37話
伝承いわく、ダラウ・メニエの西方から南部連峰にかけて地図を埋めた巨大なるアンドラ湖には、水底に精霊族のウンディーネが築いたパ・ザという名の都が存在したという。
でも、しかしありえない。ウンディーネたちは、ラカ大陸の占有をかけて精霊族と人間が争った大戦「ラカ・フロンティア」で大半が没したはずだ。その時パ・ザも破壊され、わずかに生き残った精霊族たちもラカから撤退している。
だがどうみても目の前にあるのは、かつて存在したウンディーネの都だ。
何より……、
見渡す限りにウンディーネたちが行き交っている。
つまりは過去をさかのぼったか。いやいや、そんなまさか。
と、ますます増える疑問符になんら答えを得ないまま、パレオはウンディーネの背に引っ張られて都に近づいていった。すると前方に、何やら腕を組んで待ち構えている風のウンディーネが見えてくる。目を凝らしていると、
―――キャリヴ! どこほっつき泳いでたのよ!
キーン、と耳鳴りがするほどの怒声が響いた。
ぎゃああ!
と、パレオの体を引っ張っていく精霊族――キャリヴと呼ばれた少女は、慌てふためきながらもきびすをかえし、水中をずぎゅーん! と勢いよく逃げだした。
パレオの体は再び、そちらの方へと引っ張られる。その自動追尾のターンを考察するに、どうやらパレオの体は、さきほど肉体を突きぬけたこの「キャリヴ」というウンディーネに、憑りついてしまったらしい。まるで亡霊のように。
他人事のようになりゆきをみていると、ぐんぐん追いついてくるブチキレたウンディーネに、キャリヴがつかまってしまった。
「逃げるな!」
「だって、だってナスト怖いんだもーん!」
わんわん泣き出して、キャリヴが暴れ出したが、けれどがっちりとホールディングされてしまって逃げられない。ナスト? というウンディーネの方が年齢も体格も上のようだ。
おそらくは家出だか門限でも破ってしまったかで、身内にこっぴどく怒られているのだろう、というパレオの予想に反して、怒っていたナストはキャリヴの頭を優しくぽんぽん叩いた。イキナリぎゅっと抱きしめて、
「あなたは選ばれし精霊、クリオラなのよ? ポーセイン・ド王だって言っていたでしょう。あなたがいずれ偉大なる魔法――至宝――を成し遂げるウンディーネなんだって。竜王がそう告げたのだから間違いないって。だから、勝手なことをして自分を危険にさらすようなことはしちゃいけないの。多くの精霊族の未来のために」
「……またそれー? わたし、クリオラなんてぜんぜん興味ないよ。だって、よくわかんないんだもん。魔力だってみんなよりも全然だめだめで、頭わるいことバカにされるし、実際に頭わるいし、泳ぎだって遅いしみんな置いてくよ……? ねえ、そんなことよりもっと楽しいお話しようよー」
「もお……。はじめる前からあきらめちゃダメって何度言ったらわかるの。未来は自分で選択して求めていくものなの。みんなよりも頭がわるいと思ったら、みんなよりも頭が良くなるように、そーゆー未来に向かって努力しなくちゃ」
「そんな未来べつにほしくない」
「こら」
こっちは励ましてんだよ、いーかげんにしろよと、おでこに怒りの血管マークを浮かべつつ、やがてナストはため息をついた。
「……それでもいつか、あなたにもわかる時がくるわ。クリオラの力がどれほどのものであるのかが。そして、その大いなる責任がね」
「やだなあ。ずっとわかりたくないなあ」
「だから、はじめから諦めないの」
「……むう」
すねたように唇を尖らせるたキャリヴの、水中で不思議な色合いを放つ涙目を、ナストがそっと拭き取ってささやいた。
「あなたの大好きな、ルンバスの練ケーキあるわよ」
「え、わあ! すてき!」
落ち込んでいたキャリヴの顔がぱあっと輝いた。よく内容のわからないご機嫌取りがばっちし効いたようで、満面の笑みをうかべてきゃぴきゃぴ喜んでいる。
どうなるのかとは思ったが、どうやらウンディーネたちの仲は睦まじくおさまりそうだ。
そんな精霊たちにどこかほっとして、肉体がすけすけに透き通ってしまった亡霊版パレオは、煌めく湖の底に栄える巨大な都市を見渡した。見たこともない水中の光灯る海藻類や歪に伸びる異形の建屋、並びの不規則な居住空間に変に懐かしさをおぼえる。
ふと、ウンディーネたちがした先刻のやり取りに、妙に思考がひっかかった。
クリオラ――――?
背筋がゾクゾクする。
思い出しそうで、思い出せない。
明らかに意味ありげなワードは、まるで誰かがパレオにわざとその言葉を聞かせたかのようだ。再びずぎゅーん! と脳内データを参照していく。
そしてやはり、輝いたのは幼少のころに目を通したクタラに残るウンディーネの伝承だ。
『――巨万の魔力を有する精霊族クリオラは、何千年に一度精霊界に生まれてくる』
いやいや、まさか。
この泣き虫ウンディーネがそんな伝説っぽいクリオラなんて存在なわけがないだろう。
考えているうちに、パレオは自分の体が本当に消えてしまっていることに気づかなかった。まるでウンディーネの喜びの感情がずいずいと心を侵食していくように上書きされてしまう。体に魔力が注ぎ込まれて、自分が自分でなくなっていく時と似通る感覚。そのうち、本当にぷくぷく泡になってしまったパレオはウンディーネの少女キャリヴへ引き寄せられて、いつしか精神ですら彼女の中に溶けてしまった。




