五章■墨染めの風
「驚かないのかね?」
熱い風が吹いた。喉が再び乾き始めている――。
「どうりで、不思議な雰囲気を感じたわけです」
ボクはヨドウ氏を軒下に誘った。
ひんやりとした壁に背中を預けると、一瞬暗くなった視界も次第に光りを取り戻していく。夏の日差しに緑達が輝いていた。
「ボクはホッとしているんです」
汗をハンカチでぬぐっているヨドウ氏の顔を横目でうかがった。彼はシュナを見ていた。その視線を外さないまま、優しげな表情で口を開いた。
「人間は自分と異質なものを避けようとするものだ」
「そうでしょうね」
頷くボクにヨドウ氏は嬉々たる瞳を向けた。
「なぜ君は、私の言葉を聞いたのにホッとするのかね?」
ボクは視線を彼の顔から外し、ポタリと雫を落す手押しポンプを見た。古いものは忘れられやすい――でも良いものだってたくさんある。労力がいるのだって、時間が掛かってしまうのだって、利点と考えることはできる。それと一緒だと思う。現世界からはみ出したものだからこそ、痛みを知り、懐かしくて温かい。
それに、心を覗かせてくれた相手の中に、良い所を見つけられないのは淋しいことだと思うから。
「貴方という人間を一つ知ることが出来たからです」
目を少し見張ってから、ヨドウ氏は破顔した。
「君は気持ちのいい人のようですな」
返事の代わりに笑みを返した。
「そうだ! ヨドウさんは先ほど歌を聞きませんでしたか?」
彼は歌が聞こえた建物の付近から現われた。少し離れたボクにすらはっきり聞こえたのだ、もちろん聞いているだろう。ところがヨドウ氏の答えは予想と違っていた。
「いや、今さっきなら聞いていないが……」
ボクは腕組をして考えた。なぜ聞いていないのだろう?
詳しく知りたいと思った――あれ? 何か引っかかる。
「もしかして以前に聞いたことがあるんですか!?」
「よーぼかよぼか……って言う歌のことだろう? 私がここへ来てから何度か耳にしているよ」
やはりヨドウ氏は聞いたことがあったのだ。
「誰か見ませんでしたか?」
彼は首を振った。何度か耳にしたのなら、ボクの見た白い人影を目にしているかもしれないと考えたのだが。
シュナが満腹になったのか、トコトコとこちらへ歩いてきた。そっと手の平に乗せて、ポケットへ入れる。しばらくゴソゴソしたあと、シュナは午後のお昼寝とばかりに、すぐに丸まって眠り始めた。
「君は何か気づかないかね?」
今度はヨドウ氏の方から質問が与えられた。何か――とはなんだろう?
眩しい日差しを手で隠しつつ、一歩庭へ足を進めた。グルリと見渡す。氏が首を振って上を指し示した。
空を見上げた――抜けるような青空。入道雲が雲根を山に隠して育っている。強い日差しが眩しくて、ボクは思わず手の平をかざした。
「何か気づきはしないかね?」
ヨドウ氏が質問を繰り返した。答えは空と何か関係があるのだろうか?
指の隙間から太陽が覗く……。
「あ!」
ボクは短く声を上げた。
そうだ、なぜ気づかなかったのだろうか。質問の主に視線を送ると、氏は満足そうに肩を叩いた。
「このまま外にいたのでは倒れてしまうよ。こっちへ」
誘われるまま、屋内へと足を踏み入れた。一歩入ると汗が引いていくのを感じた。軒とは違い、室内は気温がかなり低いようだ。鮮やかな世界ばかりみていたので視界が暗く、中の様子はすぐに見えてこなかった。
次第に光りを取り戻す。打ちっぱなしのコンクリとザラリとした砂の感覚。
――土間だ。
奥に炊事場と冷蔵庫が見える。
「かなり古そうですね」
「見かけはね。実際に古いかどうかは分からないが……」
氏はまっすぐに冷蔵庫へと進んだ。小さく丸いドアを開けてジュースを取り出し、ボクに手渡す。
「おっ! こりゃいかん――」
引き出しから線貫を手にして自分の瓶の蓋を開けた。ボクも続けて開ける。プシュッと良い音がして、再び乾いた喉を潤した。満足したところで本題へ移る。
「ここの時間は止まっているんじゃないんですか?」
「君はどう思う?」
「このまま、暑いのは困るな……と」
ヨドウ氏は声をあげて笑った。
何か笑われるような事を言っただろうか?
手にしていた空き瓶を机に置いた。結露がガラスの表面を滑り落ちて、底の形を浮き上がらせる。気温に慣れてしまったのだろう――瓶と同じだけの汗を吹き出して、ボクは今がジメジメした夏だったのだと思い出した。
「涼みに行くかね?」
どこへ――と訊ねるボクに「まあまあ」と手招きした。彼の足は建物の裏へと進んでいた。
一体どのくらい知っているのだろうか?
何日もここに留まっている様子の中年は、野草達を器用に避けて歩く。まるで自分の庭を進むように。時間という観念から解き放たれた島――いや、それはボクの予測であって事実を確かめた訳ではない。でもおそらく外れてはいないだろう。
「君は私が知りたいんじゃないかい?」
「えっ!?」
思考があの浜で聞いた地下からの音に達した瞬間だった。
思考がどこかへ走り去ってしまった。なんて勘のいい人なのだろう。会った時から、ボクは彼の言動に驚かされてばかりだ。
「なぜ、そう思うんです?」
一歩先を行く氏の影を踏んで、ボクは振り向いた細い目を見た。
「君はいつも、何かを知りたい――そんな目であらゆる物を見ているそうではないか?」
探求心――人一倍、強いと言いきれる。短時間でそこまで見抜かれていようとは。
「確かにそうかもしれません」
「ならば、私がここにいる理由やどのくらいいるのか、知りたくなるのは必然だな」
氏が歩みを再開した。
「知りたいと思います!」
ボクは少し猫背の後姿に言った。
「君が知りたいと思う時、いつでも答えよう……さあ、ここだ」
安心させるような穏やかな声で、氏はボクを手招いた。
先ほど聞いた童謡が似合う、古い土蔵の前に立つ。 これを見ると、古めかしく見えた母屋も新品のように思えた。蔦が屋根と東半分を覆い、黒い瓦は光りを失って久しい。
荘厳な造り――とまではいかないが、丁寧に造られたものであったことは容易に想像できた。
「鍵は……」
「掛かっていると思うのかい?」
ボクは首を振った。
「開けたまえ」
夏の日差しが、相変わらず照りつけている。
しかし、体は冷たい。土蔵の前に着いた時から。
それが本当に物理的に冷えているのか、緊張から来たものなのかボクには判別出来なかった。唾を飲み込み、剥げた黒い塗装の取っ手を握った。
暗反応――目が慣れるまでしばらく掛かる。だが中の様子が見えてくる前に、強い風がボクの体を打った。しかもひどく冷たい風だ。次第に輪郭のハッキリしてくる調度品やガラクタ達――どれも一様に厚い埃を被っている。
ボクは咳き込んだ。
「時間との交流だな」
「こんな交流は要りませんよ……」
喉をすっかり害してしまい、閉口した。確かに氏が言った通り、涼しいには変わりないが――。
しかし、この風はどこから吹いてくるのだろうか?