第31話 おめでとう
リザ先輩、ノヴィアに続き、最後のひとりが病室を訪れたのは、警邏隊の聴き取り調査が終わった翌日の昼過ぎのことだった。
「ごめん」
挨拶よりも先に、その言葉が零れた。茶色のセミロングヘアを後ろでひとつに束ねた彼女の、透き通った鳶色の瞳。そこから目を逸らしてしまえば、ぼくは一生、自分を許せない気がした。《囀り》を倒し、霧が晴れるように記憶が戻ったとき、もし彼女がここに来てくれたなら、真っ先に謝ろうと心に決めていた。
「ダエラさんから聞いたよ。あのニャラームの広告のせいで、君が追跡行為被害に遭ったって」
彼女は最初、こちらの謝罪の意図を測りかねているようだった。だが「追跡行為」という単語を口にした瞬間、その瞳がわずかに揺れ、所在なげに泳いだ。
「すべて、企画したぼくの責任だ。君と仕事ができるのが嬉しくて、ぼくは……浮ついていたんだ。君をどれほど危険な目に遭わせるかなんて想像もしてなかった。人を起用して仕事をするという責任の重さを、何もわかっていなかった」
「先輩、何を言ってるんですか。謝らないでください」
彼女は遮るように言い、困ったように眉を下げた。
「追跡行為の話……あれ、嘘なんです」
耳に届いた言葉の意味が、すぐには像を結ばなかった。
「どういうこと?」
問い返すと、彼女はまるで悪戯を見つけられた子供のように、両手を後ろに回してベッドの上を凝視した。
「わたしがダエラさんに相談したんです。そうしたら、一芝居打とうって話になって」
「つまり、実際には被害に遭っていなかった、ということ?」
「はい」
ばつの悪そうな表情で、彼女は白状するように続けた。「ついでに言うと、引っ越しというのも嘘です。ダエラさん、先輩にかなり強く釘を刺したんですよね。あとで聞いて、申し訳なくて」
記憶が蘇る。あの時のダエラさんは、獲物を射抜くような眼光で『二度と彼女に近づくな』と拒絶してきた。その気圧されるような迫力に、ぼくも、同席していたリーランド上長も竦み上がった。
結果としてぼくは彼女との接触を断ち、彼女もまた、こちらを避けるようになった。
あれから、もう一年が経ったのか。
今さらながらに流れた月日の重さを自覚し、改めて彼女を見た。袖口から覗く白い肌、凛とした佇まい。新たな門出を迎えた彼女は、以前よりもずっと、手の届かない場所で輝いているように見えた。
「よかった……」
心から、安堵の息が漏れた。
「君が本当に怖い思いをしたわけじゃないと分かって、救われた気分だよ」
「すみません」
彼女は律儀に頭を下げた。
「先輩を騙したかったわけじゃないんです。でも、あの時のわたしには、他にどうすればいいか分からなくて。心がいっぱいいっぱいで、毎日悩んで……。それしか、方法が思いつかなかったんです」
「心がいっぱいいっぱい、って……」
聞くな、と内なる自分が叫んだ。けど、その問いを止めることはできなかった。言葉にした瞬間、舌の上に苦い後悔が広がる。
彼女が嘘を吐いてまでぼくを遠ざけた理由。それに心当たりがないと言えば、それこそ自分への欺瞞だ。
けれど、その真実に自分から触れに行きたかった。自分自身が正しく傷つくために。そして、彼女ならぼくを「正しく傷つけてくれる」と信じていた。
「ずっと、気づいていました」
予感通りの答えが、静かに降ってきた。
「バードウッド先輩が、わたしに特別な感情を向けてくださっていること」
「……そうか」
だからこその、あの一芝居だったのだ。ぼくを傷つけきらずに、けれど決定的に引き剥がすための、彼女なりの、そしてダエラさんなりの「慈悲」だった。
はっきりと口にしてくれる彼女は、やはり残酷なまでに優しい。問題は、やはりぼくの側にあるのだ。望まれない愛を抱き、それが無価値だと分かってからも、惨めに執着し続けたぼくの心の弱さに。
「そんなに分かりやすかったかな?」
完璧に隠し通していたつもりの手品を、一瞬で見破られていた観客に尋ねるような心地だった。
「はい。それはもう」
彼女は少しだけ、茶目っ気のある苦笑いを浮かべた。
「カメラのシャッターを切る手に、熱がこもっているのが伝わってくるようでした」
カッと顔が熱くなり、思わず視線を逸らした。情けなくて、消えてしまいたかった。自然な振る舞いを装いながら、下卑た欲望がだだ漏れになっていたなんて。
「ごめん。本当に、ごめんなさい」
項垂れ、喉の奥から絞り出す。その謝罪に込められた重すぎる自責を感じ取ったのか、彼女は慌てたように手を振った。
「やめてください、先輩! わたし、先輩に聞かれなければずっと隠しておくつもりだったんです。気持ち悪いなんて、一度も思ったことはありません。本当です。地下魔構に潜ってばかりだったあの頃、先輩とお仕事ができて、本当に楽しかったんですから」
彼女は一度言葉を切ると、意を決したように背筋を伸ばした。
「……それで、今日はそのお礼と、ご報告に来たんです。わたし、来月いっぱいで《星の金貨》を辞めることにしました」
「え?」
「先輩のせいじゃありませんよ? 理由があって、行かなきゃいけなくなったんです」
「行くって、どこに?」
「リッツ大陸です」
海を隔てた新天地の名前が飛び出してきて、目を丸くした。聞くところによると、彼女の夫、クレイ・オーガストの超長期遠征が理由だという。
