猫かぶり系主人公の日常5
修正報告
・勇の過去編での翔の描写を追加
・つららの父の質問の内容を加筆
幸福の時間に身をゆだねると、時の流れがとても速く感じる。
すでに時刻は午後十一時。両親は寝静まっているころだ。
「よし、そろそろだな」
京は、少しだけ温かめの服を着てから外に出た。
最近、季節が秋に移ったため夜や早朝は肌を覆い隠していないと少々寒い。
とんとんとん、とゆっくりと階下へ向かい、リビングに到達する。
そこには、薄明りをともして一人食事をする兄――勇の姿があった。
正面から見たその姿は、どこか暗い。
「あ、兄さん」(ビンゴ!)
「……京か」
最初は驚いたような顔をしていた京だったが、どこかうれしさを隠し切れないような顔にチェンジをする。
京は勇が座っている横を通り過ぎ、奥のキッチンへ向かうと冷蔵庫から適当な具材を取り出し夜食を作り始めた。
わずかな時間で作り上げられたため、京が皿に盛りつけている間も勇はまだ食事をしている。
キッチンから夜食が盛り付けられた皿を持っていき、勇の正面に座る。
そのまま、もそもそとゆっくりと夜食を食べ始めた。
しばらくその状態が続いたが、勇が静寂を破った。
「……京、お前、晩飯食わなかったのか?」
「うん、ちょっとね。明日聖のお見舞いに行ってくるって言って父さんと母さんを怒らせちゃって……」
「お前、まだ聖のお見舞いに行ってたのか」
勇は驚き、暗い声が一瞬だけ張りを取り戻す。
「うん。聖が寂しがりやなのは兄さんも知ってるでしょ?」(おら、どうだ。知らないだろぉ? 引きこもりぃ~)
「寂しがりや。そうだったのか……知らなかったよ」
自嘲するようにそうつぶやく勇。
京は、お得意の鬱スイッチ入りました~、と面白がる。
「……兄さんは習い事で忙しかったから、仕方ないよ」
「習い事、か。結局全部無駄にしてしまったな。母さんと父さんに申し訳ない」
慰めるつもりが逆に落ち込ませてしまうといううっかり。
やっちゃったな、てへ。内心で下を出す京。
「えっ、と……そうだ! この間、兄さんの友達が来てくれてたよ。兄さんは元気かって」
少し前に京の家を訪れたのは、兄の友人である翔という人物である。
彼は勇とは高校以来の友人であり、彼は勇のことを親友と思っているようだ。
次はこいつを使って兄をいじる。
ここまで兄いじりの定石であるが、兄は気づかない。
おそらく睡眠不足やストレス、人との付き合いが極端に減った結果、脳があまり働かなくなったと京は考えている。そのため、ある程度間隔を設けると同じ話をさせられることになっても気づかない。
悪意を巧妙に隠した言葉を突き刺すため、京は口を開く。
「兄さんの友達ってすごいよね。たった二年なのにもう幹部になってるって言ってたよ。それでもまだまだ、だって。今は海外進出を任せられるほどになっているとか! えーとどんな事業を始めるんだったかな……」
「貧困地域の支援、か」
「そうそう。兄さん知ってたの?」(知ってるに決まってるよなぁ!)
京のその問いに対して、勇は黙り込む。
なぜ、勇がそれを知っていたのか。
それを説明するには、六年ほど時をさかのぼらなければならない。
Ψ Ψ Ψ
流されるままの生き方に嫌気がさした勇が、親に勧められた高校を選ばず、地元の偏差値の低い高校に入学したばかりの時のことである。ある一人の生徒がいじめられていたのを勇は見た。
その生徒は中学の頃からいじめられており、成績もあまりよくなく、地元で最も低い偏差値の高校に入学するしかなかった。最悪だったのは、いじめの主犯らと同じ高校に入学することになったことであろう。
始まったばかりの高校生活で、一人の生徒に対して精神的に、物理的に苦痛が与えられる。
それを見た勇は習い事の内のひとつである武術を活かして止めた。その結果、その生徒はその場では助かった。
しかし、後日勇が校舎のあまり人が寄り付かない場所に行った時のこと、その生徒が以前よりも激しく痛めつけられていた。
いじめの主犯達は「人を頼りやがって」「お前のせいで俺の腕がしばらく上がらなくなった」などと言っている。勇が止めに入ったときのことを恨み、その分を上乗せしいじめを行っていたのだ。
勇は茫然としながらも、当然止めに入った。
いじめの主犯達を追い払った後、勇はその生徒に謝罪をした。自分のせいでそこまで痛めつけられてしまった、と。
その生徒は別にいいと、気に病むなと、このぐらいもう慣れたと言う。
その酷く疲れた顔を見て勇は、この弱きものを守らなければならない、そう思った。
それからの行動は迅速だった。
