四章■鮮烈な赤
不安に駈られ、ボクは思わず呼んでしまった。
声が止む。
何事もなかったかのように、蝉が鳴き始めた。しまったと思ったが後の祭りだった。
仕方ないか……。
声の主を探すのは諦め、シュナを追った。一目散に楡の木を目指している。小さなシュナは軽々と走っていくが、ボクはそうはいかない。細かく区分けされたその小道を、揚々と伸びる草花を掻き分けて走らねばならないからだ。
シュナが止まった――。
「それか……それが欲しかったんだな、お前は」
逃げたのでなくてよかった。シュナは小さな体と同じくらいのドングリを抱えて、視線の先にいた。
「いいな……お前は食事か」
歌に気を取られて忘れていたが、ボクは水を求めてここに入ったのだった。カリカリと音を立てて、ドングリにかじりついている。そんなシュナを横目で眺めつつ、ボクは改めて周囲を見まわした。楡の木があまりにも大きいので気づかなかったが、すぐ脇にドングリの木もその大きな葉を広げていた。
小さな水音がした。
「!」
ボクは、楡の向こう側へと急いで回ってみた。そこには鉄錆びをわずかにつけた、手押しポンプがあった。脇に石造りの手水場。金物の洗い桶が斜めに傾き、少しずつ水を落としている。
水だ!
ボクはうれしくなって、手水場に走り寄った。手押しポンプを動かす。わずかな金属音と共に、ザバザバと水が汲み上げられていく。金樽に受けられた水は、夏の日差しに溶ける雪の結晶のように美しく輝いていた。
ふと横に目をやると、草花に混じって野菜も実っているのが見えた。トマト、キュウリ、大根――これまた季節感のない取り揃えだ。
ボクは喉を鳴らす。
金樽の中で輝いている水面にそっと手の平を落し、透明な水をすくった。暑く乾いた喉に鮮烈な冷たい刺激。潤っていく感覚に浸りながら、もう一度横目で美味そうな野菜達を流し見た。
一つ位はいいかな?
そのまま食べられそうなトマトが、特に美味しそうに赤く熟している。 もし家人がいたら、事情を話して許しを請おう。
決心すると、ボクは大きく実ったトマトに手を伸ばした。 太陽の光をいっぱいに受けた実はほんのりと温かく、ピンと張った皮が内包している瑞々しさを手の平に伝えている。ボクはそっとヘタの部分をクルクル回して、トマトを枝から切り離した。
金樽の冷水にくぐらせ、ボクはその小さな太陽にかじりついた。
「美味しい!」
なんて美味しいのだろうか。もぎ立てのトマトなど、ずいぶん久しぶりかもしれない。期待以上の甘味と酸味に酔っていた時だった。
「ここのトマトは美味しいでしょう?」
ボクは思わず、トマトを食む動きを止めた。
人がいたのか!?
驚き過ぎて、言葉が出て来ない。少し低い声の持ち主は、視線を合わせることのないボクにもう一度声をかけた。
「いやー、驚かせてしまったかな」
声は手水場の奥の壁際からで、木製の庇の下にサンダル履きの足が見えた。ボクが顔を向けると、その人物は目尻を下げ柔和に笑った。
胡麻塩の短髪。
年は若くも、初老にも見えた。
「私はヨドウと申す者。あなたも帰り道を探している口でしょう?」
「ええ、そうです…」
ボクは食べかけのトマトを、そっと手水場の石の上に置いた。
「でももっと楽しいことを見つけてしまった――そんなところじゃないですかな?」
驚いた。確かにそうだった。ここからの帰り道を探す――それは重要なことなのだろうけれど、今のボクには、この場所のことをもっと知りたいという欲求の方が勝っている。ボクが目を丸くして頷くと、
「ここのトマトは本当に美味しいからね」
ヨドウ氏はゆっくりと歩いて、真っ赤に熟したトマトを手に取った。二人してトマトにかじりつき、食べ終わる頃にシュナが足元にやってきた。
「おお! 君はお友達かね?」
ヨドウ氏は膝をついて、シュナに語りかけた。キョトンとした目をして立ちあがり、差し出された指先を見つめている。氏がゆっくり目尻を下げた。すると、シュナは「はい、わかりました」とばかりにその手の平に乗った。
ボクは驚いた。ヤマネはそんなに人懐こいものだったろうか?
ヨドウ氏になんの警戒も示さないシュナに少し苛立った。シュナにとってボクは特別なのだと、思いたかったからかもしれない。
「ヨドウさんは、どうやってここへ」
ボクは話題を変えた。自分のイヤな考えの頭を切り替えるためにも――。
「私は居眠りをしていたんですよ」
「もしかして、汽車の中ですか!」
「ええ、そうですが――もしや貴方もですかな?」
どうやらキーワードは同じく汽車らしい。ボクは首を縦に振った。
「シュナはその時の切符なんです」
「切符? 私の場合、改札などなく起きたら空き地だったんですよ」
それもそうだ、彼は動物を連れていない。切符なしでもここに辿り着くというのなら、シュナが切符になった理由はどこにあるのだろうか?
そして、なぜボクだけ……。
長い長いトンネルの先に見える光。それはまだ遠くて、どんな色をしているのかさえ定かではない。ただひと分かるのは――まっすぐに進んでいくより他、ボクの心を照らす道はないのだ――ということ。
シュナがボクに与えてくれたこの世界への切符。それがどういう意味を持つのか……やはりまだ分からない。目の前に立つ不思議な落ち着きを感じる男性。彼自身もボクと同じで、迷い戸惑っているのかもしれない。
突然、シュナがヨドウ氏の手を降りて走り出した。
「シュナ!」
ボクはまた追いかけようとした。思案げにアゴを触っていたヨドウ氏が顔を上げ、
「逃げやしないよ」
とにこやかに笑った。ボクは踏み出した足を止めて振り向いた。
「えっ?」
「シュナくんは逃げたりしないって言っているよ」
ヨドウ氏は、再びドングリに向かって走るシュナを眺めている。ゆっくりと視線を驚くボクに移して言った。
「彼は、君といるのが好きなんだそうだ」
その言葉に反応してか、シュナが止まってこちらを振り向く。ボクに向かって笑った気がした――。
「少しだが動物の言葉がわかるんだよ」
彼の口角の上がった唇、下がった目尻は笑顔という表情なのだろう。しかし、瞳はどこか淋しさを感じさせた。