無敵の鎧は脱いだ。お前は素手で倒す
「おじさん、無敵なんでしょ。なんで荷車に負けてるの?」
背中へ刺さった一言が、魔王の爪より痛かった。
いや、魔王とは戦ったことがない。今のは見栄だ。
「ペト君。これは負けではない。大地との対話だ」
「車輪、石に乗ってるよ」
「対話が通じたな」
俺は綱を置いて膝をついた。違う。石じゃない。折れ釘が車軸に噛んでいる。
車体の下へ梃子を差し、少し浮かせる。左の籠手を外した。隙間へ指を入れ、曲がった釘を引き抜いた。
「釘、手で抜けるの?」
「毎朝ちゃんと鍛えればな」
「僕のお母さん、釘は踏んじゃ駄目って言ってる」
「それは今後も守ってくれ」
車輪が回った。綱を引くと、橋の修理に使う板ががたがた鳴る。
ペトの腹も鳴った。
俺は腰の袋からパンを取り出し、柔らかい所をちぎって渡した。
あいつは笑った。それから、残った硬い端をちらっと見た。
「それも欲しいのか?」
「お母さんにあげる」
俺は袋をもう一度開けた。
「だったら、こっちだ。二人で歯を大事にしろ」
少年はパンを両手で抱えて走った。
橋詰めの納屋の軒先で、その母親が俺へ頭を下げた。足に巻かれた布が泥に染まっている。
日が落ちるまでに、あの足でも渡れる橋にする。
俺は籠手を戻し、荷車の綱を握り直した。
「ガイツさん。板代まで出していただいて、本当に——」
「それより、そっちのパンを食べてくれ。腹の減る礼は後でいい」
母親のウネラさんは口を閉じ、困ったようにパンを見た。
ペトが自分のパンをかじった。
「お母さん。柔らかいよ」
それで、ウネラさんも食べ始めた。
よし。強敵撃破。
俺は梃子を荷台へ戻した。天蓋鎧を着込んだ男の本日の戦果は、折れ釘の討伐と母子の昼飯だ。
我ながら、なかなかの名勝負である。
橋の入口で板が抜けていた。
その向こうには、川を渡った町の門が見える。避難してきた人は北岸で受け入れてもらえると、門の上から番人が声を張っていた。
俺たちがいるのは南岸だ。
隙間は俺なら跨げる。ペトにも無理ではなさそうだが、あいつは橋へ近づかなかった。
「右から、ゆっくりね」
母の脇へ入って肩を差し出す。
ウネラさんが片手を納屋の壁につき、もう片方を少年の肩へ乗せた。左足を浮かせ、右足で身体を送る。
板の抜けた橋へは、それでは進めない。
俺は荷台の板を指した。
「こいつをはめて釘を打てば、あとは歩くだけだ。俺が持っていくから、二人は座っていてくれ」
「僕、端っこを持てるよ」
「落としたら足を潰すぞ。俺が全部やる」
ペトは伸ばしかけた手を引っ込めた。
代わりに母の手を取り直す。
川風が納屋の軒下へ吹き込んだ。ウネラさんの肩が縮む。
「中で待とうか、ペト」
「うん。おじさん、火鉢は?」
「それは俺が——おっと、木の板は持たせないからな」
「火鉢も持たせないんでしょ」
「正解。素晴らしい理解力だ」
あまり嬉しそうな顔はされなかった。
納屋の入口にあった火鉢を内側へ寄せる。ペトは井戸で濡らしてきた布を母の足に巻き直し、外した泥の布を桶で洗った。
八歳になったばかりだとウネラさんから聞いた。その手は小さいが、布の端を折り込むところは手慣れていた。
俺の籠手へ、ペトが指を伸ばす。
「それ、熱くならないの?」
「外から来る熱は全部弾く。刃も煙もだ。寒い冗談だけは防げない。さっき、お前が証明してくれた」
「どの冗談?」
「そこまで追い込まなくていい」
籠手を外した手を、火鉢の上へかざした。赤い炭に触れはしない。熱の上がる場所だが、俺の手の甲には冷たい川風しか届かない。
ペトの手をその上へ重ねた。
「俺が触っていれば、お前も平気だ」
「本当だ。お母さんも」
ペトが空いた手を伸ばし、母の指を取った。
ウネラさんはすぐに手を引いた。
「私には熱いわ。ペト、もう離れて」
少年を火鉢から下げて、俺も手を戻す。
