35話
その生々しい感触を、パレオはすぐには理解できなかった。
自分の体の異変だとわかったのは、腹部を貫通したエレニクスの腕を見下ろした時だ。その箇所が猛熱をおびて、やがて急激に食道・気道をかけ昇ってくる。「がはっ」と、口腔を満たした血が溢れた。反撃もままならぬうちに、
――ずぽっ。
エレニクスの腕が抜き出され、直後、胴からどろどろ血が失せていく。
全身から力みが消失して、パレオはその場にばたりと倒れた。
衝撃も感じられぬほど、地面との接触感覚がない。
――ああ、これはさすがにやばい。
まるで当事者意識が涌かず、他人事のようにそう思った。自分がしなければならない大事でさえ遠のき、もう抗うことも煩わしくなって、心がゆっくりと「死」を受け入れてゆく。目を閉じて、暗転した世界にそっと、ささやく「さようなら」。まさに人生に別れを告げた最後の瞬間、急に変な感じがした。
かすかに残る体内神経がぐにゃりと動かされるような、重力感覚の推移だ。目を開けると、
――エレニクスが、パレオの顔をのぞきこんでいた。
頭蓋をがしっとつかまれて、宙に浮かされている。自分で殺っておいて何を不思議そうに見ているのか。
「……何、だよ……」
聞くと、以外にもエレニクスが言葉を発した。
「楽しいよ。いきてしんでいきてしんで!?」
アハハと、目一杯に裂いた口で笑いだす。まるで本当に、死に際のパレオを楽しんでいるように……いや、現に面白がっている。エレニクスにとって、おそらく世界はおもちゃで溢れた遊び場なのだろう。転がっていた死体たちは蘇生させる遊具。そして生きて動き回るパレオは、殺す玩具といったところか。まだ自我を保てる脳みそで、なんとなくそう思考して、でも、もう関係ないかと再びを目を閉じたとき。今度は、全身が冷たくなるような感覚が襲う。うすら開けた瞳で確認したのは、エレニクスの笑いと、その体から放たれる魔力の光だ。
本能的に、拒否の意を示そうと体を強張らせるが、そもそも体力が切れてしまって微動すらできない。
まったく動かぬ肉体に、否応なしで注がれていく不浄なる魔力が、周囲にパープルオーラを漂わせる。体の中が冷たい液体に満たされたように、どっしりと重みを増していく。脈が弱まり、さきほどまでドクドクと垂れ流されていた血は、まるで「死」んだように止まってしまった。
――自分が、自分ではなくなっていく。
そう予感した。
中身の精神だけが瓦解し、肉体から自分が疎外されてゆくような、抜けがらにされる感覚。このまま自我なきゾンビにされてしまうのだろうか……。やがてシャットダウンした視界の暗闇の底で、なおもって思考を勝手に誰かの声がよぎった。
――まだ死ぬな!
という。だが、何だかどうでもよくなってしまってパレオは心中「いやいや、ムリだって」と返した。おなかにポッカリ穴を開けられ多量の血を失って、ポックリと逝かないヤツの方がおかしい。それでも体が動かせてしまったら、そんなのはゾンビに違いない。そう思念すると、ちょっと焦った風に再び声がよぎった。
――頼むから、諦めないで!
と頭の中で怒鳴られて、ようやく理解する。
うっすら目を開けると、ゆれる白髪を、うつくしい光が走った。
帝国を防衛せんがために戦う番犬ゼリド――おんなの子――が、かくも荘厳な風格で立っていた。光放つ、聖なる炎の魔力をバチバチと迸らせて、右手でどくどく血が溢れる腹部の深手をかばい、左手には先ほど飛ばされてしまっていたパレオの黒龍剣を持ちながら、ゆらりゆらりと歩いてくる。その眼光は、見つめるだけで相手を燃やさんとするほど猛っている。
灯す圧倒的な魔力と相反して、みため明らかに満身創痍な姿をみて「アハハ!」と一層口を開いてエレニクスが笑った。
新しいおもちゃと認識して喜んだのか、すぐにパレオをポイ捨てする。宙へ投げだされて再び重力感覚がデタラメになる。が、今度は地面には倒れなかった。ふわりとあたたかい何かに包まれる。かろうじて認識して、見やれば、ゼリドが抱えてくれていた。帝国随一の速さはやはりダテではないのか、それともすでにパレオの感覚がおかしいのか、よくわからないほど華麗に受けとめてくれる。
ただ安心感だけが包んだ。
視界には、森林の天蓋だけが映りこむ。
これまでの経緯から、考えずにはいられない。
ずいぶんと迷惑をかけてしまった、と。スタットを見つけたとき、すぐにでも拘束していればこんなことにはならなかっただろう。故郷を救い出すチャンスをくれたのに、ゼリドをお荷物として厄介がっていたばかりに最悪の事態を招いてしまった。全部、自分の責任だ。
往生際に、嫌だとわかっていても目じりから涙があふれる。
「…………ごめん、な。俺のせいで、こんな」
かろうじて紡いだ言葉を、
――コツン!
と、おでこをおでこで叩かれて制止された。
顔をくっつけたままゼリドに、
「二分だけ耐えられる?」
と聞かれる。
しかし、もう意識は限界すれすれで、それが何を意味しているのかもわからないまま、パレオは応えずに目をつむった。直後、まるで地の底から、燃えるように熱波が湧き上がった。それが魔力に宿る怒りなのか優しさなのか、ほかの何かだったのかはついぞわからない。
ただ覚えているのは、この後何もかもが真っ白になってしまったことだけだった。




