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九章■黒檀の如き

 氏に「ちょっと待って」と声をかけ、ボクはゆっくりと右手をその窪みに差しこんでいった。

 最初に触れたのは冷たい床だった。それから壁。すべてが滑らかで何もない。しかし指が触れたのは上下左右で、窪みの行きつく先であるはずの奥の壁には触ることができなかった。

 真っ暗な空間。

 目を凝らしても見えるはずもない。何も無いのかもしれない――でもボクには何かあるような気がしてならなかった。暗闇の、さらに奥に手を突っ込むことに恐れがないわけじゃない。けれどもその恐怖以上に、先に進む道を見つけたい気持ちの方が強かった。


「どうだい?」

 ヨドウ氏がじれったそうに訊いた。

「何かあるような気がするんです」

 ボクはシュナが肩に乗るのを感じながら、そっと窪みに手を差し入れた。左手をつき右手に神経を集中して、伸ばせるだけ伸ばした。指先に硬いものが触れた。

 ――壁だ。

 今まで触ったどの壁とも同じ質感。ボクは落胆した。何もありはしなかった。ボクの予感なんてそんなものなのか……。

 ガクリと肩が落ちる。

   

 カチリ。


 小さな音とともに、指先に触れていたはずの壁がなくなった。ボクはとっさに手を引き抜いた。これから起こる事実は、「この先きっと重要なヒントになるだろう」そう思わずにはいられないほど衝撃的なものだった。

  

 空が落ちてきたのかと思った。大きな音とともに、天井の一部にまるで切り取られたみたいにぽっかりと真っ黒な穴があいた。大きさは丁度、人ひとりが通れるほど。ボクは耳をふさいだ手を離し、ヨドウ氏と穴を交互に見つめた。

 互いの顔には驚いた表情とともに、確信を得た満足感が浮かんでいる。

「ありましたね!!」

 ワントーン高くなった声を上げて、ボクは叫んだ。嬉しかった。進むべき道は、閉ざされたわけではない。手を広げて待っているんだ。   

 振り向いて氏を凝視した。高速で羽ばたく彫像の向こうに霞んでいた彼の姿が、突然はっきりと見え始めた。

 なぜだ!?

 一瞬疑問に思って、すぐに分かった。羽ばたきが止まり始めているのだ。次第に光りが弱くなり、羽はゆっくりと動かなくなる。そしてついにピタリと止まった――静止画像のように。

 穴は彫像の真上だった。

「やはり、登れってこと…なんでしょうね」

 ヨドウ氏がコクリと頷いた。

「高所恐怖症じゃないんだろう?」

「まぁ、そうですが……」

 ボクは言葉を濁した。高いところが恐い――という話ではないのだ。もう動かないとは思うが、先ほどまで激しく動いていた彫像に足をかけるのは躊躇われた。

 氏が口の端を上げて、笑いを堪えているのがわかる。

「さっきとはずいぶん印象がちがうね。あの勢いはどこに行ったんだい?」

 シュナが心配で懸命だったのだ。高速で羽を動かしている鳥の彫像だって恐くなかった――と思う。

「い、行きます!」

 思わず力が入った。ますますヨドウ氏が苦しそうに顔を歪めている。しかたないじゃないか……恐いものは恐いんだから。

 ソロリと彫像に足をかけた。

 光る石。

 不思議と周囲に比べて冷たさを感じない。やはり光っているからなのだろうか?

 慎重に手と足を配置し、ボクは彫像の頭部分まで到達した。しっかりと立って、穴を覗き込んだボクは叫んだ。

「梯子だ!!」

 赤錆びた梯子。真っ直ぐに空を目指している。

 今は何時なのだろうか?

 外界の光りは見えない……夜なのだろうか?

 ここまで考えてボクは可笑しくなった。


 ――そうだ、この世界の時間はとまっているんだった。


 いつだって昼なのだ。あの暑い夏なのだ。

 冷気に満ちた空間に長いこといたからか、ボクはすっかり自分の現状を失念していた。だとしたら、この梯子はどこへ通じているというのだろう?

 最上部にフタがしてある可能性もあるが。

「へぇ~、面白そうだねぇ」

 真面目に考えていたボクの耳に調子の良い声が聞こえた。見るとヨドウ氏が腕組をして見上げている。

「ヨドウさんも見ますか?」

「君が登ってからにするよ」

 シュナが見つかったからか、氏はいつもの惚けた雰囲気を取り戻していた。

 手をかけた。背伸びをしなければならないほど高くはない。けれど、ここから梯子を登るのは容易ではなさそうだ。梯子を掴んだ手に力をこめる。肌に金属の硬さと冷たさ。


 ボクは両手で掴んで、彫像を蹴り上げた。反動で浮き上がったところで、腕で力いっぱい体を持ち上げる。もっと運動をしておけばよかった――。

 チクチクとした手の平の痛みと二の腕に痺れ。それを強く感じながら、ボクは日ごろの生活を反省した。かろうじて体が頭一つ分上に持ちあがる。すかさず、右手を一段上の梯子へ。

 なんとか苦労して、ボクは真っ暗な穴の住人となった。

「私も上がろう」

 ボクが上がろうともがいている間に、ヨドウ氏は彫像の上に立っていた。

「手を貸しましょうか?」

 梯子の一番下まで降りようと、足をかけた。

「何か言ったかね?」

 すぐ近くで声がして見ると、氏の体はすでに穴の中にすっぽりと納まっていたのだった。

 なんて身軽なのだろうか?

 出っ張っていないお腹を見ても、ヨドウ氏はきちんとした生活していたに違いない。でも今は――。


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