びれることなくただ救出に邁進しているのは異常だと京は感じていた。
(こいつもサイコパスかよ……なんで俺はこういう女とばかり出会うんだ……やはり神は殺さねばならない)
勝手にサイコパスだと決めつけ、京は辟易とする。
だが、人に関する京の勘は当たりやすいというのが今までの傾向だ。女性がサイコパスだということも十分にありえることだった。
そんな思考は生き残るためには必要ないものだ。しかし、この状況になってからというもの、思考が高跳び寸前の京である。
強く地面を蹴っているので、それなりに音は出ているはずだが、食事に夢中なのか、暴徒たちは京と女性に襲い掛かろうとはしない。
障害もなくスムーズにたどり着いた先には、まだ幼い少女の姿があった。
「……おにいさんとおねえさんは、"ぼうと"じゃないの?」
血まみれの衣服を身にまとった少女の姿が。