猫かぶり系主人公の日常6
以上の話は、京の希望的観測を通して、京の家を訪れた翔に聞いた話から推測されたものだったが、実際ほとんどの部分は勇が経験したことと相違ない。
親友に好きだった人を取られ、その親友は自分よりも成功し、自分はそれをきっかけに惨めな人生を送り始める。
ありふれた話かもしれない。実際似たような話ならネット上にいくらでも転がっている。
京はそれでも、兄の不幸話を人生で最も輝いている不幸話だと思っていた。
王道の話が一番難しく、そして最も面白い。京はそれを兄の物語で実感していた。王道とはすばらしいと。
Ψ Ψ Ψ
なぜ、知りもしないはずの親友の活動について知っているのか。その質問に勇は黙したままである。
当然、京は質問の答えは知っている。何しろ勇の過去のことは翔から詳細に聞いているのだ。彼の信条を翔が引き継いで、"貧困地域の支援"という事業に取り掛かろうとしているだけのことだ。
だが、京は是非ともその答えを兄の口から聞きたかった。
沈黙する兄、そこで京は気を遣ったふりをして、勇の大学生時代の栄光を「すごいなあ」「さすが兄さん」などと語り始める。勇に輝いていた自分を脳裏に浮かべさせて、それと現在を比較して苦悩させる作戦だ。
客観的に見て、お前のそれは追い打ちだと言われそうなそれでも、京が空っぽで混じり気のないある意味純粋な感情を込めて話すと、そんな意図はさらさら無い様にしか周りには見えないのだから、京の積み重ねはすさまじいといえる。
段々と勇の顔が暗く、苦々しく、変化していく。
そろそろとどめを刺してやるか、と京は慈悲の心を以って終わらせてあげることにした。
とどめは一本の矢。過去に勇の心に突き刺さったままのそれにさらに継ぎ矢をプレゼントする。
「……ねぇ、兄さん。翔さんに伝言を頼まれたんだ。もし、引きこもったのが自分とつららが付き合い始めたことだったら、もう気にしなくていいって。別れたんだって、つららさんと」
京はうつ伏せで見えない兄の顔の代わりに、机の上に置かれた固く握りしめられたこぶしが一瞬緩められたのを確認し驚きを察する。
京の継ぎ矢はもう一本あった。
「あと、仕事のことで兄さんの力が必要だ、って。共に働かないかって。自分の補佐として働くことになるのは申し訳ないが、それでも検討を――」
「――もうやめてくれ!! お前はそんなことを俺に話してどうする!? 俺を苦しめたいのか!? 俺がお前の分まで両親の愛情を受け取っていたから、それの仕返しか!? もう、放っておいてくれ!!」
勇は京に言葉を投げつけ、胸中の怒りのままに机の上の食器を腕で薙ぎ壊す。
ガシャンガシャン、と大きな音に京が怯えたような振りをする。
勇はそのまま二階にある自分の部屋にまで逃げ込んでいった。
(ああ。これ、生きがい……)
勇は幸せの絶頂にあった。明日死んでもいいとすら思った。
どんなことでも自分の上を行っていた兄。
これこそが愛とばかりに、手あたり次第に教育を受けさせていた両親の想像の上を楽々と超えていった優秀すぎる兄。
京の兄に対する評価は、今まで京が出会ってきた人物の中でも最上だ。
容姿、身体能力、何でもこなす器用さ、センス、カリスマ。それら全てが頭一つ抜けていた。
京は周りを馬鹿にするが、本質的には見下してはいない。客観的な評価を行うことができる。
それで評価したとき、自分の才能は精々、現在在籍している学校内でナンバーワンをとることができる程度だ。対して兄は、何かに打ち込むことに本気を出したならば日本一レベルに達することができるだろう。才能オンリーならば、世界のトップを目指ししのぎを削ることだって可能なのだ。
一般的な秀才だった京はそれに追いつくことができず、"勇ならばできた"と兄の方が褒められる姿を見ながら、その言葉を聞いて育った。結局自分の習い事は無駄だと判断されて、十を数えるころにはすっぱり無くなっていた。
両親の愛を受けたいがため、自分を押し殺し一般にいい子と言われる自分を演じ続けた京。それは、京の心をむしばみ続け、やがて変質させた――かどうかはわからない。だが、兄が失敗したときでも両親が自分に見向きもしなかったことをきっかけに変貌したのは事実だ。
現在も過去も、腹が立つのは別にして、京は両親や兄を恨んではいない。むしろ感謝すらしていた。こんな世界に産んでくれて、こんな自分に育ててくれて、世界にこんな素晴らしいこと――他人の不幸があふれていることに気付かせてくれたことに。
あの兄が、純粋だった自分を捻じ曲げる原因になった兄が、自分よりもよほど才能にあふれている兄が、こんなにも愛おしい。
ああ、これが愛なのか。
悟りを開いた京は、今なら何でも許せる気がした。
皿の割れた音に驚いて飛び起きてきた両親を落ち着かせながら、京は布団に入ればぐっすりと眠れそうだと兄に感謝した。
Ψ Ψ Ψ
すっきり爽快に朝を迎えた京は、いつも通りランニングに出かけ、シャワーを浴び、朝食を食べた後、外出着に着替えた。
