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無敵の鎧は脱いだ。お前は素手で倒す

作者: さぼてん
掲載日:2026/10/16

「おじさん、無敵なんでしょ。なんで荷車に負けてるの?」

 背中へ刺さった一言が、魔王の爪より痛かった。

 いや、魔王とは戦ったことがない。今のは見栄だ。

「ペト君。これは負けではない。大地との対話だ」

「車輪、石に乗ってるよ」

「対話が通じたな」

 俺は綱を置いて膝をついた。違う。石じゃない。折れ釘が車軸に噛んでいる。

 車体の下へ梃子を差し、少し浮かせる。左の籠手を外した。隙間へ指を入れ、曲がった釘を引き抜いた。

「釘、手で抜けるの?」

「毎朝ちゃんと鍛えればな」

「僕のお母さん、釘は踏んじゃ駄目って言ってる」

「それは今後も守ってくれ」

 車輪が回った。綱を引くと、橋の修理に使う板ががたがた鳴る。

 ペトの腹も鳴った。

 俺は腰の袋からパンを取り出し、柔らかい所をちぎって渡した。

 あいつは笑った。それから、残った硬い端をちらっと見た。

「それも欲しいのか?」

「お母さんにあげる」

 俺は袋をもう一度開けた。

「だったら、こっちだ。二人で歯を大事にしろ」

 少年はパンを両手で抱えて走った。

 橋詰めの納屋の軒先で、その母親が俺へ頭を下げた。足に巻かれた布が泥に染まっている。

 日が落ちるまでに、あの足でも渡れる橋にする。

 俺は籠手を戻し、荷車の綱を握り直した。

「ガイツさん。板代まで出していただいて、本当に——」

「それより、そっちのパンを食べてくれ。腹の減る礼は後でいい」

 母親のウネラさんは口を閉じ、困ったようにパンを見た。

 ペトが自分のパンをかじった。

「お母さん。柔らかいよ」

 それで、ウネラさんも食べ始めた。

 よし。強敵撃破。

 俺は梃子を荷台へ戻した。天蓋鎧(ヘヴンズシェル)を着込んだ男の本日の戦果は、折れ釘の討伐と母子の昼飯だ。

 我ながら、なかなかの名勝負である。


 橋の入口で板が抜けていた。

 その向こうには、川を渡った町の門が見える。避難してきた人は北岸で受け入れてもらえると、門の上から番人が声を張っていた。

 俺たちがいるのは南岸だ。

 隙間は俺なら跨げる。ペトにも無理ではなさそうだが、あいつは橋へ近づかなかった。

「右から、ゆっくりね」

 母の脇へ入って肩を差し出す。

 ウネラさんが片手を納屋の壁につき、もう片方を少年の肩へ乗せた。左足を浮かせ、右足で身体を送る。

 板の抜けた橋へは、それでは進めない。

 俺は荷台の板を指した。

「こいつをはめて釘を打てば、あとは歩くだけだ。俺が持っていくから、二人は座っていてくれ」

「僕、端っこを持てるよ」

「落としたら足を潰すぞ。俺が全部やる」

 ペトは伸ばしかけた手を引っ込めた。

 代わりに母の手を取り直す。

 川風が納屋の軒下へ吹き込んだ。ウネラさんの肩が縮む。

「中で待とうか、ペト」

「うん。おじさん、火鉢は?」

「それは俺が——おっと、木の板は持たせないからな」

「火鉢も持たせないんでしょ」

「正解。素晴らしい理解力だ」

 あまり嬉しそうな顔はされなかった。

 納屋の入口にあった火鉢を内側へ寄せる。ペトは井戸で濡らしてきた布を母の足に巻き直し、外した泥の布を桶で洗った。

 八歳になったばかりだとウネラさんから聞いた。その手は小さいが、布の端を折り込むところは手慣れていた。

 俺の籠手へ、ペトが指を伸ばす。

「それ、熱くならないの?」

「外から来る熱は全部弾く。刃も煙もだ。寒い冗談だけは防げない。さっき、お前が証明してくれた」

「どの冗談?」

「そこまで追い込まなくていい」

 籠手を外した手を、火鉢の上へかざした。赤い炭に触れはしない。熱の上がる場所だが、俺の手の甲には冷たい川風しか届かない。

 ペトの手をその上へ重ねた。

「俺が触っていれば、お前も平気だ」

「本当だ。お母さんも」

 ペトが空いた手を伸ばし、母の指を取った。

 ウネラさんはすぐに手を引いた。

「私には熱いわ。ペト、もう離れて」