ただ、目の前のいじめを止めるだけではだめなのだ。いじめが起こらないよう自分だけでなく周りすべてが監視する必要があるのだ。
その考えを持った勇は、様々な活動を行った。生徒会長に立候補することに始まり、駅前でのいじめ撲滅運動、地域の高校の生徒会へいじめに関するディスカッションの呼びかけを行うなど。あくの強い生徒会メンバーとの衝突もあったが、それはまた別の話である。
学校内でのいじめを片付けることができた。
勇はそう確信すると、達成感とともにそれを報告しに行くため、全ての始まりとなった生徒の元を訪れようとする。しかし、どの教室を訪れても、その生徒はいない。
粘り強く教師と交渉し、情報を聞き出した勇は、その生徒に会いに行った。
「君を守れなかった。すまない」と不登校になったその生徒の部屋の前で謝罪する勇。返事はなかった。
留年まであと一月。勇はそれを教師から伝えられていた。
留年は絶対にさせない。その決意のもと、その時に行っていた習い事をすべて止め、時間の許す限りその生徒のもとに通った。
一週間目は、口を利くことすらできなかった。
二週間目で、ようやく会話することができた。
三週間目には、部屋の中に入れてもらい、勇は今まで触れてこなかったアニメやゲームなどを知った。
四週間目に、周りには秘密にしている彼の特技を教えてもらった。コンピュータを扱う技術だった。どの程度すごいのかはわからなかったが、簡単にできることではないのはわかった。そして、その特技がいじめの一因となっていることも知る。
そうして、五週間目。あと一日登校しなければ、留年してしまう日になった。
一月もの間、その生徒と接し続けているとわかることもあった。
今日も俺は君に対して何もしてやれないのか。諦念が渦巻く心の中、明日で留年という暗黙の了解のもといつものように遊んでいた二人。
勇は重要なことを何一つ話せないまま、生徒にとっての運命の分かれ目の日を終えようとしていた。きっと、明日学校にこれなかったらずっと登校できない。そうと知っているのに。
いつも交わす「また明日」のさよならを忘れたまま、生徒の家の門から出ていこうとしたとき、バンッとドアが開け放たれる音に引き留められた。
雪の降る中、部屋着のまま裸足で家を飛び出してきたその生徒は大声で叫んだ。
「明日、明日絶対行くから。勇君! 明日、そこで待ってて!」
翌日、実に二月ぶりの登校の日。勇はどうして今日出てくる気になった、と聞いた。
その生徒は、ずいぶんな言い方だと苦笑した後、その質問にこう答えた。
「だって、あんまりにも君が情けない顔をしているから。だから、僕は――――」
最後につぶやかれた言葉は聞き取れなかった。
勇にはその発言の真意がわからなかったが、それでも生徒は登校を再開し笑っていられる。
自分は正しかったのだ。勇はそう思った。
Ψ Ψ Ψ
以上が、美川勇と例の生徒――音尾翔の『始まりの物語』――京に言わせれば、ヒロインが男に変わった陳腐なラブコメもどきである。
これで付き合い始めていたら、おいおいギャルゲのホモルート選んじまったのかよ(笑)と素直に祝福してやったんだがなぁと京は思う。
だが、そうはならなかったので、京にとっては箸にも棒にもかからない話の一つだ――そう、これだけで終わるのならば。
幸の話は犬も食わず、不幸話はハゲタカ集う。
愉快痛快、ここからが『終わりの始まり』だ。京の人生で一番のお気に入りの不幸話である。
Ψ Ψ Ψ
その後、大学で就活に臨むまで、勇は様々な経験を積んだ。
高校卒業までは、生徒会メンバーや親友の翔とともに様々な場所へ遊びに行ったり、学校生活を楽しんだりした。今まで学業と習い事にすべてをつぎ込んでいた勇にはすべてが新鮮だった。
卒業後には出身地から離れた大学に進み、教育学部に入った。一般に定義されている弱きもの、子供たちのことを考えた将来を選択したいと考えたからだ。
大学にも翔は付いてきた。高校の段階で学力に不安があったが、中学卒業の段階で高校卒業レベルの学力を身に付けていた勇が、付きっ切りで試験対策を行うことで無事入学を果たしたのだ。彼はそのことを勇に心底感謝していた。
しかし、それ以外の高校で一緒だったメンバーは就職を選ぶなり、別の学校に進学するなりで離れてしまった。
少し寂しくなる。そう思っていたが、大学での出会いがそれを打ち消した。
この世のものとは思えないほど美しい女性、その名を天井つらら。彼女との出会いである。
