42話
「でもそれは真名といって、ほとんど使われないの。仲間内ではキャリヴって呼ばれてるよ。そう呼んで」
「そうか。僕はルスタだ。――よろしく、キャリヴ」
差し出された手を、キャリヴはじっと見つめた。いつまで経っても動けずにいると、ルスタが「……あれ」と首をかしげる。
「……もしかして、握手の習慣はウンディーネにない?」
「ううん。でも、私の手はルスタより、ひどく湿ってる」
「関係ないさ」
そういって握ってきたルスタの手は案の定乾いていた。
キャリヴの湿り気が、彼の皮膚表面に伝わっていく。おかえしに彼からウンディーネよりも高いぬくもりが返される。
わわわっ、と照れてしまってすぐに離した。
胸がどきどきする。
「わたし、もう行くよ。キノコありがとう!」
すたたた、と湖へ走り出すと、
「また、会える!?」
背中越しにルスタの声が響いた。逃げるように去りつつキャリヴは、
「わからないよ!」
とだけ応えて、湖に飛び込んだ。着水する間際、キャリヴの耳に届いたのは、
「時々ここで待ってる! また君に会いたいよ!」
という言葉だった。
……うん。
心の中でひそかに返事をし、ざっぶーん! 飛び込んだ水の中は、体に妙に冷たかった。
§§§§
湖の都パ・ザへの帰路。
キャリヴは大いに後悔した。いっそ帰らなければ良かったのだ。
姉のナストは、宮廷の衛兵たち数名を連れて待ち構えていた。まるで鋭い目つきで、
「……キャリヴ、あなた自分が何をしたかわかってるの?」
瞳の奥に冷たい光を宿すナストの眼を、キャリヴは直視できずそっぽを向いた。
「なにって、ただキノコを食べに行っただけだもの」
「さんざん言ったわよ、あなたは地上へは行っちゃいけないって」
「でも、ちゃんと注意はしたんだよ。だから何もなく、こうして無事に――」
「だまりなさい!」
突如、ナストの怒りのオーラがはちきれた。
「何もなく? よくそんなウソがつけるわね。ウンディーネが――、精霊界の奇跡の象徴クリオラが、人間と接触をすることが『何もなく』なわけないでしょう!」
「なっ!?」
目をまるまるおっぴろげて、おどろく。
――見られていた?
人間の男の子――ルスタに、会っていたのを? とっさのことに、キャリヴは動揺がかくせなかった。どんな言葉を選んでいいのかもわからず、
「あれは、その、ただ……」
バチィ――――ん!
突然、ほっぺを強烈な熱がおそった。
ナストが、その平手をもってぶっ叩いたのだ。視界が急速にぐるぐる、たっぷりと勢いを余して水中をまわって、がしっ! 姉の力強い手が両肩をつかみ、静止させられた。
思いきり叩かれて泣きそうなのはこっちだというのに、泣いていたのは、ナストの方だった。
「……なんで、なんで人間なんかと会ったりするのよ……」
悲哀に打ちひしがれるような姉の問いかけに、キャリヴは応えられなかった。
ただ、ぶっ叩かれたほっぺがじんじん痛んだ。
怒りながらも何ゆえか泣きじゃくる姉を前にして、キャリヴは場違いなほど冷静に、あのふわふわ風のとおる場所を見上げた。
自分から彼のもとを離れたというのに、たった数分で、もう会いたくなっている。ルスタがくれたキノコは、水を吸ってふにゃふにゃだ。そのうちの一つを口へ運び、ぱくりと頬張ってから、涙があふれた。どうせなら一緒に食べればよかったと後悔が涌いた。
口腔を満たすキノコの風味がうれしい。
いいや、もう気づいている。キノコではないのだ。彼が示してくれた好意そのものがうれしかった。妙に温かくて、このくすぐったいような気持ちは――。
はっきり意識しなくとも、キャリヴにはそれが何かわかっていた。
だからこそ、本能的に彼のもとを逃げ出した。
まぎれもなく彼は人間だ。そしてキャリヴはウンディーネ――水の精霊族だ。まして絶大なる魔力を有す精霊界の希少種、クリオラだ。
姉のナストがブチ切れるのもムリはない。
人間と精霊、相容れない互いの種族は、特に精霊族側から一方的に嫌っている。
キャリヴが「地上に行ってはならない」とされる最大の理由はそこにある。精霊界の最高権威である四大精霊族会議が出した人間に対する見解は「ヒトは野蛮で狡猾な種族」である。同族うちであっても殺し合い、地上における覇権の奪い合いを延々と続ける。魔力によらない技を巧みに用い、自分たちの繁栄のみを目的として他族のものでもあるはずの自然を次々と破壊してゆく……。
ウンディーネ族は調印をしなかったものの、ラカ大陸本土を統べる竜族を筆頭にエルフ、フェアリー、ドアーフの各種族は、ヒト族とのかかわりを徹底的に避けることで同意している。古代には魔族を追いやるために共闘をしたという逸話もあるのに、時代はひどく変わった。
世間的に、精霊と人間が一緒にいる絵柄は、とかくダメなのだ。
特にそれが、両者にとって影響力の過大なクリオラとあればなおさら。ポーセイン・ドやナストが過ぎるほどにキャリヴの行動を制限したのには一つ、過去にクリオラと認められた精霊族が情を乱し、魔族を生み出してしまったという負の歴史があったからだ。キャリヴは、常にそのリスクと隣り合わせの存在として認識されている。だからこそ、品位を保てとうるさくしつこく躾けられてきた。
でも、それでも。たとえ人間と精霊が相容れなくとも。キャリヴがクリオラだったとしても。皆が人間を野蛮だ、狡猾だと言っていたとしても。
――ルスタは、いい人だ。
世の中がどうあれ、キャリヴにとっての現実は、精霊族が理不尽で人間が優しい。