 少年を火鉢から下げて、俺も手を戻す。

「守れるのは俺と、俺が直接触っている一人までなんだ。手を繋いで増やすことはできない」

「じゃあ、おじさんが二人と繋いだら?」

「それでも、選べるのは一人だ」

「不便だね」

「鎧の前で言わないでくれ。拗ねたら困る」

 金属はいつも通り黙っていた。たいへん大人な防具である。

 ペトは荷台から落ちた板の切れ端を拾った。炭で何か書いている。

「何してる?」

「僕の名前。字も書けるよ」

 見せられた板には、少し傾いたペトの名があった。

 俺の名より読みやすい。人間として由々しき事態だ。

「だったらこれも読めるか?」

 胸板の留め金を外し、内側を開いて見せた。

 有効な名はガイツ。その下に、前の持ち主たちの薄い名が沈んでいる。

「こっちが俺。下のは、この鎧を他の誰かへ譲った人だ。一度こっちへ移った名前は、もう上に戻せない」

「おじさんも?」

「譲ればな。新しい持ち主が空いてる所へ自分の名を書く。それで俺がいいと言ったら、その人のものになる」

 俺の名の隣の空欄を指す。

「僕にも着られる?」

「身体には合う。でも力は増えないぞ。釘を引っこ抜くのは稽古の成果だ」

「鎧を着たら、お母さんと一緒に歩けるのに」

 ペトが内面へ指を伸ばしかけた。

 俺は胸板を閉じた。

「心配しなくていい。俺が運ぶ」

「でも、お母さんを運んでる間は僕どうするの?」

「お前もすぐ迎えに戻るさ」

 留め金が、いつもより大きな音を立てた。

 ペトは炭を置き、母の座る木箱へ戻った。ウネラさんは何も言わず、少年の指の黒い汚れを布で拭いた。

 板を運ぼう。

 俺が橋を直せばいい。それで済む。

 そう思って荷車へ戻ったとき、街道から角笛が鳴った。


「冒険者ガイツとは、お前か」

 騎士たちは南の街道から来た。

 先頭の男が馬を降りると、銀色の肩章が鳴った。剣の鞘も銀飾り。手袋まで白い。泥を避ける足運びには、見習いたいものがある。いや、そこじゃないな。

「ガイツは俺だ。橋なら少し待ってくれ」

「橋に用はない。王国武具徴発隊長、ザルドだ。その鎧を王都へ持ち帰る」

 差し出された羊皮紙には王家の印があった。

 道を空ける人々の間で、兵たちが左右へ散っていく。俺は紙の文字を追った。

「戦力となる武具の買上げ。所有者の承諾を得て適正な代価を……隊長さん。ずいぶん後ろの方を省略したな」

「代価なら用意した」

 白い手袋が金袋を押し出す。

 受け取らずに押し返した。

「売らない」

「よく見てから言え。田舎の橋を直す仕事で、一生かかっても稼げぬ額だ」

「橋の修理は仕事じゃない。俺がやると言っただけだ」

「ならばなおさら必要ないだろう。子守りに国宝級の鎧とはな」

 ザルドは俺の肩から足先まで眺めた。

 値札を探すような目だった。

「民間の男に独占させておくものではない。お前の代わりなど、鎧さえあれば——」

 木がぶつかる音がした。

 振り向くと、兵が納屋の戸に太い閂を落としたところだった。

「お母さん!」

 荷車の傍でペトが叫んだ。

 俺は走った。

「開門破砕掌(ゲート・クラッシャー)!」

 閂は、薪になった。

 戸を蹴り開ける。奥の壁際でウネラさんが木箱から腰を浮かせた。

 その横、戸口の陰にいた兵の手が動いた。

 口に布を詰めた壺。布の先が燃えている。

 俺の指が届く前に、壺は側壁に当たって割れた。油が木を濡らし、軒へ赤い舌を伸ばす。

 投げた兵は飛び退いた。

 追えば捕まえられる。

 俺はそいつの背中ではなく、納屋の奥を向いた。

「ウネラさん、立てるか!」

「足が……ペトは外へ!」

 咳が返事を切った。

 ペトが俺の脚の横を抜けようとする。その肩を掴んだ。

「待て。俺が行く」

「戸口から出る者を射ろ」

 背後の声に、俺は半身だけ振り返った。

 西の石段の上に弓。東の石塀の上にも弓。引かれた弦が頬の横へ揃っている。

 隊長は俺と橋の間へ立ち、抜いた剣で戸口を指していた。

「下がらせろ」

「鎧を渡せば下がらせる」

「人が中にいるんだぞ!」

「知っている。だから火をつけた」