勇が美しいと思う女性のレベルは非常に高い。それは、そのとき三十代後半でありながらも美しい容姿を保ち続ける母や、幼いながらどこぞの国の姫と言われても信じてしまいそうな妹の容姿を日常的に見ていたためである。
そんな勇から見ても、この世ならざると判断されるレベルのもの。
さらに彼女は勇と非常に似通った思想を持っていた。弱きものは救われるべき、という思想だ。
自分と馬が合い美しい女性、そんな彼女とともに行動し始めるのは必然であった。
ここでなら親の束縛もなく、自由に自分の意志の下に活動できる。
勇は三人で『弱きを救う光』という名のサークルを作った。目的は勇とつららの弱きものを守る・救うというもの。翔も過去の自分のような存在が少しでも減らせるならとその目的に賛同した。
どこか宗教めいたサークル名と目的だったため、初めは名義貸しの者たち以外は誰もおらず。
だが、翔がホームページを作成し不特定多数の人間を集め、主に勇が女性に対し、つららが男性に対しその容姿と話術から来るカリスマ性を発揮して次第にメンバーは増えていく。
そして、入学から一年後、他の有名サークルにも劣らない規模にまで発展していた。
興味本位に入り他のサークルと掛け持ちする人間は多かったが、心からサークルの目的に賛同し活動する人間もいた。
大学生活の傍ら、彼らを引き連れて、弱者を救うための方法論の討論やボランティア活動などを行う。
そんな日々は勇にとっての理想の実現であり、心の底から楽しむことができた。
一方で勇の高校からの親友である翔は余りにも早いサークル規模拡大のありさまに、少し変ではないかと疑問を持っていたようだが、その疑問は勇が笑い飛ばし、つららが翔の臆病さを冷笑したことで消えてしまった。
特に勇の人生観を変えたともいえる経験が貧困地域を訪れたときのことだ。
サークル活動ではなく、勇と翔、つらら、後はサークルメンバー数名で個人的な旅行としてその地域を訪れた。
そこで勇は、ボランティアの手が届いておらずその日の食糧すら覚束ない飢える人々の姿を見た。子供たちが地元の言語を用いて食料を求める姿を見た。そんな彼らを救うために旅行中はできるだけ目の前の彼らを助けることにした。
わずかな期間であったが、食料や水の供給、清掃などを行うことで彼らを助けた。
この時勇の後悔となったのは、暴力によって打ちのめされた子供を救えなかったことだ。発見したときには、すでに虫の息で医者の元へ連れて行こうにも病院もない。そのまま息を引き取るのをただ見ることしかできなかった。
後で英語が話せるものに目撃者の話を通訳してもらうと、銃を持った男が複数来て、その子を笑いながら殴って去っていったそうだ。
勇はひどく落ち込んだが、つららが献身的にサポートすることで立ち直ることができた。
幼い子供を救えなかった経験が勇の『弱きものを守る』という信念を執念にまで変え、今後の進路を決めることとなった。
見聞を広めるだけのつもりがいつの間にかボランティアになっていた旅行の去り際には、少しでもこれからの助けになればと、保存しておける食料を多く置いていった。
そのときの勇の卒業後の進路は、貧困地域を支援することのできる企業に就職するということだった。すでに目をつけている企業もあった。それしか見ていないといえるほど注視している状況である。
昨年に立ち上がったばかりのベンチャー企業であり、大金持ちの暇つぶしとも言われている企業だった。だが、そのように噂されているだけのことはあり、資金と人材はとんでもなかった。
理念は『世界をよりよくする』。シンプルなそれだけだった。それ故に、技術開発、商品開発、物流、コンサルタント、情報システムの提供など節操なしといえるほどに活動を広げている企業だった。
すでに一つの組織で管理できる範囲を超えているように思うのだが、それでも一企業として活動していたのである。
この企業ならば、貧困地域を根本から改造することができるのではないか。弱きものたちを守ることができるのではないか。
また、運命的なものを感じるということもあった。その企業のオーナーの娘がつららであったのだ。
この時、勇はすでにつららに恋慕の情を抱いており、彼女と二人だけで出かけるときもあった。きっかけは、勇が子供の死を目にした後の献身的なサポートである。「あなたのおかげで助かる人もいる」言い聞かせてくれたその言葉に勇はどれだけ救われただろう。
旅行後には、彼女から目が離せなくなっていた。
翔はことあるごとに「彼女はやめておいた方がいい」と勇に忠告してきたが、当然聞くはずもない。勇はそんな翔の忠告を「なんだ嫉妬か」と笑って流していた。
惚れた人と共に居れて、自分の理想のために働ける。
