序章■夜色の始まり
鶸色の帽子とメモ帳一つ。それから肩から掛けた布カバン。それだけがボクの持ち物だ。山間の町と地方都市を結ぶディーゼル汽車の、規則的な縦振動が眠りを誘う。車窓から見える風景は、ボクの心を連れて流れていく。
昭和が平成へと変わったばかりの、蜻蛉飛ぶ秋。
車内は線路を噛む車輪の音が響く以外は静かな空間だった。長椅子が向かい合わせで置いてあり、出入り口付近だけは中央の通路に向かって椅子が並ぶ。浅葱色のシートには焦げ跡があり、空き缶が座席の下に転がっている。車両は三つ。この沿線では急行以外ならば多いくらいの数だった。その最後尾にボクは座っていた。押しつけた額。窓ガラスの向こう側で、鈴なりの柿の木が飛び去っていった。
ボクは真っ直ぐに街灯のない闇を見つめた。家々の明かりは現実感を失い、まるで遠く対岸に光る別世界。何度も読んだ宮澤賢治の銀河鉄道の夜のようだ。
夜を走る汽車。
山沿いの線路はかなり曲がりくねっている。連結部分を中心に汽車は左右に大きく揺れた。開け放たれたドアの向こう。通路が繋がってまるで一つの長い道。最後尾に乗るボクの視界に、それは突然入り込んだ。
なにかが転がってくる。
ゆらゆらと揺れる道を通って、まっすぐにボクのところに転がってくる。あれはなんなのだろう?
疑問符が頭一杯に浮かんだ。
転がってくるもの――とても柔らかそうだ。どこにぶつかる訳でもなく、まるで意志でもあるかのように器用にボクの車両へとやってくる。好奇心で満たされた視線に守られたまま、小さな接触音を伴ってそれは到着した。周囲の乗客には見えていないのか、気づいていないようだ。ボクは腰をかがめて目を見張った。
小さな球体。丸まったケモノ。
――ヤマネ?
本当にそうなのだろうか。 掬い上げた手の上で淡い鳶色の柔らかな毛が上下している。 小さく丸まったそれは、テレビや図鑑でみるのと確かに同じだった。身を固くし目をしっかりと瞑って。
汽車が少しきつめのカーブを曲がる時の、車輪の軋む金属音が耳に入った。そろそろ駅に着くのだろうか?
思いの他、急カーブで汽車は大きく揺れた。手のひらのヤマネを落とさないよう包み込む。途端に反応があった。
「えっ。今、動いた?」
錯覚かと思った。そっとのぞくと、ヤマネはその小さな目を開けていた。真っ黒な瞳。天井の蛍光灯が映り込んでいる。現実離れした輝きに、ボクは座席にへたり込んだ。
なぜ君はここにいるんだい?
問おうとした唇を、あわてて閉じる。
「切符を拝見」
車掌の見まわりが来たのだ。鈍行各駅停車がほとんどの沿線。無人駅も多い。車掌の見まわりは日常的なもの。小動物は連れて乗車しても良いものなのだろうか? ボクは規則を知らない。不安が首をもたげる。
ささやかな鼓動が手から確実に伝わってきた。ボクの不安は増した。ヤマネを籠にでも入れていないと、次の駅で降ろされてしまうかもしれない。それどころか、取り上げられる可能性だってある。行きがかりとはいえ、手のひらの温もりを易々と手放す気にはならなかった。
「乗り越しですか?」
車掌が隣の席の老人に声を掛けた。たいして人の乗っていない汽車だ。すぐにボクの番になる。
どうする?
迷い、考えを巡らせている間に、車掌はもう目の前に立っていた。汽笛が緊張感のない音で鳴った。空鋏の音が耳につく。手のひらを固く閉じて、顔を上げた。
「切符をお出しください」
ボクは曖昧な笑顔を作って、カバンを肘で引き寄せた。開かないでいれば、怪しまれるだけだ。しかし、開ければヤマネは見つかってしまうだろう。
――その時だった。手のひらの中から温かみが、雪が解けるようになくなっていく。
「えっ!?」
思わず声を出してしまった。そっとヤマネがいたはずの手を開いた。そこには小さく折られた紙が一枚。ヤマネのヤの字すら見当たらない。
「切符ですね」
了解しましたとばかりに、車掌はボクの扇のように開かれた手から摘み取っていった。
ヤマネはどこに行ったんだ!?