 ザルドの白い手袋が、金袋を腰へ戻した。

「その鎧は、所有者が死ねば消える。剥いでもお前の所へ戻る。まったく面倒な代物だ。お前の承諾さえあれば、誰も困らずに済むのだがな」

 母のいる戸口に、焦げた木片が落ちた。

 兵を殴る間にも火は広がる。隊長を倒しても、左右の弓まで一緒に倒れるわけじゃない。

 俺が母を抱えれば、その人は守れる。ペトまで担ぐことはできる。だが、鎧に守られない一人が残る。

 あの射手の手元を全部見て、飛んだ矢を全部避け、母子の身体を一度も離さずに——。

 俺は奥歯を噛んだ。

 自分だけなら、どうとでもなる。

「ペト。お前はあの荷車の陰へ」

 少年の肩を外へ押そうとした。

 小さな手が、俺の手を振り払った。

「お母さんも!」

 その声に、喉の奥が動かなくなった。


 ——俺も、あんな声で母を呼んだ。

 まだ家の戸口が、自分の背より高く見えた頃だ。

 山が鳴った。父親を知らない俺には、腹を立てた大男というものも、あの音に似ているのだろうと思えた。

 道を走る母の手はざらついていた。掌に土がついていた。

「ガイ。井戸の道まで行って」

 母は俺を前へ出し、隣の家の戸を叩いた。

 俺は走った。

 途中で、木馬を置いてきたことを思い出した。

 欠けた脚を、母が青い布で巻いてくれた木馬だった。片脚が短くて、床へ置くと傾く。それが嫌で泣いた俺に、母は膝へ乗せて直してくれた。

 家へ戻った。

 木馬は食器棚の下に転がっていた。

 しゃがんで手を伸ばすと、床が動いた。棚が鳴った。皿が頬の横で割れた。

「ガイ!」

 母の声がした。

 戸口へ出ようとした俺の前へ棚が傾いた。母が身体を滑り込ませ、戸口との間に隙間を作る。

 木が母の背へ食い込んだ。

「手を出して」

 俺の指には木馬の脚が引っかかっていた。

 青い布の端を、離せなかった。

「お母さん」

「こっち。早く」

 俺は木馬を落とした。

 母の手へ触れた。

 ざらざらしていた。その手が俺の手首を掴み、戸外へ押し出した。

 尻を地面に打ち、顔を上げたとき、梁が落ちた。

 土埃で母が見えなくなった。

 俺は木片を掴んだ。引いた。爪の間に木が入り、割れて、また掴んだ。

「お母さん」

 返事を待つ間、何度も手を擦った。

 あの掌の土を落としてやれば、手が戻ってくるような気がした。

 木馬は拾わなかった。

 それでも、母の手は戻らなかった。


 ——ペトの手が、俺の指を押し返していた。

 まだ、ここにある手だった。

 炎の音が耳へ戻る。

 ウネラさんが奥の壁を押さえ、右足へ力を込めていた。ペトへこちらへ来るなと叫んでいる。

 少年は母の服を握るように、自分の胸を掴んでいた。

 鎧を渡す。

 そこまで考えた途端、腹の中が冷たくなった。

 鎧を得てから、俺は一度も血を流していない。冒険の途中で死体を見ても、自分がああなるところを考えずに済んだ。

 胸の留め金へ、手が行く。

 こいつを閉じれば、俺だけはずっと無傷でいられる。

 俺はその金具を、開けた。

「ペト。母さんの所へ行けるか」

「行く。僕が連れてくる」

「抱えようとするな。さっきと同じだ。肩を貸して、壁につかまってもらうんだ」

 ペトが納屋の奥を見た。

 母の足を見て、それから俺へ顔を戻した。

「できるよ。いつも、そうしてる」

 俺は膝をついた。

 少年の手を握り、開いた胸板を納屋の方へ向ける。火の粉が俺の肩で消えた。

 背後でザルドが鼻を鳴らす。

「ようやく話が通じたか。待て、まだ射るな」

 俺は振り返らなかった。

「さっきの字、ここにも書けるか」

 空欄を指すと、ペトは俺の手と鎧の間を見た。

「でも、これ」

「お前が着るんだ」

「おじさんのは?」

 鎧の内側に、俺の名が光っていた。

「俺はいい」

 言いかけて、止めた。

 少年は俺の顔を見ている。

「……ちょっと怖い。だが、母さんはお前に任せたい」

 ペトが唇を結んだ。

 指を空欄へ当てる。

 炭で書いた名より、端が少し震えた。俺はその手を引かなかった。

 書き終えたペトが、俺を見上げる。

