猫かぶり系主人公の日常――の崩壊1
ごそごそと布団が動くのが分かった。
聖の起床を冴えた目で待っていた京は自然と起きた風に見せかける。
「んんー。やあ、聖おはよう」(てめえのせいで3時間も無駄にしたじゃねぇか。あん? どうやって責任取ってくれるつもりだ、こら)
「おはよー、おにいちゃん。あ、やり直し。おそよ~ございます、お兄さん」
ふぁ~、とあくびをする口に手を当てて冗談っぽく聖はそう返すが、京はイラつくだけだ。
だがそんなことはおくびにも出さず、京は微笑みを見せて聖の望み通りにした。
「そうだね。おそようございます、聖」
「うんうん」
ベッドのリクライニング機能を使って体を起こしていた聖は満足げにうなずく。
早く帰りたいと思いつつ、京が時計を見てみると午後六時であった。この時期だと、すでに辺りは暗く染まっている。
「聖、カーテン開けたほうがいいんじゃない?」
「うん、お兄さん開けてくれる?」
京がカーテンを開けると、予想通りに辺りは薄暗く染まり、茜色の空に雲がぽつぽつと浮かんでいる。地面では、様々な色の明かりが今日はこれからが本番だと気合を見せる。
「……やっぱり、お外綺麗だね。いつになったら、わたし、出られるかなぁ」
「大丈夫。きっと元気になるよ。聖は心配せずにご飯食べて、しっかり寝ていればいい」(そして、そのままここで力尽きろ)
笑顔で聖を励ます京。聖はその笑顔を見て元気が出たのか、感傷的な雰囲気を捨て笑顔を見せた。
「そうだ、ニュースでもつけようか。少し寂しいし」
京がそう言って、部屋に備え付けられたテレビをつけると、ちょうど聖にも関係するニュースがやっていた。
テロップには"暴徒一斉蜂起か? 地方病院で暴徒襲撃発生"。
事件現場では、物々しい装備をした警官がある病院を囲っている様子が映し出されていた。報道陣や野次馬も警官に「危険ですから、下がってください!!」と注意を受けている。
『ォオオオオオオオオオオーン!!!』
テレビから狼の遠吠えのような大きな音が発せられ、報道陣や野次馬、警官らが一斉に耳を塞ぐ。
カメラがぶれ、まともな映像が見えなくなったその後、カメラが地面に激突し真っ暗な画面が映し出された。
ワイプで困惑顔を表すキャスターが「――さん。大丈夫ですか?」などと問いかけるが、反応が返ってこない。
『え、えーと。現場は緊迫しているようです。また後程、情報が入り次第お伝えいたします』
そこで、CMに入った。
「お兄さん。あそこどうなったんだろうね」
「……無事だといいね」(くひゃはははは。マスゴミに野次馬どもめ、いいざまだ! これほどいいニュースなんぞ久しぶりだ!!)
テレビをつけたのは正解だったと、京は自画自賛する。
聖は心配そうな顔をして、京に不安を打ち明ける。
「ねえ。わたしもあんな風に吠えたりするようになっちゃうのかなぁ……」
「……大丈夫だよ、聖。お前は優しい子だから、誰かを傷つけることなんてしないよ。それに、聖に【狂獣病】の症状は見られないって先生も言ってたから、心配ないよ」(あーあ。こいつも暴徒化してくれたら面しれーのになぁ)
京は、世間で暴徒化などと叫ばれている【狂獣病】についての情報を収集している。
政府はなぜか情報を隠そうとしている様子だが、SNSや掲示板に対しての情報の隠ぺいは不可能だ。
【狂獣病】の症状として特徴的なのが、性格の凶暴化だ。
何に対してもイラつきを感じ始め、攻撃的な性格になってしまう。また、それに比例して肉体的強度も上がるようだ。【狂獣病】に罹患した六十代の女性が、木でできた六人掛けの机を片手で振り回した、などという信じがたい情報もあった。情報の中には、体中の毛が伸び始めたや爪が急激に伸びたなどの変化が生じたというものもある。
それらの症状が聖には見られない。
異変といえば、少し前から異常に太陽を恐れるようになった程度である。それが原因で【狂獣病】ではないかと疑われ、隔離病棟に入れられてしまったのだが。
昔から聖は体調が弱かったため紫外線を嫌がるのだろうと京は予測している。
以上のことから、聖が【狂獣病】に罹患している可能性は低いと京は判断していた。
暴徒化してくれたら、ナースの取り計らいによって実現しているこのお見舞いもなくなるのに、と京は残念に思っている。
「そうだよね。……ねぇ、お兄さん。もし、わたしが暴徒になってお兄さんを襲ったらどうする? やっぱり逃げる?」
「……もちろん説得するさ。聖やめてくれって。それぐらいしかできないかな。僕は兄さんみたいに武道の才能はないから。それで止められなかったら、もうどうしようもないけど。せめて体を張って聖を止めるよ」
「ふふ。お兄さんらしい……」
そんな場面に京が遭遇した場合、兆候が見えた時点で一目散に逃げるはずである。彼にとって自分の命とは何よりも大切なものなのだ。
「それが嘘でも、わたしはうれしい。わたし、そんなお兄さんが、だ~いすき!」
声を張り上げることも難しいはずだが、聖は強く声を出して京に思いを伝える。
その代償か、ゴホゴホとせき込む。
京は聖の発言に気持ち悪いなぁと思いつつも、看病するために体を動かそうとする。
(――は? どうなってやがる……!?)
