敬愛の贋作
ようこそいらっしゃいませ。
榊原永望記念美術館へ。
このような辺鄙な美術館へ御足労下さり、誠にありがとうございます。至らぬ処も多々ございますが、ゆっくりして行って下さいますよう。
まず、榊原永望さんについて簡単に説明させていただきます。彼女は1942年に生まれ、1974年に亡くなりました。幼い頃から絵に興味を持っていましたが、生れ付き重い疾患を患っていました。独学で油彩画を勉強し、高卒で絵の道へと入ります。彼女が26歳の時に深津凌介さんと出会い、二人は暫く共に暮らしましたが、彼女は32歳の若さで夭逝されました。
作品は主に静物画で、9点しか現存しておりません。残っているものの殆どは早い時期のもので、それ以外は全て失われてしまいました。彼女の作風は霧掛かっていて何処か空想的です。個体を描いているのに、存在感が無い。現実味が沸かないのです。左手にございます花瓶に生けられた花の作品。輪郭はぼやけて、今にも消えそうな印象を受けるでしょう?
部屋を右に進んでいただきますと、果物とポットが描かれている静物画がございます。こちらも同じ印象を抱かれることでしょう。そのまま真っ直ぐ行っていただきますと、当館一番の作品となります。それはこちらです。サイズこそ50号と月並みですが、多くのメッセージが込められた名作でございます。
まず先に目に付くのは、中央に背中を向けて立つ少女。視線の先には、背丈程の透明な光が煌めいています。表情こそ分かりませんが、少女はどこか不安げで、何かを訴えかけているよう。周囲は白と灰でぼかされた靄が立ち篭めており、今にも光を覆い尽くしてしまいそうです。神経質なまでの緻密な筆使いで、筆跡がほぼ見受けられません。
題は無題とされているものの、一般に「幽玄の少女」と呼ばれています。人物を描いた作品はこの一点のみですが、榊原さんの作品の中で一番、彼女らしさが出ている作品と言われていました。
ところが展示から6年後、これは贋作だと判明しました。彼女の作品では無かったのです。
贋作は偽物。偽造なら何の価値も無い筈です。
それでは何故、此処に展示しているのか? いい質問です。もしかしたら新聞で読んだ方もいらっしゃるかもしれませんが、沈黙を保ってくださいますよう。
それは、キャンバスの内側に隠されていた、一通の手紙が証明してくれたのです。丁度、此処の左裏に。
皆様、少しお時間を頂けないでしょうか。こちらの座席にお掛けください。
手紙を朗読致しますので、作品を正面に観ながら、暫く拝聴をお願いします。
「……彼女が亡くなって46年が経った。あの時の現実は夢霞であったかのように掠れてしまった。崩れてしまいそうな曖昧な記憶を抱きかかえ、今を生きている。
自己満足だと認識しながらも、眼前にある彼女の面影を眺めながら、私は今一度過去を再起したいと思う。あの時の微かな輝きを思い出したいのだ。
初めて彼女と出会ったのは、駅の片隅だった。小さな露店で数枚の絵画を売っていた。通行人は見向きもせず、脇を早足で通り過ぎていくばかり。何気ない気持ちで私は作品を見た。
途端、目が吸い寄せられた。静物画だった。花瓶に何輪かの花が生けてある。油絵にも関わらず淡い色彩で薄く塗られた花は、まるで生命を感じられず、直ぐに手折られてしまいそうな華奢な印象を受けた。白い陶磁の花瓶も極めて薄く、花の細い茎が透けている。作り物めいた霞んだ透明感。夢霞のような儚さ。ガラスのような脆さ。キャンバスが割れて壊れてしまいそうだった。私はその独特の世界へ、忽ち引き込まれていった。黒髪を後ろで縛った華奢な女性。作者は画風通りの雰囲気を持っていた。
題名を聞くと、「無題」と答えた。
直ぐに私は数枚の絵を買取り、狭いアパートに飾った。また、彼女のパトロンにもなった。吹きガラスの職人を目指して故郷を飛び出し、両親に仕送りをしてもらう身であったが、出来る限りの支援をした。
彼女は私の行動に酷く戸惑っていた。聞くと私が最初の買い手で、援助されたことが無かったと言った。
彼女は先天的に病気だった。心臓の疾患という。両親も何らかの病気で亡くしていたと思う。当時、心臓病は医師が匙を投げる程の不治の病だった。薬は服用していたが、慰め程度のものだったようだ。