妹である聖を見舞うためだった。
妹の下着やパジャマなど入院生活に必要なものをバッグに詰め込んで、背負う。
(ちっ。めんどくせーなー。何で俺が行かきゃならんのだ。普通こういうのは親が行くもんだろうに。あの親どもは娘をほったらかして家族ごっことは何をしたいんだろうねぇ。ああ~。今日も一日が無駄になる……)
心で愚痴りつつも、京は電車やバスを利用し、病院への道行きを間違えず着実に近づいていく。
ちょうど今が月の始まりだったので、病院のすぐ手前、小さい書店に立ち寄った。妹を見舞うとき、京は月に一度ある少女漫画雑誌を見舞い品として持っていく。
整った容姿のせいもあってか、店員は京のことをすっかりと覚えてしまい、立ち寄るごとに長々とした雑談を持ち掛けてくる。
(てめぇは店員だろ。私語をするな仕事に徹しろ。いちいち話しかけてくるな、ショタコンの気があるだろこいつ)
この人懐っこい女大生のアルバイトを気に入ってこの書店の常連になるものもいたが、京にしてみれば道中に無駄な時間を食わされてしまう面倒な存在でしかない。彼女と話し続けるぐらいなら、気持ち悪いが物静かな妹のところにいたほうがマシである。
妹が待ってますから、と程々のところで話を切り上げ書店を後にする。
病院に入り、受付のナースに挨拶をするとそのナースが妹の場所に行く先導をした。
「本当はダメだからね」と言いながら、昔から妹が入院するたびにお見舞いに来ていた京を弟のように感じていたナースは京を案内してしまう。
そうして京はたどり着いた。隔離病棟の308号室へと。
「ご案内、ありがとうございました。帰りもよろしくお願いします」
「はい、任されました。妹ちゃん楽しみに待ってたから、元気づけてあげてね」
パチリとウィンクを京にプレゼントした後、ナースは受付に戻っていった。
うへえ、と若くきれいなナースにウィンクをプレゼントされたにもかかわらず気持ち悪がる京。
口を病室前のアルコールで消毒したくなったが、それは堪えてそのまま病室に入る。
「いらっしゃい、お兄さん」
目に入ってきたのは、遮光カーテンにより日光が一切入らない部屋で電動ベッドをリクライニングさせて体を起こし、儚い笑みを見せる妹――聖の姿。
聖は、どこかの国のお姫様と言われても信じてしまいそうなくらい、可憐で美しい容姿をしている。
長期の入院生活により、儚さを纏った華奢な体。その小顔の中でも小ぶりな鼻と大きな瞳のバランスはまさに黄金比。
そして何よりもの特徴として、立つと床につくほどに伸ばされた艶のある黒髪。
それが聖という人物を構成するパーツだった。
父は平成のかぐや姫、などと呼んでいたが縁起が悪いと母に叱られていた。聖が隔離病棟に入れられる前の話である。
そんな容姿の妹を見ても、京は何も思わない。
妹であることは関心がない理由の一つだが、そもそも京は今まで誰に対しても異性愛など感じた覚えがない。
機能不全かもしれないが、京にとってそんなことはどうでもよかった。性行為に励むことなど獣も同然と心から馬鹿にしていたからだ。
同年代の少女を見るよりも、彼女たちを見て息を荒げる同年代の少年を見て馬鹿にする方が有意義とすら思っていた。
「ああ、元気にしてたかい、聖?」
「うん。わたし元気だよ」
聖は嬉しそうにそう言うが、声に張りがない。衰弱しているのだろう。
んーなすぐわかるような嘘つくんじゃねえよ、とツンデレのようなことを思う京だが決してツンデレにあらず。ただ、そういう前向きさをがっぽりと無くし、今にも死にそうだ、みたいになって欲しいだけなのだ。
「ほら、これ。いつものだよ」
聖の生活用品が入ったバッグを下ろして、手提げ袋の中から購入した雑誌を取り出し渡す。
「わあ、ありがとう。大切にするね」
聖は本当に大切そうに雑誌を優しく撫でる。
捨てやがったら倍の金額を請求してやると京は思う。
一月に一度雑誌を購入するのに七百円。一年で八千四百円である。この費用を京は心底残念に思っていた。
使っていない小遣いの貯金額が二桁万円に達しているというのに、京は万が一の時のためとけち臭いのである。
だが、将来どこぞのボンボンをひっかけて大金持ちになる可能性のある逸材に恩を売っておくのは無駄ではない、と何とか自分を説得し金を出し続けていた。
「あ、そうだ。おにいちゃ――お兄さん。何か香水でもつけてるの? わたし、あんまり好きじゃない……」
「香水? ああ、書店員の人じゃないかな。柔軟剤の香りでもなかったし、たぶんそうだと思う」
聖はしばらく沈黙した。じっと何かを考え込んでいる様子で、次に口を開いたときに出た言葉は京の怒りを燃え上がらせた。
「お兄ちゃん。もうこの雑誌買ってこなくていいよ。お見舞いはお兄ちゃんが来てくれるだけでいいから」
「そう? つまらなかったのなら謝るよ。ずっと嬉しそうに受け取っていたから……」(てめぇ! 俺の三万二千九百円税別を返せ、こらぁ! これで何も見返りがなかったら、俺は、俺は……!)
