第8話「姫を救うは一皿のスープ」
フェルメル公爵の居城、シルバームーン城は、アロンが想像していた以上に壮大で、美しい城だった。
天を突くようにそびえる白い尖塔。磨き上げられ、人の姿を映す大理石の床。壁には、英雄たちの活躍を描いたであろう巨大なタペストリーが掛けられている。
『うわー……。うちの村の家、何百軒分だ、これ』
案内されるままに、豪華な廊下を歩きながら、アロンは完全に気圧されていた。
隣を歩くセナは、口を半開きにしたまま、きょろきょろと辺りを見回している。
「アロンが行くなら、私も絶対に行く!」と駄々をこね、護衛兼お目付け役として、強引についてきたのだ。
城の一室に通されたアロンとセナは、この城の主、フェルメル公爵その人と対面することになった。
謁見の間に現れたのは、厳格な顔つきをした、壮年の男性だった。立派な口髭を蓄え、その瞳は鷲のように鋭い。だが、その表情には、娘を心配する父親としての深い疲労と悲しみの色が浮かんでいた。
「君が、アロン君か。執事のセバスチャンから話は聞いている」
低く、しかしよく通る声で、フェルメル公爵は言った。
「娘、セレスは、もう幾月も床に伏せっている。原因もわからず、ただただ、命の灯火が消えていくのを待つばかり……。もし、君が、娘を救う手立てを持つというのなら、私はどんなことでもしよう。頼む、娘を助けてやってはくれまいか」
領地の民、数万人を束ねる領主が、10歳の少年に、深々と頭を下げた。
アロンは、その姿に、領主ではなく、一人の父親の必死な思いを見た。
「顔を上げてください、公爵様。全力を尽くすことをお約束します。まずは、姫君様にお会いさせてください」
アロンの言葉に、公爵は静かに頷いた。
案内されたのは、城の最上階にある、陽当たりの良い部屋だった。
天蓋付きの大きなベッドの上に、一人の少女が横たわっている。
年の頃は、アロンと同じくらいだろうか。
透き通るように白い肌。月光を溶かし込んだかのような銀色の髪。人形のように整った顔立ち。
しかし、その顔色は青白く、頬はこけ、唇は乾ききっている。か細い呼吸を繰り返す彼女の姿は、あまりに儚く、痛々しかった。
彼女が、セレス姫。
「……ひどいな」
アロンは、思わずつぶやいた。
彼女の様子は、アロンの予想以上に深刻だった。
これは、ただの栄養失調ではない。特定の栄養素が極度に欠乏することで引き起こされる、壊血病や脚気に近い症状かもしれない。
アロンは、持参したカゴの中から、いくつかの野菜を取り出した。
真っ赤に熟したトマト。鮮やかなオレンジ色のカボチャ。濃い緑色の葉物野菜。
これらは、アロンが『土壌神の恵み』の力を使って、特にビタミンやミネラルを豊富に含むように品種改良を重ねた、特別な野菜たちだ。
「公爵様、厨房をお借りします。僕が、姫君様のためのお食事をお作りします」
アロンの申し出に、城の料理長は、あからさまに不快な顔をした。
「な、何を言うか、小僧! 公爵家のお厨房は、お前のような素性が知れん者に使わせるわけにはいかん!」
しかし、それを制したのは、公爵その人だった。
「構わん。好きに使わせてやれ。アロン君、頼んだぞ」
公爵の鶴の一声で、アロンは城の広大な厨房を自由に使わせてもらえることになった。
アロンが作ろうとしているのは、病み上がりの人間でも、栄養を効率よく摂取できる、特別なスープだった。
まず、鶏の骨と、香味野菜をコトコト煮込んで、滋味深いスープストックを取る。
次に、カボチャとタマネギをじっくりと炒めて甘みを引き出し、スープストックを加えて柔らかくなるまで煮込む。
それを丁寧に裏ごしし、滑らかなクリーム状にする。最後に、新鮮な牛乳(村から持ってきたものだ)を加えてコクを出し、塩で味を調える。
仕上げに、湯剥きして種を取り、細かく刻んだトマトを散らす。
カボチャのポタージュスープ。
鮮やかなオレンジ色のスープに、トマトの赤がアクセントになっている。見ているだけで、食欲が湧いてくるような一皿だ。
このスープには、ベータカロテン、ビタミンC、ビタミンE、カリウムなど、今のセレス姫に最も必要だと思われる栄養素が、ぎゅっと凝縮されている。
アロンは、完成したスープを銀の器に入れ、セレス姫の元へと運んだ。
「セレス様、お食事をお持ちしました。ほんの少しでいいんです。スプーン一杯だけでも、口にしていただけませんか」
アロンが優しく語りかけると、それまで虚ろだった姫の青い瞳が、わずかに動いた。
彼女の視線が、スープの温かい湯気と、甘い香りに引き寄せられる。
侍女がスプーンを姫の口元へ運ぶが、姫はか細く首を横に振るだけだった。
「……僕に、やらせてください」
アロンは、侍女からスプーンを受け取ると、もう一度、姫に語りかけた。
「これは、僕が畑で育てた、太陽の味がするカボチャのスープです。これを飲めば、きっと、元気になれます。僕が、保証します」
アロンの真剣な目に、嘘はなかった。
セレス姫は、しばらくじっとアロンの顔を見つめていたが、やがて、ほんの少しだけ、その唇を開いた。
アロンは、慎重にスプーンを姫の口へと運ぶ。
こくり、と。
小さな喉が、動いた。
何週間も、何も受け付けなかった姫が、スープを飲んだ。
その場にいた、公爵も、セバスチャンも、侍女たちも、誰もが息を飲んだ。
姫は、もう一口、もう一口と、アロンが運ぶスープを、ゆっくりと、しかし確実に飲み込んでいく。
そして、器の半分ほどが空になった頃、姫の青白い頬に、ほんのりと、血の気が差したように見えた。
「……おいしい」
それは、蚊の鳴くような、か細い声だった。
しかし、その一言は、部屋にいた全員の耳に、確かに届いた。
次の瞬間、フェルメル公爵は、アロンの両肩を掴み、その場に崩れ落ちるようにして泣き出した。
厳格な領主の仮面を脱ぎ捨てた、ただの父親の、喜びの涙だった。
この日から、セレス姫の奇跡的な回復が始まった。
アロンが毎日作る、栄養バランスを考え抜かれた「アロン特製・回復食コース」によって、姫はみるみるうちに元気を取り戻していった。
カボチャのポタージュ、トマトとジャガイモのニョッキ、具沢山のミネストローネ、鶏の卵を使ったプリン……。
アロンの料理は、姫の体を癒し、そして、閉ざされていた彼女の心をも、少しずつ溶かしていった。
1ヶ月後。
セレス姫は、自分の足で、城の庭を散歩できるまでに回復した。
「アロン。あなたの作ってくれるご飯、本当に美味しいわ。まるで、魔法みたい」
銀色の髪を風になびかせながら、セレスは花のように微笑んだ。
その笑顔は、アロンの心に、セナとはまた違う、温かい光を灯した。
フェルメル公爵は、アロンを、娘の命の恩人として、そして、この領地の宝として、最大限の支援を約束した。
資金、人材、領地内の未開墾地の使用許可。
アロンが望むものは、何でも与えられた。
アロンの農業革命は、今、一個人の、一つの村の規模を完全に超え、領地全体を巻き込む、巨大なプロジェクトへと発展しようとしていた。
その先に、王都の黒い嫉妬が渦巻いていることを、この時のアロンは、まだ知る由もなかった。