常に彼女の心の中では永久と終わり、二つの力が拮抗していた。絵で永遠を求める反面、終を常に意識し、怯えていた。
親戚は他県に暮らしていて一人暮らし。金銭面は両親の財産で工面していたようだ。親しい友人もおらず、孤立状態だった。そのような中で現れた異性ということもあり、なかなか心を開いてくれなかった。数ヶ月して、ようやく徐々に打ち解けてきてくれた。
彼女のアトリエはがらんどうとしていた。
整頓してあり、床や道具には絵具の染み一つ無い。活動をしているのかを疑う程綺麗だった。微かに感じる油彩特有の臭いが、唯一の証明だった。
動きは緩慢で極めて慎重だった。絵具を一筆入れる度に筆先を洗浄している。それはまるで、一筆毎に命が移行しているようだった。
一日に進むのはごく僅か。未完を見られるのを嫌がり、作業が終われば作品を閉まった。一枚の作品に酷く時間がかかり、全てを白に塗り潰すことさえあった。
完成した作品は、どれも息を呑む程美しかった。
私がスケッチをしようとすると彼女は止めた。写真や写生など、転写するもの総てを嫌ったのだ。奢りや誇りからでは無かった。作品は一つでいいと、彼女は寂しそうに微笑んだ。
私は厳しい研修に耐え、細工の腕を磨いていった。彼女の影響を強く受けていたと思う。私は儚い芸術をガラスに求めた。キャンバスよりガラスの方が脆い象徴としては優位だというのに、思い通りにならなかった。試行錯誤して、壊してはやり直す日々を送った。
穏やかな時間が流れていった。
たまに開いた露店に付き添い、彼女の作品を紹介した。すると何枚か売れた。美しい芸術が離れていくのは淋しさを感じたが、恥ずかしそうに笑う彼女を見て満足だった。やがて私も独立し、ガラス職人としてどうにか生計を立てられるようになった。人々の好ましそうなガラス細工を売る反面、儚き美の追求は続いた。彼女の美しさが表現出来るよう、全霊を掛けた。
書くのは気恥ずかしいが、その頃には互いを認め合っていた。私はアパートから出て、彼女の家へ移り住んだ。かつて私が購入した絵をアトリエに飾ると、美しいが何処か悲しい美術館となった。一部屋を借りて小規模なガラス工房を設置し、制作に励んだ。貧しかったけれど、それなりに幸せだった。
ある日、彼女は50号の作品を描きたいと言った。初めての事で私は驚いたが、全面的に支持をした。
小柄な彼女と比較すると大きく映るキャンバス。下地を塗り、下書きを行わず直接筆を入れていくのが彼女のスタイルだ。強く神経を張り詰め、いつにも増して苦慮しているのが分かった。一日ほんの少ししか進まない。秘密と言われてしまったので、全貌は分からなかった。
一方、彼女の病気は着実に進行し、徐々に精神も不安定になっていった。身体は一層痩せ衰え、頬はこけていった。筆を持つのも辛そうだった。外出もままならなくなり、アトリエとベッドを行き来する日が続いた。常に背後に終わりを感じ、怯えていた。医師は入院を強く勧めたものの頑なに拒否し、絵を描き続けた。
彼女は日増しにうわ言を零すようになった。私は消えてしまうの。絵は生き続けられる、どうして? 全て私が持っていかなくちゃ、と。
永遠を求めながら否定する。彼女の中で二つの振り子が常に揺れ動いていた。
病の中でも、彼女は筆を動かし続けていた。
遂に、最後の一枚が完成した。
完成した作品は繊細過ぎて、背筋が寒くなるほどだった。筆跡を残さない滑らかな表面。中央には一人の少女が、淋しげに背中を向けて佇んでいる。長い髪を肩に垂らし、柔らかいワンピースを着た、折れそうな華奢な身体。少女は霊よりも存在感がなかった。
少女の見つめる前方に煌きがあった。透明ガラスが反射するときに発する、あの深い光り。希望を感じながらも、少女は呆然と立ち竦んでいる。周囲はくすんだ白靄に覆われている。白い闇に呑みこまれまいと身を固くしているが、霞は着実に周りに広がっている。
透き通っているのに霞んでいる。割れてしまいそうなキャンバス。この世界には、あらゆる矛盾が共存していた。霧に覆われた薄氷のような危うさ。この世のものとは思えない脆い美しさ。奥深い優美さを秘めた今にも消えてしまいそうな絵に、一種の畏敬の念すら覚えた。
