十八章■錆色の扉から
耳鳴りが遠ざかって、ボクは記憶の波に翻弄された。走馬灯のように、巡り巡る思い出。父のこと。母のこと。友人のこと。
そして――祖父のこと。
「お前なら出来る」
やめてくれ、ボクには才能がないんだ。
「ん、頑張るよ」
違う、ボクは自信がないんだ。
ボクは闇に向かう。正面から真っ直ぐに、深く濃い自分だけの闇に。
落下が止まった。
地面があるとは思えなかった。ただ、停止している――そんな状態。ボクはゆっくりと目を開けた。開けたところで、闇が支配した空間では何も写し出しはしないのだけれど。
人の目は起きている時開けるように出来ている。閉じたままでいることは辛いだけだ。
光りのない世界。
闇はこんなにも心を締めつけるものだったのだと、今初めて知る。長時間ここにいれば、発狂してしまうのかもしれない。上を見上げた。何も見えない。あったはずの地上。あったはずの太陽。
あったはずの友人――。
その時だった、ボクの背後がゆっくりと白み始めたのだ。
眩しさに目を瞑る。淡い光だろうが、今のボクには痛いほど。振り向いて両方の手で目を覆った。そういえば、前にもこんなことをしたような気がする――近くて遠い記憶。遡って行く、遡って行く。
時間が巻き戻っていく。
目を開けると、光りの中に白い壁が現われた。
「じいちゃん……」
それは病院のベッドで眠る、祖父の姿だった。
ボクは一瞬躊躇して、ゆっくりと歩を進め始めた。足が思うように動かない理由を、自分が一番よく知っている。触れたくないんだ。思い出したくないんだ。
次第に慣れていく光。慣れるごとに分かる穏やかな光の色。それは午後の昼と夕方の間の光だった。
やっぱり……。
ボクは喉の渇きを覚えた。今更、天に召されてしまった祖父の傍に行って、何が出来ると言うのだろうか。
これは記憶だ。ただの幻影なんだ。
そう思い込もうとしても、キリキリと胸が奥から痛む。歩くことを止めることが出来ないまま、ボクはスクリーンのように光る白い壁の横に立っていた。
目を強引に逸らし周囲を見た。無限に広がる闇。無限に収縮する闇。何が背中を押すように、ボクは壁を通り抜けた。
バタン。
ドアが開いた。入って来たのは父だった。
手にぶら下げたビニール袋から、タオルと雑誌を取り出した。それから缶コーヒーが1本。父は物憂げな表情のまま、ベッドの下から椅子を引き出して座った。
コーヒーをテーブルに置くと、眠ったままの祖父を見つめている。
父を見たのは久しぶりだった。仕事が忙しく、家にいる時間が極めて少ない人なのだ。この世界にきたって、別段なにも変わりはしない。嫌いなわけではないが、ボクは自分と違う人種なのだと感じて仕方なかった。
「私の意見を通させてもらうよ」
低い声が響いた。ボクは慌てて耳を塞いだ。何も聞こえない無音の世界の中で、父の唇が動き続ける。時には激しく、時には途切れ途切れに――。
ボクは知っているこの言葉の群れを。あの金属性ドアの向こうには、足の震えと闘うボクがいるんだ。
ドアが再び開いてボクが入ってくる。再現される場面を耳を塞いだまま、見つめ続けた。
祖父だけが応援してくれていた。ボクも精一杯それに答えようとしていた――はずだった。でも、失ってしまった自信。ボクは文章を書くことを止めようと思っていた。
そして――父の言葉に従うことも。
祖父には言いたくなかった。夢をあきらめることを良しとしない人だったから。それに、ボクはそんな祖父が大好きだったから。死を目前にして静かにベッドに横たわる萎れた体。ボクは言うべきではないのかもしれない。
ゆっくりとドアを開け、白い室内へと足を踏み入れたボクを、父が見つめている。喉を生暖かいものが下りていくのを感じた。
鮮烈に蘇る記憶と繰り返される場面。ボクは目を閉じた。耳を塞ぎたかった。でもボクは聞かねばならない。
贖罪の言葉を。
「ボクは就職するよ」
祖父は笑っていた。涙を流したのはボクの方だった。どちらが現実で、どちらが虚像なのだろう。混沌とする記憶の断片。熱く、冷たい雫がボクの腕に落ちた。