「守れるのは俺と、俺が直接触っている一人までなんだ。手を繋いで増やすことはできない」
「じゃあ、おじさんが二人と繋いだら?」
「それでも、選べるのは一人だ」
「不便だね」
「鎧の前で言わないでくれ。拗ねたら困る」
金属はいつも通り黙っていた。たいへん大人な防具である。
ペトは荷台から落ちた板の切れ端を拾った。炭で何か書いている。
「何してる?」
「僕の名前。字も書けるよ」
見せられた板には、少し傾いたペトの名があった。
俺の名より読みやすい。人間として由々しき事態だ。
「だったらこれも読めるか?」
胸板の留め金を外し、内側を開いて見せた。
有効な名はガイツ。その下に、前の持ち主たちの薄い名が沈んでいる。
「こっちが俺。下のは、この鎧を他の誰かへ譲った人だ。一度こっちへ移った名前は、もう上に戻せない」
「おじさんも?」
「譲ればな。新しい持ち主が空いてる所へ自分の名を書く。それで俺がいいと言ったら、その人のものになる」
俺の名の隣の空欄を指す。
「僕にも着られる?」
「身体には合う。でも力は増えないぞ。釘を引っこ抜くのは稽古の成果だ」
「鎧を着たら、お母さんと一緒に歩けるのに」
ペトが内面へ指を伸ばしかけた。
俺は胸板を閉じた。
「心配しなくていい。俺が運ぶ」
「でも、お母さんを運んでる間は僕どうするの?」
「お前もすぐ迎えに戻るさ」
留め金が、いつもより大きな音を立てた。
ペトは炭を置き、母の座る木箱へ戻った。ウネラさんは何も言わず、少年の指の黒い汚れを布で拭いた。
板を運ぼう。
俺が橋を直せばいい。それで済む。
そう思って荷車へ戻ったとき、街道から角笛が鳴った。
「冒険者ガイツとは、お前か」
騎士たちは南の街道から来た。
先頭の男が馬を降りると、銀色の肩章が鳴った。剣の鞘も銀飾り。手袋まで白い。泥を避ける足運びには、見習いたいものがある。いや、そこじゃないな。
「ガイツは俺だ。橋なら少し待ってくれ」
「橋に用はない。王国武具徴発隊長、ザルドだ。その鎧を王都へ持ち帰る」
差し出された羊皮紙には王家の印があった。
道を空ける人々の間で、兵たちが左右へ散っていく。俺は紙の文字を追った。
「戦力となる武具の買上げ。所有者の承諾を得て適正な代価を……隊長さん。ずいぶん後ろの方を省略したな」
「代価なら用意した」
白い手袋が金袋を押し出す。
受け取らずに押し返した。
「売らない」
「よく見てから言え。田舎の橋を直す仕事で、一生かかっても稼げぬ額だ」
「橋の修理は仕事じゃない。俺がやると言っただけだ」
「ならばなおさら必要ないだろう。子守りに国宝級の鎧とはな」
ザルドは俺の肩から足先まで眺めた。
値札を探すような目だった。
「民間の男に独占させておくものではない。お前の代わりなど、鎧さえあれば——」
木がぶつかる音がした。
振り向くと、兵が納屋の戸に太い閂を落としたところだった。
「お母さん!」
荷車の傍でペトが叫んだ。
俺は走った。
「開門破砕掌!」
閂は、薪になった。
戸を蹴り開ける。奥の壁際でウネラさんが木箱から腰を浮かせた。
その横、戸口の陰にいた兵の手が動いた。
口に布を詰めた壺。布の先が燃えている。
俺の指が届く前に、壺は側壁に当たって割れた。油が木を濡らし、軒へ赤い舌を伸ばす。
投げた兵は飛び退いた。
追えば捕まえられる。
俺はそいつの背中ではなく、納屋の奥を向いた。
「ウネラさん、立てるか!」
「足が……ペトは外へ!」
咳が返事を切った。
ペトが俺の脚の横を抜けようとする。その肩を掴んだ。
「待て。俺が行く」
「戸口から出る者を射ろ」
背後の声に、俺は半身だけ振り返った。
西の石段の上に弓。東の石塀の上にも弓。引かれた弦が頬の横へ揃っている。
隊長は俺と橋の間へ立ち、抜いた剣で戸口を指していた。
「下がらせろ」
「鎧を渡せば下がらせる」
「人が中にいるんだぞ!」
「知っている。だから火をつけた」