「頼む。受け取ってくれ」

 俺の承諾に、名の光が沈んだ。

 ガイツは下へ移った。

 代わりに、ペトが上に残る。

 重さが胸から抜ける。肩当てが指先をすり抜け、銀色の板が少年へ集まった。袖に合わせて小さくなり、籠手が細い指を包む。

 鎧の消えた首筋へ、火の熱が届いた。

「なぜ小僧に着せた!」

 ザルドの声が、裏返った。

「射ろ! あの女を射ろ!」

 ペトが納屋へ入った。

 俺は少年の手を離し、街路へ出た。


「鎧もなしに、俺の前へ出るか」

 ザルドが笑った。

 ザルドが剣を持ち上げ、刃に彫られた王国最強の字をこちらへ向けた。

 切っ先が、俺の喉を向く。

 背後で納屋の梁が落ちた。銀の光が、炎の向こうで母子を包んでいる。

 ペトは逃げなかった。

 あいつは今、母親の手を取って歩いている。

「小僧を引きずり出せ!」

 ザルドが俺の横を抜け、戸口へ踏み出した。

 俺はその前へ出た。

 剣が来た。

 頬が熱くなる。

 指で触ると、赤かった。

 鎧を手に入れてから、忘れていた痛みだ。

「見ろ! 血が出る! お前など、鎧に守られていただけだ!」

「おう。よく守ってもらった」

 背中で、ペトの声がした。

「お母さん、こっち!」

 戸口から小さな銀の騎士が出てきた。母親の腰へ腕を回し、肩を貸している。母親も壁を押さえ、無事な方の足で身体を送った。

 小さな銀の肩に、火矢が当たる。折れて落ちた。

 もう一本が母親の背へ当たり、同じ光に砕けた。

 二人の足は、止まらなかった。

 俺は開いた両手を握った。

「鎧を脱がせたぞ! かかれ!」

 兵が槍を突き出す。

 その柄を掴んで横へ払った。槍ごと兵たちが転がる。穂先は誰にも向けない。俺の背中には、せっかく助かった親子がいる。

 俺は奪った槍を石段の上へ投げた。

 弓の横の石が割れ、射手が身を引いた。反対側の弦が鳴る。

 音へ合わせて首を振る。耳の横を矢が通り過ぎ、背後の銀色に当たって落ちた。

「ペト、壁沿いに行け!」

「お母さん、右だよ。次も右」

 母の短い返事が聞こえた。

 ザルドの笑いが止まった。

 剣を引く。遅い。

 俺は踏み込んだ。

「その鎧の魔力が——」

「防御だけだ、あれ」

 鼻先まで迫った刃を、拳の横で叩き折る。

「殴る方は、自前だ」

 割れた剣先が石畳へ刺さった。

 誰かが、ひ、と息を吸った。

「待て。待て、俺は王国の——」

 母さんは、俺を庇うために丸くなった。

 今日は俺が、背中を向けずに立つ。

「喰らえ、王権粉砕拳(クラウン・ブレイカー)!」


 隊長は、鎧ごと一回転した。

 石畳に落ちた男から、王国最強の肩章が離れた。

 俺は拾わなかった。


「撃て……撃て、命令だ!」

 隊長はまだ声を出した。

 だが、剣を持っていた手は地面を掴んでいた。落とした剣の柄へは届かない。

 東の石塀で弓が揺れた。

 俺は転がった兵の脇から別の槍を拾い上げ、射手を見上げる。

 そいつの指が弦から離れた。矢は落ちた。次の矢を取る手は出なかった。

「弓を置け。下りてこい」

 俺の声に、石塀で木の乾いた音がした。

 転がされた兵が、立ち上がりかけた膝を止める。

「お前も。槍を離せ」

 握った指が開いた。

 納屋から、煙が川風に流れてくる。

 俺はザルドの腰を指した。

「その鎖を外せ」

 近くの兵が、俺と隊長を交互に見た。

「こ、これは、拘束用の——」

「分かってる。だから出せと言ってる」

「触るな! 貴様ら、誰の命令で動いている!」

 ザルドが兵の足を掴もうとした。

 兵は足を引き、隊長の腰から拘束具を外して俺へ差し出した。白い手袋の手首に鉄の輪をはめる。

 隊長はそれを見下ろし、口を開けたまま止まった。

「納屋へ火を投げた奴も、弓を射た奴も残れ。本隊へ知らせる者を出せ」

 俺はもう一度、兵たちを見た。

「その前に、水だ。燃えてる物を消せ。桶は井戸の横にある」

 走り出す足が、ばらばらに石を叩いた。

 隊長がもう一度、何か叫んだ。

 桶を掴んだ兵は戻らなかった。


 ウネラさんは荷車の縁へ腰を下ろしていた。