京は今までの出費ががが、と妹の勝手に憤る。さほど聖にとって価値もないのに金を払わされていたことに怒りを覚えたのだ。
聖は「ううん、違うよ」と断りを入れてから、
「お兄ちゃんの持ってきてくれるものなら、何でもうれしいよ。ううん、お兄ちゃんが来てくれること、それだけでわたしは満足、だよ」
そう言ってはにかむ。
「お前は優しいな」と聖の頭をなでる京だが、なら最初からそう言え。見舞いの品を三百円以下で指定しろよ。内心はそんなところである。
「あ、そうだ。どうしてもお見舞い持ってきたいなら、あのね、えっと。わたしお兄ちゃ――お兄さんのお古のものがほしいなぁ……」
聖は顔を俯けて、色白の頬をわかりやすく染める。
「ははは、聖はかわいいのに冗談までうまいのか」(ほら、出たよ。こういうとこ。こういうとこが気持ち悪いんだよ、お前は)
聖の発言を冗談にする京だが、「そんな、かわいいなんて……」と照れるが冗談の方には触れない聖。
京も今までの聖からそれが冗談ではないことを知っていたが、いちいち冗談にして否定しないとそれが本当に起こりそうで恐ろしいのだ。
俺の周りの女はこんなのばかりだ、と女木桜も引き合いに出して考える。
桜は京を殺すようなモーションをしてくるので、まさに京の天敵ともいえる存在だ。彼女の厄介さは襲われても対処できない人気のない公園に呼び出していることである。
一方聖に関しては、ここは病院なので、万が一襲われてもナースを呼ぶことで対処できるという保険により京もあまり緊張はしていない。
そもそも、聖の肉体で京をどうにかしようなど、どだい無理な話なのだが。
「あのね、わたし、退院したら夢があるんだ」
「どんな夢なんだい?」(いきなり語りだしたぞこいつ)
「えっとね……。わたしとお兄さん二人だけで暮らすの。海を見渡せる丘の上に白い大きな家を立てて。一緒にご飯を食べて。一緒にお風呂に入って。一緒に寝るの。それでね。朝は鳥さんたちの声で目覚めて、夕方に夕暮れを眺めて一日を過ごすの。それでね、子供は――」
「ロマンチックな夢だねなるほどなあ聖はそんな夢を持っていたんだなあしらなかったなあ」
京は、聖が口走ろうとしたすさまじいことを適当なことばで押し流す。
こいつ、今、何言おうとした……? などとアホのようなことは言わない。ばっちり聞こえていたからだ。
(き、気持ち悪い……こんなのが俺の妹とか……。神よ、俺は何かしでかしましたか。じゃないとお前を殺しに行きたいです)
「ありがとう、お兄さん。二人で幸せになろうね」
「そうだね。とりあえず退院を目指そうか」(そのまま野垂れ死ね)
京は「そろそろ疲れただろう」と聖を横にして、睡眠をとるように言いつける。
「……お兄さんも、ちょっと寝不足? 一緒に寝よ?」
京のわずかな変化から睡眠不足ということを見抜き、聖は睡眠を勧める。
ごそごそと体をベッドの端に寄せて隣を開ける聖だが、京がそこに入るわけがない。好き好んで蜘蛛の巣へ突っ込む虫はいないのだ。
「そうだね。僕もちょっと眠いから、ベッドにもたれかからせてくれるかい?」
「うん、いいよ。でも一緒に寝たほうが絶対気持ちいいのに」
聖は少し拗ねたような顔をして、不満を表す。
京は「おやすみ~」とあくびを一つしてから、眠りにつく。
実際、昨日の兄との出来事のせいで興奮してほとんど眠れなかったため、睡眠欲は程々にたまっていた。
「……お兄ちゃん、大好きだよ。ずっと、ずっと、一緒にいようね」
聖は陶然とそう囁き、自身も眠りについた。
(いやぁぁぁ! 気色悪いウィスパーボイスが頭に残って離れないぃ!)
その囁きをしっかりと聞き取っていた京はすっかり目がさえてしまい、眠れない。
結局京は、聖が寝ているベッドの足元にもたれかかり、寝たふりをする状態を聖が目覚める夕方ごろまで継続するしかなかった。
物語が全く動く気配がありませんが、ようやくついに……! といったところなので、あと少しだけ茶番にお付き合いください。