ザルドの白い手袋が、金袋を腰へ戻した。
「その鎧は、所有者が死ねば消える。剥いでもお前の所へ戻る。まったく面倒な代物だ。お前の承諾さえあれば、誰も困らずに済むのだがな」
母のいる戸口に、焦げた木片が落ちた。
兵を殴る間にも火は広がる。隊長を倒しても、左右の弓まで一緒に倒れるわけじゃない。
俺が母を抱えれば、その人は守れる。ペトまで担ぐことはできる。だが、鎧に守られない一人が残る。
あの射手の手元を全部見て、飛んだ矢を全部避け、母子の身体を一度も離さずに——。
俺は奥歯を噛んだ。
自分だけなら、どうとでもなる。
「ペト。お前はあの荷車の陰へ」
少年の肩を外へ押そうとした。
小さな手が、俺の手を振り払った。
「お母さんも!」
その声に、喉の奥が動かなくなった。
——俺も、あんな声で母を呼んだ。
まだ家の戸口が、自分の背より高く見えた頃だ。
山が鳴った。父親を知らない俺には、腹を立てた大男というものも、あの音に似ているのだろうと思えた。
道を走る母の手はざらついていた。掌に土がついていた。
「ガイ。井戸の道まで行って」
母は俺を前へ出し、隣の家の戸を叩いた。
俺は走った。
途中で、木馬を置いてきたことを思い出した。
欠けた脚を、母が青い布で巻いてくれた木馬だった。片脚が短くて、床へ置くと傾く。それが嫌で泣いた俺に、母は膝へ乗せて直してくれた。
家へ戻った。
木馬は食器棚の下に転がっていた。
しゃがんで手を伸ばすと、床が動いた。棚が鳴った。皿が頬の横で割れた。
「ガイ!」
母の声がした。
戸口へ出ようとした俺の前へ棚が傾いた。母が身体を滑り込ませ、戸口との間に隙間を作る。
木が母の背へ食い込んだ。
「手を出して」
俺の指には木馬の脚が引っかかっていた。
青い布の端を、離せなかった。
「お母さん」
「こっち。早く」
俺は木馬を落とした。
母の手へ触れた。
ざらざらしていた。その手が俺の手首を掴み、戸外へ押し出した。
尻を地面に打ち、顔を上げたとき、梁が落ちた。
土埃で母が見えなくなった。
俺は木片を掴んだ。引いた。爪の間に木が入り、割れて、また掴んだ。
「お母さん」
返事を待つ間、何度も手を擦った。
あの掌の土を落としてやれば、手が戻ってくるような気がした。
木馬は拾わなかった。
それでも、母の手は戻らなかった。
——ペトの手が、俺の指を押し返していた。
まだ、ここにある手だった。
炎の音が耳へ戻る。
ウネラさんが奥の壁を押さえ、右足へ力を込めていた。ペトへこちらへ来るなと叫んでいる。
少年は母の服を握るように、自分の胸を掴んでいた。
鎧を渡す。
そこまで考えた途端、腹の中が冷たくなった。
鎧を得てから、俺は一度も血を流していない。冒険の途中で死体を見ても、自分がああなるところを考えずに済んだ。
胸の留め金へ、手が行く。
こいつを閉じれば、俺だけはずっと無傷でいられる。
俺はその金具を、開けた。
「ペト。母さんの所へ行けるか」
「行く。僕が連れてくる」
「抱えようとするな。さっきと同じだ。肩を貸して、壁につかまってもらうんだ」
ペトが納屋の奥を見た。
母の足を見て、それから俺へ顔を戻した。
「できるよ。いつも、そうしてる」
俺は膝をついた。
少年の手を握り、開いた胸板を納屋の方へ向ける。火の粉が俺の肩で消えた。
背後でザルドが鼻を鳴らす。
「ようやく話が通じたか。待て、まだ射るな」
俺は振り返らなかった。
「さっきの字、ここにも書けるか」
空欄を指すと、ペトは俺の手と鎧の間を見た。
「でも、これ」
「お前が着るんだ」
「おじさんのは?」
鎧の内側に、俺の名が光っていた。
「俺はいい」
言いかけて、止めた。
少年は俺の顔を見ている。
「……ちょっと怖い。だが、母さんはお前に任せたい」
ペトが唇を結んだ。
指を空欄へ当てる。
炭で書いた名より、端が少し震えた。俺はその手を引かなかった。