 ペトがまだ、その手を握っている。

 火の粉の届かない所まで来たのに、籠手の指は開かなかった。

「……お母さん、立てる?」

「今は座っていていいの。あなたも、こっち」

 ウネラさんが空いた手で荷台を叩いた。

 ペトは一度だけ納屋を振り向き、それから俺を見た。

「おじさん、血」

「少し切っただけだ。すぐ橋を——」

「そこへ座ってください、ガイツさん」

 ウネラさんの声が、俺の返事を押し止めた。

 ペトが桶から洗った布を拾ってくる。

「僕が持ってくるから」

 俺は伸ばしかけた手を下ろした。

 荷台の端へ座ると、板がぎしりと鳴った。

 濡れた布が頬へ当たる。

 しみた。

「……いて」

 ペトが俺の顔を覗いた。

「無敵じゃなくなったんだ」

「見事な観察だ。今はちょっと傷つきやすいガイツさんだぞ。丁重に扱いたまえ」

「動かないでください」

 ウネラさんが布を当て直す。

 丁重とはこういうことらしい。俺は大人しく顔を預けた。

 ウネラさんの指は煤けていた。布を絞った水が手首へ落ちる。

「怖かったか」

 ペトに聞くと、少年は鎧の胸板へ目を落とした。

「怖かった。お母さんが歩いてくるまで、ずっと」

 籠手の指で胸を叩く。

「これ、軽いね」

「力は増えないからな。鎧の重さまで背負わされたら、お前は床にめり込む」

「おじさんも?」

「毎朝めり込みながら稽古する羽目になる。強くなる前に家がなくなる」

 ペトの口が少しだけ動いた。

 胸板を外し、俺へ差し出す。

「返すよ。おじさん、痛いから」

 手を伸ばした瞬間、鎧は細い光に解け、少年の肩へ戻った。

 俺の指には何も残らなかった。

 ペトが胸の留め金を押さえる。

 俺はその小さな銀の板を軽く叩いた。

「似合ってる。母さんの手を取るとき、頼りになるだろ」

 ペトが母を見た。

 ウネラさんは少年の手へ、自分の指を重ねた。

 さっきまでは、握るために少年が手を伸ばしていた。

 今は母の方から、差し出されていた。


 納屋の火が広がらなくなった頃、俺は橋の入口へ板を運んだ。

 母子を乗せた荷車は、石の陰へ寄せてある。武器を置いた兵たちには、井戸と納屋の間を往復させた。本隊へ走らせる兵の名も聞き、徴発の許可状の裏へ書かせた。

 その裏の文字を隊長が睨んでいたが、もうどうでもいい。

 板をはめる。

 釘を打つ。

 頬に巻かれた布が、金槌を振るたび引きつる。

 生きている顔とは、こんなにも文句が多いものだったか。

 俺は最後の釘を打ち込み、板を踏んだ。沈まない。がたつきもない。

「通れるぞ」

 ペトが母へ肩を貸す。

 橋の手摺りへウネラさんが手を移し、右足から板へ乗った。ペトは腰へ添えた腕を離さない。

 今度は、欠けた所で止まらなかった。

 川の上を風が抜ける。頬の布が冷える。

 橋を渡った先で、番人が母子へ駆け寄り、椅子を持ってきた。ウネラさんは座る前に俺を振り返った。

「ガイツさんも、夕飯を食べていってください」

「橋代の代わりに?」

「そういうことにしておきましょう。私にも、パンを渡させてください」

 俺は返事をしようとして、頬の布を押さえた。

 ペトが先に笑った。

 俺は荷車の綱を持ち上げた。修理に使った梃子や金槌が、荷台の上で鳴る。

 少年が隣へ来た。

「僕も持てるよ」

 板のなくなった荷台を見て、俺は綱の片側を差し出した。

「こっち、持ってくれ」

 小さな銀の手が、それを握った。

「技の名前、ないの?」

 あるに決まっている。

 俺は胸を張った。いつもの鎧は鳴らなかった。

「親子救出凱旋陣(ファミリー・パレード)!」

「ファミリー・パレード!」

 真顔で復唱した少年が、綱を引く。

 俺も引いた。

 背中でウネラさんが吹き出した。

 笑い声につられ、ペトの手が緩みそうになる。俺は荷車を止めた。

「おっと。凱旋中の脇見は厳禁だ」

「おじさんも笑ってるよ」

 傷が引きつる。

 今度は隠さず、少年の横で笑った。

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