9話
海原が遠く彼方まできらめいている。軍用大型帆船の航海は順調で、何事もなければ目的地まであと数時間だ。暗がりの箱の中、船体に身を預けながらパレオは、ぼーっと世界の果てを見つめていた。隣にいる、帝国軍所属のトランプスを無視するために。
「パレオ氏は自分を王に相応しき存在であると、本気で信じておられたのか?」
「…………」
癪に障る質問に応答しようとはせず、パレオは無視を決め込んだ。だがトランプス中佐はかまわず続けた。
「そして剣に手をかけ罰を受け、両手を焼かれ真っ黒こげて、見るも無惨なそのざまに?」
「…………」
執拗に視線を送ってくるが、絶対に振り向かない。視界の向こうでは愛らしい海洋の哺乳類生物たちが群をなして海面を踊っていた。
「一生癒えぬ腕をして、付いたあだ名が紫腕のパレオ。それも単なるやけどじゃない」
遠く見れば白波が一際強く立ち上がり、強風が船体を煽ってぐんと揺れた。けれどトランプスの口は止まらない。
「どんな魔法もはねのけて、それが治療を叶わせず、それが魔法使いをおびやかす」
ばたばた煽られる髪をどうするわけでもなく泳がせながら、それでもなお反応しない。
「だが故郷を追われればその身は孤独、子供が生きていくには過酷にすぎた」
トランプスが、いよいよ目を輝かせた。
「どうしてそこで出てきたか、手を差し伸べたのは帝国武力、その総体とも呼べる男――」
未だ続けようとする中佐に、パレオがこほん! 咳払いで制止した。
「トランプス、俺の黒い腕がそんなに気になるなら、帝都の中央図書館で読んでくればいい。全部載ってる。今からなら3日もあれば行って戻れるだろ」
大海原を来た航路を見つめ、今やだいぶ離れてしまった帝都をさし示した。
だがトランプス――白地のシャツとパンツ、その全身を、トランプ・カードのジャックデザインで統一する帝国軍所属「ジャック・トランプス」中佐は、へへへ、と笑ってから口を横長に伸ばしてにんまりした。
「ええ、まあ、必要ありません。もちろん調べた。でもパレオ氏、載っちゃいなかったですよ。超務庁のトップにたち、帝国最強の名を我がものとするあのア・チョウがだ、なにゆえ一介の剣士風情を溺愛する? そう、考えればどうしたってその黒い腕が関与していると思わざるをえない。どうでしょう?」
「知らないね。独りだった俺を哀れんで拾った、その責任を感じているんだろうよ」
「孤児への同情というなら、おかしいですね。納得いかない。帝都の裏通りを歩いていればイヤというほど見かける。その中にあって矛盾すると思いませんか。腕に関与していないというのであれば、なぜだ。……やはり、何か隠していません?」
イライラしてきて、黒い力が腕にこもった。
みしみし音が立つ。
「俺は何も隠してなんかない」
しばらく真顔で見つめ合うと、先にトランプスが「まあ」と破願した。
「いいでしょう、別に。そんな怒らせてまで聞きたかったことでもありません。――ん、気づいてしまったみたいですよ、例の門番犬」
と、トランプス中佐が指さした先を見やる。
鋭いキバを剥いて走ってくる犬、ゼリドだ。ばっちし目が合った。
「グウウウ!」
「くっそ、ニオイだ! きっとニオイでバレるんだ!」
ため息をついて次いで、隠れていた船上の箱から豪速で飛び、あとは全速で走り出す。逃げるな戦え! とばかりに猛速で追ってくるゼリドは速い。
「なんでお前まで付いてきたんだよ! これは、俺の任務なんだぞ!」
「グウウウ!」
関係ない! とでも言っているように元気なゼリドは執拗なまでに「かまってちゃん」スキルを発動してきた。エクス・カリバーの聖地ダラウ・メニエがあるウンディネシア諸島到着まで、パレオは遁走に体力を費やしたのだった。
§§§§
船着き場の積荷下ろし作業で人がごった返す中、トランプス中佐は人混みを華麗にかわして消えた。ハートのジャック・カードをパレオに渡し、――私は軍の正式な使者として手続きがありますので、ここで失礼しましょう。あなたは久しぶりの帰郷でしょうから、お邪魔しても悪い。
とだけ言い残して。
裏面に貼り付けてあったのは「聖地への通行証」だ。
「勝手に行ってこいってか」
超務庁の命を受けているパレオに、軍側から指示を出しづらいのだろう。武力と組織力で帝国における地位を誇示する軍だが、皇帝直属の組織超務庁とて引かぬ権威がある。
「行くぞ、犬」
「ばう」
頭蓋骨を甘噛みされたまま、かつて去った自分の故郷へ歩き出した。