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魂だけが体から抜け出ていくような、そんな錯覚。
夢の中を飛んでいく、前後不覚、確かであり不確かでもある感覚の矛盾。
数秒それとも一瞬だったのか分からなかったが、光の道を抜ける。
不自然に七色に彩られた道筋が、普段見る夢ではなく意図的に見せられているものだと自覚させる。
重力を自覚し始めてきたとき、あやふやだった意識がはっきりと統一される。
「………」
昔、初めて仮想電脳空間にダイブした時を思い出していた。
他人の体の中に迷い込んでしまったような、と表現すればよかっただろうか。
勿論それは黎明期だったころの話であり、その後も何度かダイブするにつれて格段に「現実的」に近づいて行った。
それでもやはり、「肌に合わない」というのが僅かに気になっていたのだが、ここはまるで別格だ。
深呼吸で取り込んだ空気が肺を満たしていく感覚。
じんわりと肌に纏わりつく夜の冷えた空気。
手足の末端まで血が巡っていく。
ふう、と心臓の高鳴りを抑えるために息を吐いた。
「じゃ、見に行こうか」
初期装備のブーツの履き心地を確かめながら歩き出した。
フライング当日のログインでもないので、周囲には誰もいない。
気にせず四角い石材を敷き詰めた廊下を進むと、暗闇に不自然に浮かぶように大扉が見える。
木材の触り心地に無意識に口角が上がり、力を込めて押しこむ。
視界に広がる光景が一変した。
♢
「おお…」
白く反射する波を打つ、金色の海が広がった。
おそらく地平線の果てまで一面一色なのではないかと思う。
頬ともみあげを抜けていく風がそれに波を走らせ、いくつもの光の波濤を生んでいく。
海は、植物のようだった。
地面から生えた背の低いススキに似た植物が隙間という隙間を埋め、まるで金色の水面に足を落としたかのように錯覚させているらしい。
おもむろにゆらゆら揺れる穂に触れると光が綿毛の様にほっと離れ、風に誘われて宙に舞った。
たんぽぽの白い綿毛を吹いたことはあるだろうか。
久しぶりになんだか童心に帰ったような、そんな気持ちになった。
「なんも見えないな」
見えるのはそのススキ似の植物の海だけだ。
恐る恐る足を踏み出すと柔らかい植物の上を歩いているような感覚が足底に返ってきた。
誰もいない、というのは人を不安にさせるものだ。
ただ同時に、誰にも見られていないというのもまた少し、人の心を愉しくさせる。
植物に足を取られないようにしながら小走りで駆ける。
右手と左手は穂の綿毛を浚うように。
山も見えないほどの遠くから吹いている風に逆らうようにして草原を走れば、それに沿って穂先の光がばっと空に向かっていく。
墨染の空に一筋の線が昇っていく。
風によって幾条の光線が、空へと落ちていく。
百年、千年前に生まれた筈の星の瞬きにむかって、生まれたばかりの光が吸い込まれる。
立ち止まって、柄でもない幻想の情景にしばし浸った。
「いいね…。 これは、安い旅行に行くよりずっといいな」
記憶の蓋を開け、田舎の裏山で見た星空をみた日のことを思い出す。
ここは全く違う場所で、そもそも実在しない仮想の空だけども、その記憶の空に目の前の光景が重なるようだった。
ふと、視界端に表示されている時計に気づいた。
「あらま、道草食い過ぎた」
最後の見納めにもう一度空を見上げ、僅かに痛くなってきた首筋を摩りながら視線を戻した。
また少し海の中を回遊するように歩いてみる。
♢
がつん。
「あだっ!?」
なにかに躓いた。
躓いたというよりは、突っかかった。
「…鳥居?」
腰ほどの背丈に伸びる稲穂に隠れるように、ひっそりとそれは立っていた。
稲穂は変わらず足の踏み場もないほどに生えているため、全くと言っていいほど存在感がなかった。
白木で組んだ鳥居というのは初めて見たが、加えて膝下までの大きさというものも初めてだ。
触れてみると随分硬質な手触りである。
植物由来の白木でもないのだろうか。
「どっちかというと、捨てられた、みたいな」
力を込めて揺するがびくともしない。
この稲穂が植わる更に下、あるかどうかもわからない土の下まで土台は健在のようだ。
ふと両手の微かな違和感に観察する。
土埃が両の掌を汚していた。
「質感というか細部の出来具合、なんか違うなぁ…」
屈んで再び白い鳥居を観察する。
古くは天岩戸に閉じこもったという神を呼ぶための長啼鳥の止まり木。
人の俗界と神の神域を分ける結界の証明、その入り口。
