十三章■青い未来
思わずボクは目を閉じた。慣れて徐々に視界が戻ると、そこに広がったのは小さな庭だった。よく磨かれた広い縁側。澄んだ水をたたえた大きな石臼。軒の樋は鈍い光沢の青銅製で、受けた雨水を地面へと降ろすのは連なった鈴。ここを作った人物の趣向が織りなす一つの芸術作品と言えるほど、美しく整った庭だった。
緑が濃く、葉の一つ一つが光りを反射して輝いている。
「こりゃ見事なもんだ……」
絶句しているボクをスルリと避けて、ヨドウ氏が縁側へと出た。キュキュと音が鳴り、それさえもこの作品の一部であるかのようだった。シュナがもそもそと動き出した。いつも行動のキッカケを作ってきた友人の動きに、ボクは今、すべきことを思い出した。
呆けていた頭を揺り動かす。
「ここはあの菜園とちがって、季節が混在してませんね」
「あ? ああ、そう言えばそうだな」
いつの間にか氏はあぐらをかいて座っていた。視線の先にあるのは、夏を彩る菖蒲だった。そして、まだ赤く染まっていないホオヅキ。
その他は常緑樹がほとんどで、季節を感じさせるものはない。
「君も座らないか?」
「でも、ボクらは謎を解いている最中じゃないですか」
「確かに。ま、なんでもないものに、鍵が隠されているかもしれないし」
「はぁ……」
ボクは渋々座った。折角先に進もうと思った矢先だったのに――。
が、すぐにボクは前言を撤回せざるを得なかった。とにかく立っている時と比べ物にならない。ここは座って鑑賞するように計算された庭だったのだ。庭の奥にある空滝。長く突き出した軒の横には大きく葉を広げた楓。岩にはほどよく苔がむし、遠く玉砂利が光っている。
「心が和むねぇ……」
氏が腕組みを外して、ゴロリと横になった。
「そうですね」
ボクはシュナをそっとポケットから出してやった。キョロキョロと辺りを見渡したあと、石臼に向かって歩き出した。ボクは目を細め、それを見送った。
「あれ? あれなんでしょうか?」
シュナが行く先に、この庭に似つかわしくないものが転がっていた。
細長く黒光りするそれは、ペンのようであった。歩いていってボクはそれを手にした。
黒光りする万年筆。
すこし古びてはいるが、丁寧に使われていたことが分かる。指の当る部分はわずかにへこみ、ペン先は小さく欠けていた。
「あれ……?」
「何かあったのかね?」
ヨドウ氏がボクの突然の行動に驚いた顔で聞いた。
「これ…」
ボクは拾った万年筆を見せた。そして言った。
「ボクのだと思うんですよ……」
「は? なんだって!?」
ボク自身一番驚いているのだ。これは誕生日にもらって以来ずっと愛用して来たもの。
そして――あの日、なくしたはずのものだったのだから。
「なぜ君の持ち物がここに落ちているんだ?」
「正確には持ち物だった――です」
氏は腕組をして目を閉じた。
「つまり、ここに来た時には持っていなかった――ということかね」
「はい」
うなずくボクに肩をすくめ、氏はまたゴロリと横になった。
「ますます分からんことばかりだ……」
「とにかく移動しませんか?」
なくしたはずのものが手元にある――不思議で仕方ない。でも出くわした不思議にいちいち思案していては、この夜鳴鳥島では、前には進まない気がする。
何より、ボクは思い出してしまったことがあったのだ。忘れようとしたことを。
ボクは旅に出た。それは気ままな旅のはずだった。いや、そう思い込もうとしていたに過ぎなかったのかもしれない。
年老いた祖父がいた。
ずっと前から体調が思わしくなく、留守をしがちな両親に代わってボクが面倒を診ることの方が多かったように思う。
黄色く変色した障子。タバコの煙が充満した部屋は、病人の部屋と呼べるものではなかった。やめるよう諭すボクの目を見つめては、笑っていた祖父。釣りを愛し、タバコを愛し、そして何かにいつも向かっていく気持ちを忘れない人だった。
ボクが文章を書いていることを知り、手放しに応援してくれた祖父をとても心強く思っていた。
その祖父はもういない。
ボクが旅に出たのは、葬式が終わってからもう1年も経ったあと。夜汽車に揺られることを楽しそうに語っていた祖父を思い出して――。
もう書くことを止めようと思っていた。メモを取るクセが治らないのにも気付かず、ボクは無理にそう思おうとしていたに違いない。
自信を持って書きためた小説。しかし、戻ってきたのは辛辣な評価だった。今にして思えば、人気路線を模倣しただけの文字の羅列に過ぎないものだった。ボクの書いた文章の中に、自分の気持ちがまったく入っていなかったのだから。 登場する人物に深みがなかったのも、それが理由だろう。
どうしてあんな自信を持てたのか――。
ボクが旅に出たのも、祖父の思い出に浸かり心の傷を癒したかったのだと思う。これからどんな文章を書けばいいのか、まだ分からなかった。
この旅が終わった時、ボクは知るのかもしれない。