が、全く体は動かなかった。
動け、動け! と力強く命じるも手足はびくともしない。非常に気分の悪い感覚だった。
呼吸だけはしっかりと行えているという自覚があるので、なおのこと気持ち悪い。
(本当に何なんだよ、これは!? 俺だけに起きてる現象なのか!?)
京が動けないのに対し、目の前の聖は変わらず咳を出し、ううぅぅ、とうなりながら体を苦しみによじっている。
よく見ると、枕元に血を吐き出していた。
(おいおい。目の前で血を吐いてるっつーのに、近くで眺めることもできないのかよ。「大丈夫かっ!」とか言って体をゆすってさらに苦しめてやりたいのに)
こんな時でも、いい人を装いつつ人を苦しめる方法を考え付く京だが、まだ体は動かず。
聖が苦しみだし、京が体を固めたまま一分が経っただろうか。
"世界"に変化が訪れる。
部屋の蛍光灯がバチバチ、と音を立て始める。
次の瞬間、パリンッと音を立てて割れてしまった。
それは外でも同じようで、外の明かりも中の明かりも全て消え去り――世界は【夜】に支配される。
明かりが一切ない世界で、京の体は依然として命令を受け付けることはない。
暗闇の中でわかるのは、聖が苦しみに悶えている様子だけだ。
その聖の苦しむ声が――消える。
静かな闇に満たされた部屋に薄明かりが差し込む。雲を押しのけて現れた月の光だ。
ふわり、と部屋に風を感じた。生暖かい風。
聖のベッドの上には、シーツに吐き出された夥しい血以外には何もなかった。
「――お兄さん」
ぞわり。京の背筋を怖気が走る。
京の背中側から伸ばされたのは、真っ白な腕。京の首筋に優しく絡められている。
それは、ぞっとするほどの冷たさを京に伝えていた。
「お兄さん、お兄さん、お兄さん」
耳元でさえずられる声。
さらさらとした髪が京の体の上を這う。
その声は、先ほどまでベッドの上で苦しんでいた聖の声だった。
「ねぇ、お兄さん。わたし、今とっても気分がいい……今なら何でもできちゃいそうだよ……」
京の内心は焦りと恐怖と嫌悪感で満たされている。
(早く早く早く、何してる動け動けよ!!)
今動かなきゃ、俺が死んじゃうんだ。
必至に動こうとするも、やはり体は微動だにしない。
「……? お兄さん、体が動かないのかな? 目だけがきょろきょろしてる……ま、いいよね。よいしょっと」
いつの間にか京の正面に移動していた聖は、京の顔を見て体が動かないのを察した。
それが好都合だったのか、あまり考えずに京の腰をつかんで軽々と持ち上げ、先ほどまで自分が寝ていたベッドの上に横たわらせた。
「お兄さん、本当に動けないんだね。わたしがこんなことしてるのに……いつもなら色々言って断るのにね」
ひらり、と紙が宙を舞うような、そんな軽さで聖は地面から飛び上がり京の腹の上にまたがる。
その姿は――白。宙を舞った後、重力に従い落ちる髪は銀糸のようで、白のワンピースとともに月光にキラキラと輝く。先ほどまでカラスの濡れ羽色だった髪は、すっかり色を変えてしまっていた。
闇に浮かび上がっている瞳はピンクに近い赤色。何も知らぬものが見たら、世界一美しい宝石だとでも言いそうだ。
だが、京にとっては他人ごとではなかった。
動かない体、闇に支配された世界、変わり果てた妹。すべてが異常だった。
これが、局所的に起きていることなのか、世界中で起きていることなのか判断すらつかない。
(くそっ。何だってんだ一体!? こいつ、今まで【狂獣病】の兆候なんか見られなかっただろ!? なのにどうなっている!?)
精神の緊張に合わせて、京の呼吸だけが荒くなっていく。
聖は、京の上に座っていた状態から徐々に体を倒し、京と体を重ね合わせるように引っ付けた。第二次性徴を迎えたばかりの微かなふくらみが京に押し付けられる。
腕は先ほどと同じように京の首に絡ませている。
だというのに、微塵も人の体温が感じられなかった。まるで――死体と触れ合っているみたいに。
「すーっ。すーっ。あぁ、お兄さんの匂い……こんなに近くで……幸せ……」
京に抱き着きながら、自身の顔を京の髪に押し付けで香りを堪能する聖。全身の鳥肌が立ち、京の体が耐えられる限界に近づいたサインを告げる。
聖の瞳が怪しい光を纏う。色彩はピンクから赤へ、血のような赤へと変わり爛々と輝く。
(誰か、誰か助けろ!! 病院関係者何してる!? 監視カメラくらい仕掛けとけよ!! 【狂獣病】の疑いがあったんだからここに放り込んでいるんだろうが!! 無能どもめ!)