書き終えたペトが、俺を見上げる。
「頼む。受け取ってくれ」
俺の承諾に、名の光が沈んだ。
ガイツは下へ移った。
代わりに、ペトが上に残る。
重さが胸から抜ける。肩当てが指先をすり抜け、銀色の板が少年へ集まった。袖に合わせて小さくなり、籠手が細い指を包む。
鎧の消えた首筋へ、火の熱が届いた。
「なぜ小僧に着せた!」
ザルドの声が、裏返った。
「射ろ! あの女を射ろ!」
ペトが納屋へ入った。
俺は少年の手を離し、街路へ出た。
「鎧もなしに、俺の前へ出るか」
ザルドが笑った。
ザルドが剣を持ち上げ、刃に彫られた王国最強の字をこちらへ向けた。
切っ先が、俺の喉を向く。
背後で納屋の梁が落ちた。銀の光が、炎の向こうで母子を包んでいる。
ペトは逃げなかった。
あいつは今、母親の手を取って歩いている。
「小僧を引きずり出せ!」
ザルドが俺の横を抜け、戸口へ踏み出した。
俺はその前へ出た。
剣が来た。
頬が熱くなる。
指で触ると、赤かった。
鎧を手に入れてから、忘れていた痛みだ。
「見ろ! 血が出る! お前など、鎧に守られていただけだ!」
「おう。よく守ってもらった」
背中で、ペトの声がした。
「お母さん、こっち!」
戸口から小さな銀の騎士が出てきた。母親の腰へ腕を回し、肩を貸している。母親も壁を押さえ、無事な方の足で身体を送った。
小さな銀の肩に、火矢が当たる。折れて落ちた。
もう一本が母親の背へ当たり、同じ光に砕けた。
二人の足は、止まらなかった。
俺は開いた両手を握った。
「鎧を脱がせたぞ! かかれ!」
兵が槍を突き出す。
その柄を掴んで横へ払った。槍ごと兵たちが転がる。穂先は誰にも向けない。俺の背中には、せっかく助かった親子がいる。
俺は奪った槍を石段の上へ投げた。
弓の横の石が割れ、射手が身を引いた。反対側の弦が鳴る。
音へ合わせて首を振る。耳の横を矢が通り過ぎ、背後の銀色に当たって落ちた。
「ペト、壁沿いに行け!」
「お母さん、右だよ。次も右」
母の短い返事が聞こえた。
ザルドの笑いが止まった。
剣を引く。遅い。
俺は踏み込んだ。
「その鎧の魔力が——」
「防御だけだ、あれ」
鼻先まで迫った刃を、拳の横で叩き折る。
「殴る方は、自前だ」
割れた剣先が石畳へ刺さった。
誰かが、ひ、と息を吸った。
「待て。待て、俺は王国の——」
母さんは、俺を庇うために丸くなった。
今日は俺が、背中を向けずに立つ。
「喰らえ、王権粉砕拳!」
隊長は、鎧ごと一回転した。
石畳に落ちた男から、王国最強の肩章が離れた。
俺は拾わなかった。
「撃て……撃て、命令だ!」
隊長はまだ声を出した。
だが、剣を持っていた手は地面を掴んでいた。落とした剣の柄へは届かない。
東の石塀で弓が揺れた。
俺は転がった兵の脇から別の槍を拾い上げ、射手を見上げる。
そいつの指が弦から離れた。矢は落ちた。次の矢を取る手は出なかった。
「弓を置け。下りてこい」
俺の声に、石塀で木の乾いた音がした。
転がされた兵が、立ち上がりかけた膝を止める。
「お前も。槍を離せ」
握った指が開いた。
納屋から、煙が川風に流れてくる。
俺はザルドの腰を指した。
「その鎖を外せ」
近くの兵が、俺と隊長を交互に見た。
「こ、これは、拘束用の——」
「分かってる。だから出せと言ってる」
「触るな! 貴様ら、誰の命令で動いている!」
ザルドが兵の足を掴もうとした。
兵は足を引き、隊長の腰から拘束具を外して俺へ差し出した。白い手袋の手首に鉄の輪をはめる。
隊長はそれを見下ろし、口を開けたまま止まった。
「納屋へ火を投げた奴も、弓を射た奴も残れ。本隊へ知らせる者を出せ」
俺はもう一度、兵たちを見た。
「その前に、水だ。燃えてる物を消せ。桶は井戸の横にある」
走り出す足が、ばらばらに石を叩いた。
隊長がもう一度、何か叫んだ。