輝きに目を焼かれた勇は、その企業以外目に入らなくなった。
その企業は即戦力を求めていたらしく、学生での採用はわずか数名。学生について一人も採用しないこともあり得ると書かれていたほど。
それでも、その企業に応募した。
内定が取れたならば、彼女に告白して付き合おうと決意を固める。
そして、勇は――最終選考で落とされた。
その質問は、つららの父であるオーナーからなされた。
君の信念に関しての質問だ。簡単な質問だ。好きに答えてもらって構わない。
――健康なあなたと、お腹のすいた少女、飢餓状態にある少年がある部屋に監禁された。
手元にあるものは、あなたの持っている缶詰が二つだけだ。缶詰一つだけで無条件に一週間は生き延びられるとしよう。助けは最低でも二週間後に来る。これは絶対だ。だが、可能性としてもう少し早く来るかもしれない。
さて、あなたはどうする?――
「質問は受け付けない」それに加え、つららの父は、「どれだけ時間をつかって答えてもらっても構わない」と言った。
勇は、考えに考え抜いた。実際に自分がその状況に置かれた場合どうするか、どうすれば彼らを救うことができるか。
だが、結果は変わらず。
「もし、私がその状況にあるとすれば、迷わずその缶詰を二人に分けます。たとえ自分が死ぬことになってもです」
つららの父は「そうか」とだけ返し、最終選考を終了させた。
そして、その場で不合格とだけ勇に伝え退出を促す。
勇は思考が停止しそうになる中、何とか声を出し「理由をお聞かせ願えますか」とだけ吐き出した。
「私は君を試した。君の信念のほどを確かめたのだ。もし、君が信念に真に殉じるのであれば、その場で何としてでも生き残り、より多くの弱者を助けるために缶詰めを独占するだろう。周りから見たときどれだけ醜くとも。信念に殉じるとはそういうことだ。君にその覚悟が見られなかった。大方、惰性で人を助けてきただけではないかね? まあ、助けになったかどうかも怪しいが。あと、これは単純な疑問だが、君にとっての弱者とは何なのかね? 君のそれは自己満足に浸る言い訳にしかすぎないような薄っぺらさだと感じた」
饒舌に語られたその言葉は勇の中に深く刻み込まれた。
自分には覚悟がない。惰性で人を助けてきたが、それすらも怪しい。
そして、弱者とは何なのか。一般的な答えならまだしも、自分でたどり着いた答えを勇は持っていなかったことに気づかされた。
自分の憧れとも言えそうな存在からそのように告げられ、勇は足元がガラガラと崩れ去っていく。
だが、勇の絶望はそこで終わらなかった。
不採用の言葉を受けたショックにより、勇はしばらく大学を休んだ。
それでも回復しなかったため、あのときの――少年が目の前で亡くなったときのように、無意識のうちにつららに救いを求めて大学に戻る。
どんな言葉をかけてほしかったのか、自分は何を聞いてほしかったのか、それすら判然としないまま大学に戻った矢先、大学構内で仲睦まじい一つのカップルの姿を見る――翔とつららであった。
聞くと、翔はある企業に採用されたならばつららに告白すると決めていたそうだ。その企業は、勇が志望していたつららの父が創った企業。
自分と全く同じ考えを持った、自分とは違う成功者が目の前にいた。
心に渦巻く激情を整理するため、しばらく沈黙した後に「いつから好きだったんだ」と勇は問う。
勇の気持ちを知ってか、感情が全くうかがえない表情のまま、「出会ったころから。彼女は僕の相談に乗ってくれて」と続けられ、
「今になったから話すけど、実は僕、引きこもりをやめた後もいじめられていたんだ。それを君に隠すのがつらくて。大学に入った後も悩んでいた。それを聞いてくれたのが彼女だった」
つららの父に告げられた言葉が真実となって勇に襲い掛かる。
自分は何も助けられなかった、救えてなどいなかった。
その思いが勇を支配し、心は暗く深い底へ沈んでいく。
今まで失敗しなかったとは言わない。だが、それらはすべて成功につながった。いわば、成功のための失敗だ。その失敗に耐え、また立ち上がれる程度の精神は勇も持っていた。
だが、挽回できない失敗を経験したことなどは一度もなかった。その失敗の圧力に耐えきれなくなった勇の心は、ポキリ、と折れた。
その日から勇は大学に行くのをやめ、実家へと帰ってきた。
卒業分の単位はすでに取得していたため、大学の卒業はできたが、就職は決まらず、精神はボロボロだった。
現実から逃避するため引きこもり、今まで手を出さなかったアニメやゲームといったものに手を出し始め、現在に至る。