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二章■佇む黒松

 丸くなって寝ているヤマネに語りかける。滴り始めた汗を拭いながら、ボクは丸くアーチ型状をした出口の前に立った。大きく息を吸って、一歩踏み出す。痛いほどの太陽の光がボクを包み込んだ。

 面積の広い青い空が白い入道雲を抱いている。周囲に目をやった。高い建物は見つからず、小高い丘と光りを強く反射する瓦屋根の家ばかりが目立つ。   

 正面から吹いた風が前髪を揺らす。それはわずかに潮の香りがした。

「まさか?」

 ボクは降り立った場所から見えるもの全てに、改めて目を凝らした。遠くに岩ばかりの崖があるようだ。その上には黒松が数本。一度目に入った黒松は、よく見ると至るところに黒々とした葉を光らせているのに気がついた。

 やはり――。

 ボクの予想は当たりそうだ。  

 「夜鳴鳥島」――その名の通り、島なのではないか。これがボクの予想だ。


 目の前に広がる風景は、ボクにとっては子供頃焦がれた海が近いことを知らせるものだったから。山と山の間隔も広い。ボクの家は北の海と南の海どちらにも行ける場所にあった。ただし、どちらもひどく遠い。車酔いのするボクが海をみることができたのは、年に1度くらいしかなかった。

 あの山を越えれば海かもしれない――そう何度も願ったことを覚えている。切り立った岩崖と岩崖の間に、突然現われる青色。空と海との境目のない、真っ青な空間。ボクはその瞬間がたまらく好きだった。もちろん今でも、海が近づくと胸が高鳴るのだ。

 海岸線を確かめようと足を踏み出す。

 名残を惜しむような静かな音で、もう一度汽笛が鳴った。

「そうだ、汽車!」

 唯一、現実と自分を結ぶもの。だが、振り向くとそこには何もなかった。汽笛の空気を振るわせた余韻だけが漂っている。跡形もない――駅舎も、汽車も、線路も、そこに駅があったという事実すら失われていた。   


 瓦礫の一つすらない。アスファルトのひび割れから、たくさんの草が生えている。

 ハルジオン、ヤグルマソウ、シロツメクサ、ナズナ……ススキ、カヤ、ヒルガオ、ナデシコ、ホトケノザ……。四季折々の植物達だけが、駅の名残り。

 ずいぶん慣れたつもりでいた。しかし、目の前で大きな建物がなくなってしまった現実は、なかなか頭が事実としい理解してくれないようだ。 風が草の上を通り抜けていく。汗ばんだシャツが涼しげな音を立てた。

 ポケットの中から、ヤマネが顔をのぞかせた。現実感を失いそうになっていたボクを気遣うように、チチッと鳴く。

「名前つけてやらなきゃな」

 駅が消えてしまったことは、事実として受けとめるしかない。まずは、自分が進んでいくことを考えなくては。

「お前、どっちなんだい?」 

 雄雌の違いがボクに分かるはずもない。しばらく頭を捻って思いついた名前があった。

「シュナ。そうだ、シュナにしよう」

 ボクが飼っていたゴールデンハムスターの名前だ。とても愛くるしく、大切にしていた。でも、別れはいつか必ず来るものだ。去年の冬。年老いた彼は心臓病で、ボクの手のひらに包まれたまま息を引き取ってしまった。淋しかった――でも、これからは名前として一緒に旅をするのだ。


 そう言えば、ヤマネというものは人に慣れるものなのだろうか?

 ハムスターでさえ、初めのうちは指を噛んだりしたものだ。手のひらで小首を傾げる様は愛らしく、ずっと以前から一緒にいたような錯覚に陥ってしまう。

 日はまだ高い。熱い日差しが照りつけてくる。ボクはシャツの袖をまくり上げた。涼しい風がやっと吹き出し始めた汗を拭っていった。背中に感じる広い空間を後に、ボクは歩き出した。シュナがポケットにくるりと入っていく。

 力強く伸びた草花が薄い潮風に真っ直ぐに立って、見送っている。とりあえず、あの黒松に向かって進むことにした。ひび割れたアスファルトを踏んで、透き通った青空を見上げる。

 潮の香りが一層強まった。曲がり角を左に折れて、風の流れが変わったらしい。どこかベトついた感じの空気だ。

 ずいぶんと歩いたような気がするが、まだ一人の人間にも遭っていない。スズメが電線から電線へ、屋根を渡り畑に降りる――そんな光景は見られるのだが……。

 道路横に立ち並んだ白い壁の日本家屋。そのどれにも生活感が滲み出ている。

「誰かいそうなものなのにな……」

 心乏しくなり、つい言葉にしてしまう。世界に人間がひとりきりなったような感覚に襲われる。ひとりが好きな人間だと自分では自覚していたつもりだった。しかし、いざひとりになると人恋しい気持ちが激しく動き出てしまった。

 ジリジリと焼けるアスファルトの道を行く。セミの声とボクの靴音。それだけが世界を回っている。軒先の風鈴が糸を絡め、音を殺していた。自然と歩が早まっていく。

 心から押し出される孤独感に、負けそうになる自分を律する。ふいに視界が開けた。

 ――海に出たのだ。

 空と海との境目も分からないくらいの青。白い砂浜が長く続いている。

 やはり、誰ひとりいない――だが、一度決めた志すら押しつぶしそうだった孤独感は去り、涼やかな風が身体いっぱいに吹いていた。汽車を降りた時に感じた高揚感が、目の前に広がる透き通った色に再燃する。ドキドキと音を立てて、何かが起こることを期待して――。


 ドン!


 大きな音が、砂浜に足を下ろそうとしたボクの耳に届いた。反射的に振り向いて、音の在り処をさがす。しかし少し湾曲した砂浜にも、今通ってきた路地にも音源となるようなものは見受けられない。

「太鼓の音か……?」

 皮のピンと張った表面をちょうど良い強さで叩いた。そんな振動。再び鳴らないかと耳を澄ます。

 側の黒松から油蝉の、メスを求めて腹を擦る音が響いている。風が潮を乗せて前髪を揺らしていった。柔らかな風に気持ちが緩んだ瞬間だった。


 ドン!!


 今度はもっと強い音が聞こえた。懸命に周囲を見渡す――が、やはり音を発するようなものは何もない。頭を捻る。唸っていると、かなり間隔のあった音が突如連続して響いた。まるでボクの困惑にヒントをくれるかのように。


 ドン! ドン!


 聞こえる度に音は強くなり、振動を伴った。

「まさか! 地面の下!?」

 音は確かにボクの足元からやってきていた。振動だけではない。白く貝殻の混じった砂が音の瞬間だけ、小さく跳ねあがっている。ボクはスニーカーを脱ぎ、靴下を波から遠い砂浜に投げた。

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