桶を掴んだ兵は戻らなかった。
ウネラさんは荷車の縁へ腰を下ろしていた。
ペトがまだ、その手を握っている。
火の粉の届かない所まで来たのに、籠手の指は開かなかった。
「……お母さん、立てる?」
「今は座っていていいの。あなたも、こっち」
ウネラさんが空いた手で荷台を叩いた。
ペトは一度だけ納屋を振り向き、それから俺を見た。
「おじさん、血」
「少し切っただけだ。すぐ橋を——」
「そこへ座ってください、ガイツさん」
ウネラさんの声が、俺の返事を押し止めた。
ペトが桶から洗った布を拾ってくる。
「僕が持ってくるから」
俺は伸ばしかけた手を下ろした。
荷台の端へ座ると、板がぎしりと鳴った。
濡れた布が頬へ当たる。
しみた。
「……いて」
ペトが俺の顔を覗いた。
「無敵じゃなくなったんだ」
「見事な観察だ。今はちょっと傷つきやすいガイツさんだぞ。丁重に扱いたまえ」
「動かないでください」
ウネラさんが布を当て直す。
丁重とはこういうことらしい。俺は大人しく顔を預けた。
ウネラさんの指は煤けていた。布を絞った水が手首へ落ちる。
「怖かったか」
ペトに聞くと、少年は鎧の胸板へ目を落とした。
「怖かった。お母さんが歩いてくるまで、ずっと」
籠手の指で胸を叩く。
「これ、軽いね」
「力は増えないからな。鎧の重さまで背負わされたら、お前は床にめり込む」
「おじさんも?」
「毎朝めり込みながら稽古する羽目になる。強くなる前に家がなくなる」
ペトの口が少しだけ動いた。
胸板を外し、俺へ差し出す。
「返すよ。おじさん、痛いから」
手を伸ばした瞬間、鎧は細い光に解け、少年の肩へ戻った。
俺の指には何も残らなかった。
ペトが胸の留め金を押さえる。
俺はその小さな銀の板を軽く叩いた。
「似合ってる。母さんの手を取るとき、頼りになるだろ」
ペトが母を見た。
ウネラさんは少年の手へ、自分の指を重ねた。
さっきまでは、握るために少年が手を伸ばしていた。
今は母の方から、差し出されていた。
納屋の火が広がらなくなった頃、俺は橋の入口へ板を運んだ。
母子を乗せた荷車は、石の陰へ寄せてある。武器を置いた兵たちには、井戸と納屋の間を往復させた。本隊へ走らせる兵の名も聞き、徴発の許可状の裏へ書かせた。
その裏の文字を隊長が睨んでいたが、もうどうでもいい。
板をはめる。
釘を打つ。
頬に巻かれた布が、金槌を振るたび引きつる。
生きている顔とは、こんなにも文句が多いものだったか。
俺は最後の釘を打ち込み、板を踏んだ。沈まない。がたつきもない。
「通れるぞ」
ペトが母へ肩を貸す。
橋の手摺りへウネラさんが手を移し、右足から板へ乗った。ペトは腰へ添えた腕を離さない。
今度は、欠けた所で止まらなかった。
川の上を風が抜ける。頬の布が冷える。
橋を渡った先で、番人が母子へ駆け寄り、椅子を持ってきた。ウネラさんは座る前に俺を振り返った。
「ガイツさんも、夕飯を食べていってください」
「橋代の代わりに?」
「そういうことにしておきましょう。私にも、パンを渡させてください」
俺は返事をしようとして、頬の布を押さえた。
ペトが先に笑った。
俺は荷車の綱を持ち上げた。修理に使った梃子や金槌が、荷台の上で鳴る。
少年が隣へ来た。
「僕も持てるよ」
板のなくなった荷台を見て、俺は綱の片側を差し出した。
「こっち、持ってくれ」
小さな銀の手が、それを握った。
「技の名前、ないの?」
あるに決まっている。
俺は胸を張った。いつもの鎧は鳴らなかった。
「親子救出凱旋陣!」
「ファミリー・パレード!」
真顔で復唱した少年が、綱を引く。
俺も引いた。
背中でウネラさんが吹き出した。
笑い声につられ、ペトの手が緩みそうになる。俺は荷車を止めた。
「おっと。凱旋中の脇見は厳禁だ」
「おじさんも笑ってるよ」
傷が引きつる。
今度は隠さず、少年の横で笑った。




