45話
「……でも」
あの巨漢の王に狙われている身で、はたしてそんなことが可能だろうか。ましてや今、キャリヴは堅く閉ざされた牢にいるのだ。最終的にはポーセイン・ドの思惑通り、やはり斬首刑に処されてしまうのではないか。首が飛ばされる絵柄が想起して、またひどく落ち込んだ。
だが、ナストは、
「あなたをここから逃がすわ」
まるで自信満々に言うので、呆気にとられてしまう。解釈するのにしばらく時間がかかって、頭をぶんぶん振って思考を進めた。
「――む、ムリだよ。逃がすってどうやって」
「簡単よ、コレをまげるの」
言うや否や、ナストは鉄格子をつかみ、急激に魔力を厖大化させた。あたりへバチバチと飛ぶ稲妻。神々しくすらあるその圧倒的な魔力にドン引きしながら、クリオラは自分ではなく、姉のナストだったのではないかと疑ってしまう。竜王が、見誤ったのではないかと。
そうこう考えているうちに、やがて高熱化した鉄がぐにゃりと形を歪めた。あっという間に脱出できる大きさに開かれる。ナストが作ってくれた九死に一生の退路に、素直にうれしさがこみあげる。
しかし、キャリヴは考えずにはいられなかった。
「……こんなことをしたら、お姉ちゃんが咎められる」
「ばかね。おろかな妹が、りっぱな姉の心配なんかするもんじゃないの。あなたは、自由に生きていくのでしょう? ならば振り返るな。前を向き、堂々と生きていきなさい」
決して楽ではないはずの魔源の酷使に、けれど満面の笑みで励ましてくれる。
そんな姉の優しさが、耐えられず涙がこぼれる。泣きべそをかきながら、それでも言わねばと思った。
「……本当にごめんださい、あでぃがとう、お姉ちゃん」
「はやく出なさい、看守が来ちゃう」
キャリヴはごしごしと顔をぬぐうと、広がった格子の隙間をすいーっと抜け出した。
看守にバレぬよう留置所の中を隠れ隠れ移動して脱出すると、そのままウンディーネたちが普段あまり通らない北側の岩石地帯を通って、陰を渡りわたりしながら街はずれまで向かった。
十分な距離を、泳いできたころ。
ふと振り返れば、街のあちこちで咲くコテイソウが都パ・ザ全体を美しく光輝かせていた。
自分を育ててくれた故郷には、思い出がたくさんある。
記憶を巡らせば数々の喜怒哀楽が涙と一緒にあふれ出してくる。
哀愁を抱きつつ、キャリヴは手をふった。
――ありがとう、さようなら。
ナストがため息をついて苦笑いした。
「おろかな妹に、一つだけ忠告しておくわ。キノコばかり食べてないで、しっかり栄養とるのよ」
「わかってるよ。しっかりする」
笑顔で返事をしたけれど、心は不安でいっぱいだ。
あとはもう、言葉なく抱き合って、時間はあっという間に流れた。
行くね、と言葉を残してキャリヴは泳ぎ出した。
何度も「もう一度」という想いに駆られながら、決して振り返ることはなかった。
また、涙がぽろぽろする。
辛い心を紛らわしたくて、キャリヴは地上へ向かった。
水面に顔をだしたとき、空からは日照りがギラギラ射していた。
あの原っぱに、ルスタの姿はない。さすがにそう都合よく出会えるものではないか、とため息をつく。
少しばかしがっかりしながら、ぺちぺちとダラウ・メリエの森へ入った。奥へ奥へと、小さな足で歩み進んでゆくと、香ってくるのは豊満で生々しい植物たちの匂いだ。
思い出す、クリオラとは無関係だった子供のころの事。
森は、キャリヴにとって心ワクワクの冒険の舞台だった。
初めて森のキノコを食べたのは、ナストとともに森の中を延々探検していた時だ。
途中で方角を失ってしまい、不安を抱いて泣くキャリヴに、ナストは「つよい子は泣かないの。泣かない子には――」じゃじゃーん! と魅惑のキノコ「トペィト」を差し出してくれた。
その香ばしい味の中に、姉の優しさがいっぱい詰まっていて、以来、キノコはキャリヴにとって忘れられない大好物となった。それがクリオラとみなされてからは、その姉自身から「地上へは行ってはいけない」ときつく詰め寄られた。それが、キャリヴにとってはなによりも辛かった。
ずっとずっと昔のままでいたい。
ただそれが願いだったはずなのに……。
自然とこぼれてきた涙を、ぐしゃぐしゃ拭きながら、それでも声が我慢できなくなって、ついにわんわん泣きだしてしまう。歩くこともできずに、膝が地におちる。
何もかも失ってしまった、その実感が、じわりじわりとこみ上げてきて、急に胸の中を不安が埋め尽くした。とどめようもなく涌く恐怖と涙で、ぐしゃぐしゃになっていく。
すべてが黒く染まってしまいそうな、そんなときだった――、
「おどろいた。きみ、泣いているの?」
ふいに聞いた声に、顔を上げた。
濡れそぼった瞳に誰かの立ち姿がぼんやりと映った。
判然としない視界の中で、でもわかる。あの優しい眼、ふわふわゆれる髪だ。
なにより土汚れた手にあるキノコ「トペィト」が、キャリヴの心を温かくした。
照れくさそうに笑う、人間の男の子――ルスタがいた。
泣いて嗚咽しそうな喉をこらえて、キャリヴは努めて笑った。
「あなたこそ、こんなところで何をしているの?」
聞かなくてもわかっているのに。
ただ言葉が聞きたくて、あえて訪ねた。
「キノコを探していたんだ。……渡したい精霊さんがいるから」
「ほんとにあなたって、可笑しなヒト」
あはは、と笑いながら、いよいよ枯れそうなほど泣いた。
ルスタの胸に飛び込んで、しがみつくように、わんわん泣いた。