26話
スタットがエレニクスと呼んだそれは、――――小さな、子どもだった。
少年とも少女とも見える幼き体躯が、緑色の液体に満たされた容器のなかで膝をかかえている。
「こんな弱そうなのが、神だと? ふざけてんのか」
「姿かたちがどうあろうと、その本質とは関係ないと思うが……、強いて言えば穢れなき存在に相応しき形容というところだ」
スタットが自慢げに語った穢れなきという言葉とおり、確かに神――エレニクス――からは、淀みが感じられなかった。これだけ濃い魔力が周囲を漂っているというのに、まるでその空間だけが凪のように澄んでいる。目に見えぬブラックホールが、一帯の魔力を根こそぎ吸い尽くしているかのように。
「なにが穢れなき形容だ。単なるロリコンだろ」
毒づくと、パレオはしばし死体の山を見回して、ふつふつと湧きだす怒りを必死に抑えて問うた。
「あんたがレイクンゴットの頭(かしら)、ベルリーテだったのか」
「いいや。彼なら、真っ先に死んださ」
言いながら、スタットはゆっくりと腕を伸ばし、指差した。見やれば大樹の根元にひとり、男の亡骸が横たわっている。まるで達成感を帯びた安らぎの顔に、一種の凄然さが漂う。
「神エレニクスを創造せんがために命を使い果たして、誰よりも先に死んだ」
「…………バカなことを」
辺り一面に転がる幾人もの死体を偲んで、パレオの中にやるせない感情が彷彿とする。
「頼むからもう終わりにしてくれ。お前たちに、戦える余力はないはずだ。ここが終幕だぞ」
すると、スタットが大声で笑い出した。
「神を目の前にして終わりというのか? ハハハ! ちがうさ、始まるんだよ。たった今、これから!」
ギラリ、と今ひとたび眼球に闘志をむき出して、スタットが高速で呪文を唱え始めた。それが明らかに危険なものであると確信して、阻止がためにパレオは全力で駆けだした。ズキズキと全身を駆け巡る痛みを耐えて、ヴン! と黒刀を振りかまえる。
「往生際が悪いぞ! いい加減にしろ!」
「だまれ! 先に逝った同志たちに、これが俺のできる最後の務めだ! 一族の願いの果て、究極のホムンクルス、神を体現するエレニクスは帝国支配の世界を覆し、ヒトの過ちを必ずや正してくれる!」
呪文が空高く昇っていくと、バチバチと音を立てる周囲の浮遊球体から見るもあやしい紫光が降りてくる。呪文唱詠の遮断をねらって、スタットの懐まで近づいたパレオは黒刀の一撃を振り放った。しかし直前、スタットの食いしばった歯ぐきがぐぐぐと伸長し、巨大な牙を剥いて再びフォルフラムへと変貌しだす。
二度にわたる幻獣化とゼリドの破壊光線という過多なるダメージを蓄積しているにも関わらず、それでもなお幻獣の危険な力を身体に契約(タトゥー)させようとする。
――どこにそんな力を残しているんだ。
驚異的な意志力をみせて立ち向かってくるスタットに、どこか尊敬にも似た気持ちを覚えるが、あまりにも大きすぎた負荷はフォルフラムがまとうはずの炎すら出せず、肉体も最期まで形成することができなかった。歪な変化をし続け、やがてぐにゃりと崩れてしまう。それでも、パレオの刀身だけは体裁の悪いフォルフラムの巨腕がガッチリつかみ、止めた。……だが、
「――――ぐおおおおおおお!」
パレオはここが踏ん張りどころと見計り、足場をズザザザと削ってあらん限りの力で押し貫こうとした。同時に力んだスタットが多量の血を吐きだし、自然、唱詠も中絶する。負けずと押し返してくるが、その呼吸は激しく乱れた。
「――――ゼェ、ゼェ、ゼェ、お前に、俺たちの気持ちがわかるものか。終われないんだ、よ、こんなところで。多くの犠牲を払って、耐え、忍び、戦い続けてきて、こんな中途半端なところで、終わらせるわけにはいかないんだ!」
ぐぐぐと剣をおしせめながら、パレオはギラギラ燃えつくスタットの両眼を真剣に見つめ返した。
「過去のしがらみは、確かに重くねちっこいものだ。費やしてきた時間に、見合った対価を求めて心がうずくこともある。それが失敗だったのではと、悔いることを怖れて余計に焦ってしまうことだってある。だけどな、今だけだぞ、スタット。仮に何世代、何千年と継続され続けてきて、そこに多くの犠牲があったとしても、正しさを鑑み、変えられるチャンスを持つのは今を生きるアンタだけだ。過去の時間や犠牲の多さうんぬんじゃない! 自身で考えろ!」
過去のしがらみというならばパレオも、ここまで重々味わってきたものだ。自分が犯した過ちをどうすることもできず、逃げて、やがて手を差し伸べてもらった。
――まっすぐあれ、と。
たとえ途中で線が何度歪もうとも、その都度正しくあろうとし続ければ、やがては俯瞰して一直の線となれる。黒い刃に、幾何(いくばく)の想いと渾身の力を込めてパレオは告げた。
しかし、スタットは最後に苦笑して答えた。
「もう遅いんだ」