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虚無の記憶  作者: 妻子
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無知な僕と日常

「西江君、表彰おめでとうっ!」


息を荒げながら甘えた声で、足袋を履き直す僕の右から話かけてきたのは同じクラスの土井 頼子だ。目の端に、短い卓球ユニフォームから露になった頼子の太ももが見える。

家から逃げるように走って来たので胸がまだドクドクと騒いでいるが、それを堪えて僕は応える。


「う?あぁ、ありがと。頼子も中体連、いいとこまでいったんだろ?」

「うー、ん…まぁ、そこそこね」

膝を内側に曲げながら頼子はあからさまに照れて笑う。汗の酸っぱい匂いとデオドラントの香りが混ざって、僕の鼻を掠めた。


改めて説明すると、今僕が居るのは、僕の通う荘原中学の体育館だ。そして、改めて言うと僕の名前は西江文弘という。校内や、他校の弓道部ではそこそこ名前が知られている。自分でいうのは憚られるが、僕は弓道部のエースだ。最近の大会でも悪くない成績だったので、頼子はそれを祝福してくれたんだろう。

加えて言えば、僕は運動だけでなく、勉強もそこそこ出来るし顔だってかなり良い方だ。ただ、それにおごっているつもりはない。偶然僕に素質があったことを、僕はただ使っているだけなのだから。


立ち上がり様に、体育館のバスケットゴールを見上げる。うわあっと声を出しておののきそうになるのを必死に堪えた。どうやら、周りには彼女が見えないようだ。

卵から孵化したあの彼女は、身をぐっと細めてバスケットゴールを上からするりとくぐり抜ける。そして、人魚のように宙を泳ぎ、バレー部のネットや卓球部のボードを足裏で蹴って遊んでいる。肩まである黒髪が、泳ぎに合わせて絹糸のようにたゆたう。勿論、彼女は裸のままだが、そこに僕の欲情の要素はもうなくなっていた。



頼子を軽く相手した後、僕は体育館からグラウンドに出て考える。乾燥した砂が真夏の太陽を照り返して眩しい。

――――僕が何を知らないというのだろう。訳の分からない言葉を言ったかと思うと、その後彼女は何も声をはっさなくなってしまった。


目は魅惑的で恐ろしい程に黒く、潤った唇は内側がくっ付けられてしまったように動かない。全てが異様な彼女は、僕が呼び掛けると不思議そうに見つめ返すだけだった。

拉致があかないと思ってふと白い掛け時計を見ると、部活の登校時間になっていた。 この得体の知れないものと一日中一緒に居るのは御免だと思った時、あることに気が付いた。彼女からフローリングに目を落とすと彼女の影が無かったのだ。彼女だけが、ここに、いない…。指先から背中に寒気が走った。物理的には、彼女はここに居ない!僕は今何と居ることになるのだ? これは一体何なんだ?お化け、呪い、死!色々な言葉が頭を駆け抜けていった。その間も、彼女は舶来の人形のように光りの無い目を僕に向けていた。


今度こそ腰が引けてしまった僕は、彼女に特に何も言わず着替えの入ったリュックサックだけ持って家を飛び出した。蝉の声や夏の熱さなどもう感じなかった。灼熱のコンクリートに何度も靴が脱げて吹っ飛ぶ。その度僕は焦り、歯をくいしばって無様に走って走って走った。


が、弓道場について弓を構える僕の横には奔放な彼女がやはりいる。この人は何を考えているんだ。大きくて柔らかなものが弓を引く指に当たる。苛立ちと混乱で意識が一点に定まらない。唇を噛んで、的を見つめて目を尖らせる。的の中の円が一体何なのか分からなくなるくらい見つめる。一瞬、甘い匂いがした。彼女の柔らかなものが指に強く押し当たり、腕を首に回された途端、矢から指が離れた。


ストンッ


小気味良い簡素な音が的の真ん中から聞こえると、顧問の先生に後ろから肩をトントンと叩かれた。上出来だというメッセージだ。爽快感の後に安心する気持ちが広がり、つーっと汗が頬を通った。僕を抱いたままの彼女を睨もうと見返すと、彼女は口の両端をきゅっと上げて美しく微笑んでいた。拍子抜けした、というより間近で見る彼女の美しさに再度見とれてしまった。三日月型に細められた目の睫毛は繊細で柔らかそうだ。真っ白な肌からは独特の甘い匂いがする。生まれて間もない赤ちゃんの出す匂いと神秘的な命の輝きを、彼女もまた放っているのだ。


決まりが悪くなって僕は的に目を戻した。僕の胸の内は、パレットの上の単純な色に、意志に反して次第に色々な色が混ぜ合わされていくみたいな、混沌としたものだった。


その後、彼女は再び宙を泳ぎ、何処かへ行ってしまった。漠然とした不安はあったものの、僕は的と矢の鋭利な刃先とを結ぶ空間に集中することにした。木造の古い弓道場は、ガタがきているところもあるが奥ゆかしくて厳格な雰囲気が漂っている。