姿を切符に変えてしまったのだろうか? そんなバカな……。
摘み取られた切符は、車掌が手書きで販売するもののようで、明らかにボクが販売機で買ったものとは違う。混乱しているボクを尻目に、車掌はすばやく切符を開いた。
「ありがとうございました」
鋏を入れられた切符が、手のひらに戻ってきた。
夕日色の薄紙。
目を凝らして、記入してある駅名を読もうとした。が、達筆過ぎてきちんと読めない。かろうじて読めた文字は『夜』という漢字だった。ボクは首を傾げた。この沿線上に『夜』と名のつく駅など存在しないのだ。
車窓に目を向ける。何度も通い、見慣れた風景のはずだった。闇に支配された世界は、ボクを不思議な感覚へ誘っていく。
未視感――。
時折、流れ去る家の明かり。まるで小さな火だ。よく読んだ「銀河鉄道の夜」を思い出させる。宇宙に浮かぶ小さな火。一つ一つの輝きに見入る。手にした二つの切符を、そっと膝に置いた。
二つの切符を見比べ、一つを目の高さまで持ち上げた。見つめながら、ゆっくりと息を吐き出す。昨日までの自分を全て追い出していくのだ。
「行ってみよう…」
ボクは切符ごしに、天井の電灯を透かし見る。太陽が沈む時に見せる光。心を癒される色と暖かさ。四角く硬い自動販売機の切符を二つ折りにして、吸殻入れに押し込んだ。
新しいヤマネの切符をシャツのポケットに。帽子をかぶり直して、硝子に映る自分を見つめた。
『夜』
これから向かう地図にない駅。ボクはわくわくし始めている自分に気づいたのだった。帽子をかぶり直した。汽笛の音が心に染みてくる。
どんなところなのだろう?
何が起こるのだろう?
様々な疑問が頭を巡る。窓の外から今までと違う、押し殺された空気の音がした。トンネルが続く区間になったようだ。周囲の乗客に遠慮しつつ、ボクは窓を開けた。両手でしか開くことのできないその硝子の向こうには、冷たい空気が待っていた。それ今だとばかりに、ボクの身体を通り抜けていく。風の壁を押し切って顔をのぞかせた。
トンネルの先が見えた。
真っ暗な閉鎖された空間の向こうは、ほんのりと明るい。車のトンネルと違い、ほとんど電灯など灯っていないのだから、夜であってもぼんやりと明るいのだろう。しかも今夜は、大きな月が何者にも邪魔されず高く昇っていた。
だんだんと近づく出口。ボクは切符を握りしめた。
明るい――!?
汽車が車体を軋ませて進むごとに、先ほどの淡い色ではなく強い光の色に変わっていく。
月明かりじゃない! いったいなんだっていうんだ!?
もうボクは目を開けていられなくなった。固く閉じた瞼を通して、強烈な光がボクを包み込む。ま、まぶしい!
今は夜のはずだ。どうしてこんなにも光が満ちているのだろう?
始まりはあのヤマネ――だ。
あの小さな黒い瞳をのぞき込んだ瞬間から、ボクはどこが違う次元に迷い込んでしまったのかもしれない。光はどんどん強く鮮烈になっていく。耐えきれず、手で顔を覆おうとした時、汽車が停車を知らせる音を鳴らした。プツンと、車内放送のスイッチが入る小さな音も耳に届く。
「夜鳴鳥島~。夜鳴鳥島ぁ~」
車掌の平坦な声がスピーカーから流れた。
『夜』だ。
確かに車掌の声は、夜と名のついた駅の名を告げた。沿線に存在しない駅なのに、放送があるというのも不思議なものだ。
ボクが手で覆いかけた目をそっと開いてみると、車窓には痛いほどの太陽の光が溢れていた。
夏だ。
入道雲が大きく空を覆い、黒い瓦が濡れたように光っている。視界に入る全てのものが、陽炎に揺らいでいた。開けた窓から、日本独特の湿った熱い空気が一気に流れ込む。頬をなでる風に催促されるように、車内へと視線を戻した。
両手で数えられるほどしかいないすべての乗客が、何事もない風に座っていた。なぜだ? とはもう思わなくなっていた。おそらくそうなのではないかと、予想していたからだ。
爽やかな香りさえしそうな蜜柑色の切符。
これを手にしたものだけが、見えている景色。
今まさに汽車が止まり、ドアが開こうとしているのに、彼らはまったく気づいていない。
夏の扉が開く。
目の前に開けた明るい世界。
ボクが感じていたのは、優越感と疎外感だった。それから他人と感覚を同じくしないことへの恐怖。それらを振り払うように手を差し出し、強烈な夏の日差しを握りしめた。
カバンを手元に寄せる。持ちなれたそれは、手に違和感なく馴染んだ。ボクは、ゆっくりと一歩踏み出した。