シンプルに言えば、アチラとコチラの門。
「でもぽいよなぁ、これはやっぱり」
随分と小さな鳥居だが、潜れないこともないかもしれない。
がさがさと稲穂の葦を踏みつけて折り、そのまま潜れるものか調べてみる。
見たところ何の変哲もなく、門を通してこちらから見た風景に変わったところはない。
「ま、行ってみましょ?」
僅かに再び高鳴る心臓を抑えて、潜る。
腹と背中をぶつけたが、先に通した両肘を鳥居の足に引っ掛け、這いつくばる。
稲穂の枯れた葉が顔を引っ掻き、体の至る所を突っつきまわす。
頭を抜けた段階では期待した変化はない。
腰を抜け、尻を力づくで通し、両太股を擦りながら、匍匐前進。
そうして小さな鳥居を、つま先が潜り抜けた。
♢
「さてさて」
這っていたはずなのに、立っていた。
テレビのチャンネルを突如変えられたかのような、視界の変化に前後の繋がりがなかった。
動かず、目の前の光景を記憶に収める。
ただ黄金の海が記憶に焼き付いていたせいか、あまり心は躍らなかったが。
凪の海だ。
空と海の境まで一切の障害物のない、四方を真っ平な水平線が囲む。
灰青色の海を魚に似た生き物の影が走った気がした。
ここでは足元も、空も、海だった。
波紋一つ浮かぶことのない海が地面と空に横たわっている。
あるいは海に挟まれたこの空間そのものがあってはいけない『異常』なのか。
漣ひとつ立たない死んだ海が水平線まで、上と下にこの体を挟んで存在していた。
「なんだか、怖いな」
足元の透明度は高く澄んでいるが、上も下も、『奥』を見通すことが出来ない。
同じ水、同じ透明な液体であるにも関わらず、少しづつ、少しづつ濁っていく。
太陽の光さえ届かないその場所はタールの様に重く、遅く、大きく、深い。
見たことのない、誰も知らない怪獣が見張ってて、今にもその闇の中からこちらへと手を伸ばしてくるような、そんな妄想が頭の中を泳ぐ。
怖ければ、見ないほうがいい。
綺麗で平気なものだけを見るようにして、見渡すことにする。
♢
あまり長居はしたくないなと思った。
幻想的な風景ではあるけれど、生きた心地がしないのが気に食わないのかもしれない。
どこまで足を進めても地面を蹴る音が聞こえない。
ひんやりと肌を包む冷たさも、どこまでも均一で、風のような強弱がない。
永久不滅という言葉に惹かれるけれど、どうも自分はそいつの振る舞いに肌に合わないらしい。
臭くて汚くて、生命の匂いと音に体が包まれて、支配される心地。
緑の濃い森林、肌に伝わるほどの大瀑布、霧の深い山間。
ただし蚊よ、貴様はだめだ。
そして一番の最高はクーラーの利いた個室でキンキン冷えた缶ビールの一杯だと思っている。
宇宙旅行に行ったとしても自然を恋しいと思うんだろうか。
軽い現実逃避を交えながら休まず足を運び続ける。
脱出したいなら、歩け。
「好きじゃないけど、綺麗は綺麗」
スクリーンショットって、どうやるんだったけなぁ。
♢
発見した。
音も聞こえない不気味という評価が下されてしまった地平を歩くこと30分。
不可視の階段でもあったのではないかと触れない足元の水面を触れつつ、キラリと太陽光を反射する存在を視界端に捉えた。
支えもなく音もなく浮かぶ、玉だ。
ここまでに触れた何よりも冷たく輝くその中心には、液体とも気体とも判別がつかないものが渦巻いており、まるで生きた濃霧を封じている風にも見えた。
大きさは自分の両手を回してやっと胸に抱えるほどの大きさ。
表面を軽く小突いたが、特に接触を起因とするシステム的動作は発生しない。
「ここまで時間掛けたんだから、正解だと思うんだけど」
他に脱出の糸口になるようなキッカケは見当たらない。
本当に不可視オブジェクトの発見が真だというならば、それはちょっと卑怯すぎやしないかと玉に手を添えながら、滑らせつつ周囲を見回る。
…。
「(ん?)」
不意に右手に何かが触れた。
次いで半ばその正体に気づきながら、ついとそれを指で抄う。
…水だ。
「雨粒か」
ぽつりと言葉が漏れる。
漏れて、零れたその言葉にふと爪の先ほどの疑問が浮かぶ。
音もない水面のテクスチャ。
昇らない太陽のテクスチャ。
精細で、美麗で、本物らしい、無機質さ。
ここには感覚没入型ゲームの特徴である、匂いも、温度も、醍醐味の一切が存在しない。
まるで死んでいるようだと喩えようとして、思い直す。
死とは生命の終着点であり、すなわち巡る命の出発点でもある。
ここは『死』すらも遠い世界の夢であるかのような、そんな希薄さを思わせる。
手で触れられる近さなのに、絶望的に遠い。