夏の風を感じながらメノウのような木目のある、よく磨かれた床を踏みしめる。


袴の布の擦れ合う音を聞き、ぐっと肩に力を入れる。


的を見定めて全神経をその一点に注ぎ込む。


命中したときの簡素な音が聞こえ、力を抜いて深く息を吐く。


矢を放つごとに、意識がクリアになって視界の捉える物が鮮やかになっていく気がした。結局、その日僕は殆どの矢を中心近くに命中させた。自分でも驚くほどの出来だ。その結果に浮かれていたからかもしれない。僕は部活終わりに同級生からこの後勉強を教えてほしいと頼まれ、承諾してしまった。頼んできた彼は同じ弓道部員で、部活が終わり道具をきちんと片付けるとぎこちなく笑って僕に近づいてきたのだ。おそらく、部活が始まる前から頼もうと決めていたのだろう。


「文弘君…って、思ってたより、も、…や、優しいんだね」

どもりながら同級生の藤谷 悠は彼の家に行く道すがら僕に話しかける。

「いやぁ、そんなことはないよ。ただこの後俺は予定無かったし、力になれればいいなとちょっと思っただけだし。」


実を言うと彼とは初めて話す。彼はこれといった特徴のないやつだった。敢えて特徴を挙げるにしたら、女の子みたいに華奢で、丸眼鏡の奥の目はいつも戸惑いに満ち、たまに話すとどもってしまう所位のものだ。彼は顔も成績も運動もどれも平均並なやつだった。…何で僕は藤谷君の頼みを聞いてしまったのだろう。リュックの両肩を手で掴んで俯いている学ラン姿の彼に一度目をやってから、暗さを帯びた水色に染まる空を見上げ、僕は退屈の予感を感じて後悔し始めていた。


「こ、ここだよ。え、遠慮なく、入って。」

彼は灰色のリュックから鍵を取りだし家のドアを開けた。立方体のような形の、外壁がグレーの一軒家だ。それなりに値段は高そうだな、と僕は思う。家の前には小さな花壇が備え付けられており、紅いベゴニアと花弁を閉じだしている朝顔が棒に巻き付いて植わっていた。


「お帰りなさーい、あれっ?悠、お友達ー?」


「う、うん、ただいま。文弘君だよ。」


「お邪魔します。」


清潔な傘立てや靴棚が置かれる玄関の奥から、白いシャツとスカートを身に付けた主婦が出てきた。整った顔立ちに短くカットされた茶色がかった髪がよく似合う、彼とは対照的な陽気さがある人だった。

「あらー、あなたが文弘君?どうぞ入って入って。」


藤谷君は頬を赤らめながら二階へ上がり、僕を部屋へ通した。正方形の部屋にはタータンチェックのタオルケットがかかるベッド、部屋の角には木製の勉強机と椅子、その横に少しゆとりを取って大きな書棚とエアコンがある、快適でいて少しお洒落な部屋だった。間もなくして冷たいハーブティーと菓子を彼の母が届けに来た。


「お母さん、優しくて美人だね。」


「そ、そうかなぁ。」


へへっと彼はまた頬を赤らめる。僕はそんな彼に何故だか苛立つものがあった。


「か、母さん、文弘君が来たから、喜んでるんだよ」


「何で?」


「文弘君、は、勉強も運動も、出来て……皆から信頼されてるって、母さんに、は、話したから」


勉強と運動が出きることが、彼の僕に対する評価基準なのか。他の家でも、僕はそんな風に評価されているのだろうか。


「そんなこと、は、まぁちょっとはあるけど、そこまで万能ではないよ。」


ベッドに腰掛けながら談笑した後、彼に1時間程勉強を教え、僕は彼の家を後にした。彼と彼の素敵な母は笑顔で僕を見送ってくれた。家を少し離れてから踵を返し、藤谷家をもう一度眺めてみる。


裕福 優しい母 綺麗な家 穏和な家庭


…素敵だな。 なんだかまた腹の奥がふつふつと煮えるような感覚がしたので、僕は首を振ってまたもと来た道を戻り始めた。


段々と外は淡い紺に染まり、幾つか星が白く煌めく時間になっていった。それでも家には確実に7時までには着くだろう。

予想通り藤谷君との会話は面白いものではなかったが、僕はどういうわけが機嫌が良かった。普段なら、遊びに誘われても面倒臭がって断るこの僕が、だ。


帰り道の、人通りの少ない橋を歩いているときだった。


「ふみひろには、行かなくちゃいけない所がある」


後ろから低い女の声が聞こえた。言うまでもなく、彼女だった。誰かが分かっていても、やはりゾッとする。彼女は相変わらず白くしなやかな肉体を露にして宙に浮いている。

一度腕時計を見てみると、6時30分だった。7時までには、帰らねば。……いや、何故7時までに帰らねばならないと僕は思ったのだろう?校則では8時までだし、親から門限を決められているわけでもなかった。予定だって、ないのに。今日の午前中から感じていた違和感の波が、再び僕の胸をざわつかせる。その暗い波は、ザァッと浜辺を這うように押し寄せ、サーッと引いたかと思うと前よりも大きな力で迫って僕の足を引きずり込もうとするのだった。