作品に名を付けるのを嫌う彼女は、それすら「無題」とした。私は密かに「幽玄の少女」と呼んだ。
彼女は日増しに寝込むようになった。殆ど足を踏み入れなくなったアトリエ。それでも病院へは行きたがらなかった。私は必死の看病をしつつも、隠れて「幽玄の少女」をスケッチした。詳細な部分まで模写し、パステルで色付けした。強い罪悪感を覚えたものの、心の何処かで満足していた。カメラを所有していなかったのが残念だった。
とある日、アトリエから煙が出ていた。
日が明けきっていない早朝の事だった。私は胸騒ぎがして部屋から駆けつけると、アトリエの中央に芸術が折り重なっていた。そこから煌々と炎が上がっている。それはまるで、火炙りになった殉教者のようだった。私は悲鳴を上げ、それらを救おうとした。
だが、服を引っ張られて、歩が止まってしまった。彼女は泣いていた。泣きながらライターを握っていた。
火の粉が舞う。粉となっていく永遠。異なる道を進む筈だった分身。これで私達は同じ、と彼女はふらつきながら呟いた。
私はどうする事もできず、ただただ灰となっていく芸術を眺めているしかなかった。
その数日後。彼女は息を引き取った。
病気が心臓の鼓動を止めた。死は余りにも静かに訪れた。白い煙が立ち上る。作品も彼女も灰となった。私は涙を流せなかった。呆然と現実を眺めることしかできなかった。全ては幻と紛うばかりだった。
私はまっさらになったアトリエに佇んだ。灰となった芸術は彼女が片付けていた。何もない。私が買い取ったものも、露店に出す予定のものも、「幽玄の少女」も。空間が広かった。耳が痛くなる程静かだった。
思い出も生きた証も消えていく。淡い色彩が溶けていく。ガラスの如く細かく散っていく。その事が苦しくて、私は初めて涙を流した。霞掛かった過去を、不透明で乳白色の思い出を回想し続けようとして泣いた。
永遠を拒否した彼女だったが、私は手放せなかった。決して失いたくなかった。
儚さを永遠に留めておきたかった。
壊れそうなガラス細工。彼女をイメージして何度も何度も作った。繊細な花。精緻な人形。だが駄目だった。幾ら脆く薄くしても表現しきれない。
彼女しか創造出来ない霧が立ち込めた花園。
残る手がかりは、記憶と一枚のスケッチだった。
私は夢のような記憶を頼りに、彼女の存在を見出そうとした。寸分違わず復元しようとした。慣れないキャンバスへ向かって手が震えるほど筆を握り、油絵具を薄く塗って幾度も上乗せした。微かな気配を感じ、空に馴染む前に彼女が放った輝きを集めて、絵に込めようとした。
貴女は、贋作だと怒るかもしれない。燃やすことを望むかもしれない。だが、私は貴女を残したかった。傍に居て欲しかった。灰となって空に散った多くの永遠たち。偽物の永久を創ったことを許して欲しい。
目の前にある紛い物は、私と共に逝くつもりだ。だからこれだけは信じて欲しい。私は貴女の永遠の支持者だ。これはせめて、敬愛の贋作でありたい」
……如何でしたか?
皆様其々に思うところがあるかと思いますが、このような理由があったのです。
贋作の製作者、深津凌介さんは榊原さんの作品を日本中で掻き集め、この美術館を創立なされた方です。彼自身、相当葛藤をなさったようで、この絵画はひた隠しにされていました。深津さんは晩年こちらを燃やすつもりでいらしたみたいですが、不幸にも不慮の事故に合われ、機会を失ってしまいました。更に、遺族の者が絵画を発見して美術館に寄付したことが、勘違いを生むことになってしまいます。手紙を発見しなければ、今でも本物と思われていたことでしょう。それ程この作品は永望さんの筆跡そっくりなのです。それにオリジナルが失われている今、贋作といえども愛情が多分に詰まった、本物を知る唯一の手掛かりなのです。深津さんは素晴らしい芸術家です。
深津さん製作のガラス細工はこの先の展示室にございます。自身の作品を置くことを拒否しておりましたが、彼の死後に美術館館長の方針で置くことに致しました。非常に繊細で美しい作品、是非御覧下さい。お話は以上でございます。長々とした話を拝聴していただき、誠にありがとうございました。
それでは、ゆっくりとご観賞下さいませ。