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第9話「豊穣の土地と王都の嫉妬」

 フェルメル公爵という、これ以上ないほど強力な後ろ盾を得たアロンの農業改革は、まさしく飛ぶ鳥を落とす勢いで進展した。


 アロンはまず、カペル村で成功した農業モデルを、領内の他の村々へ普及させることから始めた。


 そのために、各村から若者たちを集め、「農業研修生」としてカペル村で直接指導を行った。


「いいか、みんな。一番大事なのは、土だ。土を愛し、土を敬い、土の声を聞くんだ。そうすれば、土は必ず俺たちに応えてくれる」


 アロンの指導は、極めて実践的だった。


 堆肥の作り方、緑肥の効果的な使い方、連作障害を防ぐための輪作計画、そして、病害虫に強い土壌環境の作り方。


 前世で培った知識と経験に、『土壌神の恵み』による科学的な(この世界では魔法にしか見えないが)分析を加えたアロンの農業理論は、研修生たちを熱狂させた。


 研修を終えた若者たちが、それぞれの村へ帰っていく。


 彼らは、アロンから教わった新しい農業技術の「伝道師」となった。


 最初は半信半疑だった他の村々も、カペル村の驚異的な成功を目の当たりにしている。アロンの教えを、素直に受け入れた。


 結果は、すぐに出た。


 フェルメル領の、どの村でも、かつてないほどの豊作が記録されたのだ。


 倉庫から溢れた作物は、バルトの持つ広大な流通網に乗って、領外へと運ばれていく。


 領地には、莫大な富がもたらされた。


 アロンは、その富を、さらなる農業インフラの整備に注ぎ込んだ。


 最大の功績は、大規模な灌漑かんがい用水路の建設だ。


 領内を流れる大河から水を引き、毛細血管のように水路を張り巡らせることで、今まで天水に頼るしかなかった畑にも、安定して水を供給できるようになった。


 これにより、日照りが続いても、作物が枯れる心配はなくなった。


 さらに、保水性の高い土壌作りを徹底したことで、フェルメル領の土地は、巨大なスポンジのように水を蓄える力を得た。


 人々は、もはや飢えることがなくなった。


 食が満たされれば、人の心は穏やかになる。


 領内の犯罪は激減し、村々の間での水争いのような、いさかいもなくなった。


 フェルメル領は、王国でも類を見ないほど豊かで、平和な土地へと変貌を遂げたのだ。


 領民たちは、その立役者であるアロンを「豊穣の神の申し子」と呼び、心から敬愛した。


 そして、アロンを抜擢し、支援し続けたフェルメル公爵を、稀代の名君として称えた。


 だが、光が強ければ、影もまた濃くなる。


 フェルメル領の、あまりに急激な発展。


 その噂は、王都の貴族たちの耳にも、もちろん届いていた。


 彼らの耳に届く情報は、嫉妬と悪意によって、ねじ曲げられて伝えられる。


「フェルメル公の領地が、異常なほど羽振りがいいらしいぞ」


「なんでも、妖しげな術を使う小僧をそそのかして、領民から富を搾取しているとか」


「公爵は、その富で軍備を増強し、王国に反旗を翻す準備をしている、という噂も……」


 王宮のサロンでは、そんな根も葉もない噂が、まことしやかにささやかれていた。


 特に、フェルメル公爵家を快く思っていなかった宰相のオルバンス侯爵は、この状況を危険視した。


 フェルメル公爵は、もともと王国内でも屈指の名門貴族。その彼が、経済力と、民からの絶大な支持を背景に、これ以上力をつければ、自分たちの地位が脅かされる。


 オルバンス侯爵は、国王に進言した。


「陛下。フェルメル公の増長は、もはや見過ごせませぬ。一度、王国の威光を知らしめるためにも、何らかの措置を講じるべきかと」


 老齢で、政治に疎い国王は、宰相の言葉を鵜呑みにした。


「うむ。よしなに計らえ」


 王の許可を得たオルバンス侯爵は、ほくそ笑んだ。


 彼は、フェルメル領に対し、法外な臨時徴税を課すことを決定した。


 名目は「王都のインフラ整備費用」。


 要するに、豊かになったフェルメル領から、その富を吸い上げようという、あからさまな嫌がらせであり、牽制だった。


 その知らせは、シルバームーン城に、重苦しい空気をもたらした。


「なんということだ……。宰相め、我らを潰す気か」


 玉座の間で、フェルメル公爵は苦々しく吐き捨てた。


 要求された税額は、領地の年間予算に匹敵する、天文学的な数字だった。


 これを支払えば、アロンが進めてきた農業インフラ整備は、すべて中断せざるを得なくなる。領民の生活は、再び苦しいものに戻ってしまうだろう。


「公爵様、この要求、断固として拒否すべきです!」


 血気盛んな騎士団長が叫ぶ。


 しかし、老獪な家臣は首を横に振った。


「なりませぬ。王命に逆らえば、それこそ反逆の口実を与えてしまうことに」


 議論は、平行線をたどるばかり。


 その様子を、末席で静かに見ていたアロンは、ふと、窓の外に目をやった。


 空には、どんよりとした雲が垂れ込めている。


 もう何週間も、まともな雨が降っていなかった。


 乾いた風が、領地の土を巻き上げて、空を黄色く染めている。


『……嫌な予感がする』


 アロンの脳裏を、前世の記憶がよぎる。


 記録的な猛暑と、大干ばつ。


 農家にとって、最も恐ろしい悪夢。


 王都からの理不尽な要求と、忍び寄る天災の影。


 アロンたちが、丹精込めて築き上げてきた豊穣の土地に、今、最大の試練が訪れようとしていた。


 その試練が、やがて王国全体を揺るがす、大きな動乱の引き金になることを、まだ誰も知らなかった。

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