そんな有限と有限の隙間。
生と死のどちらにも属さず、どっちつかずの曖昧な場所。
時間の狭間。
そんな静止した空間に雨が降った。
「(なんで今、雨粒だと思った?)」
まるでその思考が呼び水であったかのごとく、ぽつぽつと見えない何かが堰を切ったように肌を打つ感覚が次第に増えていく。
小さい。
冷たい。
たくさん。
無数に肌を打つ感覚が神経を通って脳へと繋がり、シナプスが記憶を呼び起こす。
これは雨である。
それが契機だった。
幽かだった雨脚がまるで最初からそうであったかのように勢いを強めていく。
白昼夢であったかと疑いたくなるほどに強い風が耳を打ち、頬を叩いていた。
海面を強かに打ち据える無数の雨。
あの時のように視界に映る映像が瞬く間に暗闇に包まれる。
ずっと視界に入っていた筈の太陽が姿を消し、代わりに暗雲が四方八方を覆っていた。
いったいいつの間に。
動物的な本能から来る簡潔な疑問に、誰かが答えだけを投げて寄こす。
最初からだよ。
右手の先から氷の鉄線網が走ったような感覚が一直線に心臓を掴む。
植物の根の様に無造作に、体の末端まで値を伸ばした冷たい先端は軽い恐慌状態に陥っていた脳の思考に刺さる。
既に雨は嵐と化していた。
暴風雨は天地の海をかき乱し、巨大な波濤の飛沫がその間を行き来した。
刺す勢いの雨粒から両腕で顔を守れば、豪と吹く風の拳が容赦なく放たれる。
濡れ鼠となった今、それが雨なのか波なのか、確認することすら叶わない。
背後から襲われた波に転ばされた直後、急激に暗くなった視界を訝しむ間もなく、正面から押し寄せてきた大波に飲み込まれた。
抗えない衝撃と終わりのない水の壁が体をあっという間に包み込み、呼吸を奪い、上下の感覚を完全に破壊する。
叩きつけられるべき地面はいつの間にか消失していた。
「…、…っ!」
渾身の怒声を張り上げる以外に自由はなかった。
その吐き出される怒声もごぼごぼと泡となる間もなく水流が浚い、奪っていく。
酸素が減る。
危機に瀕した意識が思考をカットし、狭窄した意識はこの一つの結論のみに焦点を絞る。
情報流入による脳のパニック、あるいは水への生物的恐怖。
目が見えない。
手足が麻痺したように動かない。
僅かな酸素を得ようとして言葉が出ない。
緊張した体が硬化する。
だからこそ、捉えた。
生得的に、遺伝的に受け継いできた僅かな危機察知能力が叫ぶ。
もっと恐ろしいものが近づいている。
水流の中で目が開いた、ある程度の視界を得られたのは生来の肉体よりも分身の基本的性能が良かっただけだ。
海上を走る稲光、その一瞬に浮かび上がる大樹のような太く長い胴。
終わりの見えないその体は深海から伸びつつ、捻じれ、渦を巻くように紺鉄の暗い海をゆっくりと泳いでいく。
その姿、あまりにも現実感を足蹴にする威圧に視線を外すことが出来ない。
海中という音のない世界に、耳では聞こえない幻聴の音を聞いた気がした。
そして荒れる海流が自分を海面に押し出すように変わり、あれほど渇望した海上へと体は難なく浮上していく。
新鮮な空気を求めて息を吸う。
そして自分は空を見上げた。
長い胴体が天地の海を横断している。
天地を横断する胴体はいくつもあり暗雲と雷雨を切り裂いて空の海中へと没しているのだろう。
その全長など、推し量る術も、およそ目算できる程度でもない。
轟轟と吹く暴風と収まることを知らない雷鳴、その間に例えようもない轟音が重なる。
波濤と雷雨が、止んだ。
雲を割いて噴煙を吐き出す。
鈍色の体表と同じ色の鰭状の衝角。
風雨に逆らう獅子の鬣。
堅牢な甲殻に包まれた頭に枝分かれした角。
「(ああ…)」
血の気が引いていく、とは違うかもしれない。
混乱していた頭が静まっていく。
強張った筋肉が弛緩していく。
都合の良い幻想が、生命の危機すら飛び越えた妄想が、頭蓋から漏れて魅せたのか。
それがただの人間によって手掛け、設計し、意匠されたものには見えなかった。
神も仏も信仰しない日本人の自分が、畏れていた。
雷音が鳴く。
ふとその顎の下に閃くものが見えた。
それが何であるかと考え、ああなるほどと一人合点する。
それは怒るわけだと右手を見遣る。
金色の瞳が真っすぐにこちらを貫く。
古い大樹が割かれるような音を立てて口が開かれる。
ゆっくりと、避けようのない最期という奴が近づいてくる。
痛覚設定って弄れたかなぁと思考が明後日の方角で回る。
自然の風とは明らかに違う吸い込まれるような風圧を感じた。
そして俺は目を閉じ、呆気なく現実を放棄したのだった。