先ほど、自身が聖に危険性はないと判断していたことを棚の上にあげ、病院を非難する京。
しかしながら、状況は変わらず。助けなど来るはずがない。
「お兄さん、お兄ちゃん、お兄さん! わたし世界で一番お兄さんのこと愛してるからね。わたし、わたし今ならなんだってやれる! 二人だけで遠くに行って、家を建てて、ゆったりと暮らして。朝はさえずりで夜はさざなみの音で。ずーっとずーっと二人で生活することができる。夢がかなうんだよ、お兄さん! あと愛し合ってるなら"愛し合わなきゃ"だめだよね。えっちして子供をつくろ! 何人がいいかな。二人? 三人? 四人! わたしお兄さんが求めてくれるなら何でもするしなんでもできるからお兄ちゃんわたしが愛して愛してあいして、愛し尽くしてあげる――わたしだけがお兄ちゃんをおにいさんを、愛してあげられる――」
「――だからわたしを愛して」
身の高ぶり。興奮とともに瞳の色が、血よりも濃い吸い込まれそうな赤に変わる。
とろけそうな表情が、だんだんと京の顔――その下、首元に近づいて、
ブチ、ブチ、ブチリ。
京の体を灼熱が覆ったかのように、痛みが体を支配する。
(ぎゃぁぁぁぁああああああ!! いたいいたいいたいいたい、痛いぃぃ!!)
ピシャーッと首元から血が噴き出し、聖の真っ白な体を赤く染め上げる。
視界がカチカチと明滅する。痛みで正常な思考ができない。感情を恐怖が埋め尽くす。
痛みのせいか、目の前に神々しい光を纏った人のようなものを幻視する。そのせいで、視界が機能しなくなった。
「あはぁ……ああ、綺麗。とっても綺麗で――おいしそう。わたしもう我慢できない……!」
ぐちゅり、と聖が鋭くとがった牙を、先ほど千切り取った部分へと突き立てる。すると、京の首から噴き出していた血の勢いが弱まった。
そう、聖は血を吸っているのだ。
「んんぅ……ちゅーちゅー……んはぁ! おいしーよぅ……おいしすぎてぇ――どうにかなっちゃぅぅ!!」
顔を赤く染め上げた聖が口元から血を垂らす頭を左右に振って、赤を帯びた銀糸を揺らす。
だが、それを京が見ることはない。京は、視界は光に埋め尽くされたまま、聖に肉をえぐられながら血を吸われるという状態にあった。
『人―――。―――始――――試――。乗――える――――――とき、終――――る。――に抗―――――――せ』
幻視しているものが何かを話している気がするが、痛みで気にするどころではなかった。
一向に動かすことのできない体。血を吸う妹。ついには幻覚と幻聴。
『――力――――与え―――。――名―【―――】―――。――――軌跡―――――――のだ。
――――しみ乗り越―――、―――祝福――――――。
――、――結果――――――期待――――』
(俺、死んじゃうのか……いやだいやだいやだいやだいやだいやだぁああああ!! ふざけるな! 親友(偽)がハーレムに刺されて死ぬところも見てないし、あの社会の底辺野郎が自殺して両親が後追い自殺も見てない! 何より――このドぐされメス豚が野垂れ死ぬところを見られずに死ねるか!! クソが糞が糞がぁ!! 誰か、俺を助けろ!!)
今まで見てきた中でも最高峰の不幸、例えば兄の不幸話などが頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消え――これが走馬燈、と京が理解しかけたところで、京は死を拒絶する。
このままで死にたくない!
その思いが奇跡を起こしたのか、体に覆いかぶさっていた重みが忽然と消える。
『――これはおまけだ』
牙を突き立てられ肉をえぐられていた痛みが消えたおかげで、最後の言葉はしっかりと聞き取れた。だが、京にとっては幻聴である。
すでに京は大量に出血したせいで意識がもうろうとしていた。
今度こそ、京は自分の生に終わりが来たと悟る。
(ああ、もっと他人の不幸を見たかった――どうせなら俺が突き落としてやりたかった……)
人生の終わりにぶち当たっても、京はどこまでも京であった。
そして、その心臓の鼓動が止まった――。
Ψ Ψ Ψ
――俺、生きて、る?」
茫然として京がつぶやいたのは、時間にして数秒後、血まみれの衣服はそのままに京の体は元通りに動くようになっていた。
お待たせいたしました!
ようやくここから物語が動き出します。
タグ詐欺と思われることもなくなるはず……。