「…どこへ僕は行かなくちゃならないんだろう?」


「少し、帰り道を引き返す。」


「具体的に、それはどこなんだ?」


「駄菓子屋の直ぐ近く」


「?なんで、そんなところに」

不思議と、僕の鼓動は速くなり、胃がキリキリと痛みだした。


「行かないと、ふみひろにそれは分からない。」


僕を少し上から見つめる彼女の顔には、何処か子供を宥めるようなところがあった。この人は、とても気持ちが悪い。けれど、僕はこの人といるのが本当はそこまで嫌じゃないのかもしれない。この人自体は、悪い人ではない――――?

1つ息をついて、僕は頭の中を出来るだけクリアにしてみる。


「…直ぐに行って、出来るだけ早く僕は帰る。」


「それでいい。」

彼女は満たされた猫のように、一度伸びをしてきちんと微笑んだ。


十字の道路に沿うように古びたアパートやコンビニの列があり、その十字の一角にその駄菓子屋はある。ガラス戸の上の錆びた看板には「駄菓子屋」とある。店の側面には自動販売機があり、店自体は木造の大分古びたものだ。ガラス戸の奥の台には木箱に詰まった菓子が並んでいるのだが、店はもう閉まっているし、この暗さだからガラスに僕の影が辛うじて反射するだけだった。僕だけの、影が。

あの波に浸かる前にと、早口で彼女に話しかけた。どうして自分の感覚を騙さなければならないのかもよく分からなかったが。

ただ、今僕は、何か逃げてはならないものの前に来てしまったような気がしているのだった。


「で、来たからなんだって言うんだ」


「ふみひろが、この日、この時間にここに来た。それ自体がとても重要。」


彼女は弓道場の時のような微笑みを作って優しく答えた。

闇の中で異様な命の光を体から放っている。女神のように。そして、彼女の言葉はくっきりと僕の頭に焼き付き何度も僕の内臓をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。


たまに通る車の音とコンビニでタムロする男子高校生の笑い声に僕は出来るだけ意識を向けた。急に大きな波が憤慨したように僕の膝にぶつかり、足をすくいとっていった。胸がバクついて仕方ない。嫌だ、不気味の海に溺れてしまう。直角に曲がるT字路に泳ぐ目を向ける。見覚えのある車道だ。前に、同じ様な時間に僕はここに来たことがあっただろうか?前にも、この風景を僕は見た気がする。このうすら寒い夏の夜風に当たった気がする。いつだ?

今日は、確か8月8日だから…瞼を閉じて記憶のテープを巻き戻してみるが、一向にその駄菓子屋での記憶は見当たらない。どころか、最近の行動を自分でも驚くほど僕は覚えていなかった。

だが、きっとここは悪い場所なのだ。僕はここに居ては行けない。直ぐに帰らねば!僕は7時までに帰らねば!

彼女の顔を見るのが怖くなって、手を膝頭に乗せて僕は俯いた。それでもやっぱり怖くて、僕はその場から駆け出して家へと向かった。


何かがおかしい。何かが変わってしまい始めている…あの卵を見つけてから何かが狂ってしまったのだ。あの人のせいだ。


嗚咽を漏らしながら、再び無様に僕は走った。自分が何処にいるかなんてもう分からないまま目の端で街灯の光りやネオンの光りが揺れて、視界から消えていく。僕は走る。体が上と下とで分離してしまうほどに足を動かす。あの駄菓子屋のある場所から逃げるように、得体の知れない既視感とあの人から逃げ出すように。 途中で何人かのサラリーマンや女や高校生にぶつかったが、何故か彼らはそれを咎めるでもなく無視して歩き続けた。僕だけがまるで世界から見放されてしまったように。それが一層、僕を気味悪がらせた。


家の鍵をこじ開け、出来るだけテレビや照明なんかを点けて家を明るくする。リビングのちゃぶ台は畳んで押し入れにしまい、目につかないようにした。その後、僕は首まで毛布を被り、ソファに寝転がった。息は荒く弾み、暑いはずなのに歯がガタガタと震える。目からは訳の分からない涙が溢れる。深呼吸をして記憶を整理しようとするけれど思い出そうとすればするほど、頭の中の映像は白くボヤけて消えていく。このままでは、僕自身もどうにかなって消えてしまうんじゃないか?


テレビの下らないギャグを言う芸人に助けを求めるような目を向けてみる。しかし彼らはヘラヘラと空虚に笑うだけだった。


今日の午後に会った藤谷親子をふと思い出す。こんな状況になった時、藤谷君なら彼の素敵な母さんに顔をふにゃふにゃと崩して泣きつくのだろう。しかし、僕はそうしない。何故なら、僕の両親は ――――――きっともう、帰って来ないのだから――――


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