半年前、海を隔てたリッツ大陸で未踏の巨大な地下魔構が発見された。人材不足に悩む現地政府の要請を受け、シュワルティア共和国に話が流れたという。そこからギルド協会を通して白羽の矢が立ったうちのひとりが、《陽だまりの大樹》に所属するSS級冒険者の彼だった、ということらしい。
「何年かかるか分からない遠征に、夫を一人で行かせるわけにはいきませんから」
向こうで愛人でも作られたりしたら困りますし、と彼女は屈託なく笑う。その冗談が言えること自体が、二人の間に築かれた揺るぎない信頼の証だった。
「一緒についていくのが、結婚の条件でもあったんです」
「そうか……」
寂しくなるな、という言葉を飲み込んだ。ぼくにはそれを言う資格も、権利もない。
「急だね。お見送り会も、慌ただしくなりそうだ」
「そんなに盛大にやらなくてもいいのに。ギルドのみんなには申し訳ないくらいです」
「みんな、君のことが心配で、同時に信頼しているからだよ。だからこそ、最高の形で送り出したいのさ」
「心配なのに、信頼している……?」
「矛盾して聞こえるかい? でも、人間の心なんて矛盾だらけなのが当たり前なんだ」
「ふふ、相変わらずですね、先輩。深いことを言っているようで、よく分からない。わかったような言い回しで、煙に巻いてしまうところ」
「はは、煙に巻くか……」
乾いた笑いが漏れた。「そうでもしないと、前を向けるか不安だったんだよ。今までのぼくは……意味、わかるかな?」
「さあ、あんまり」
お互いに小さく笑い合う。不思議と、肩の力が抜けていくのがわかった。
彼女が遠くへ行ってしまう。その事実に打ちのめされるかと思ったが、意外にも心は静かだった。執着という名の重石が、ようやく外れたのかもしれない。
今のぼくは、自分の幸せよりも、ただ彼女の幸せを願って止まなかった。
「ぼくはたぶん、お見送り会には出られない。だから、今ここで言わせてほしい」
彼女が黙ってこちらを見つめる。その瞳に、逃げ出したくなるほどの緊張と、受け止める覚悟が宿る。
「ぼくは、君のことが大好きだった」
澱みなく、その言葉を置いた。
病室を静寂が満たす。それは拒絶の沈黙ではなかった。一つの関係が終わり、新しい何かが始まる瞬間の、清冽な静けさだった。
「叶わないと分かっていても、ありもしない可能性を夢見て、結果的に君を追い詰めてしまった。ぼくはわがままで、臆病で、自分を守るために言い訳ばかりしてきた男だ。それがトム・バードウッドの本質なんだろう。でも、今日だけは逃げたくない。嫌われても、罵倒されてもいい。これだけは、伝えたかった」
肺いっぱいに空気を吸い込む。この鳶色の瞳を、何十年先も、死の床につく瞬間でも思い出せるように、魂に刻みつける。
「結婚、おめでとう。ベル・オーガスト」
その瞬間、心臓を鷲掴みにされたような痛みが走った。けれど、彼女に悟られないよう、ぼくは精いっぱいの微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、トム・バードウッドさん」
彼女の声は震えていた。けれど、そこには一人の自立した女性としての、揺るぎない力強さがあった。
「本当に、ありがとうございます」
「お礼を言うのはぼくの方だ。良い人に、巡り合えたんだね」
「はい。それはもう」
彼女はそこで言葉を区切り、太陽のような、眩いばかりの笑みを浮かべた。
「でも、わたしばかりが祝福されるのは、ちょっと気が引けます。だから先輩、約束してください」
「約束?」
「そうです」
彼女はこちらの目を真っ直ぐに見つめ、告げた。
「わたしより、必ず幸せになってください」
その言葉は残酷なほど美しく、そして救いに満ちていた。
「わかった」
応えなければならない。この先、どれほど凍えるような孤独な道を歩むことになっても。
「約束するよ。ベル・ラックベルさん」
彼女との思い出を消えない灯火にして、ぼくはぼくの人生を証明しなければならないのだ。
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さて、ずいぶんと長くなってしまったけど、これでトム・バードウッドの物語はおしまいだ。明日から、塀の向こう側で、罪を償わなくてはならない毎日がはじまる。
二年近くに渡る裁判の結果、ぼくには有罪判決が下った。ノヴィアさんはじめ、みんなの協力があったにも関わらず、司法はぼくに決定的な一撃を振り下ろした。
でも、裁判官らに対する恨みはまったくない。遺族の方たちの心情を思えば、そんな負の感情を持つなんて間違っている。
そもそも、ぼくはもう、そういうことはやめたんだ。思い通りにいかない現実を前に、言い訳をしたり、憐れみを誘ったり、自己嫌悪に陥ることは。
なにより、ベル・ラックベルとの約束がある。それを胸に、これからの人生を生きなくては、いまも海を隔てた遠くの土地で夫を支えている彼女に、会わせる顔がないじゃないか。
それにしても、この冊子はどうしよう。このまま捨てるのはなんだか惜しいし、かといって、ずっと手元に置いておくことはできない。
リドル君あたりにでもお願いして、古市場に流してもらおうかな。あそこでは、素人の日記帳が売買されることもあるって聞くし、そうしよう。
――じゃあ、将来これを手にしているかもしれない、稀有な読者の方へ。
ここまで読んでくれて、本当にありがとう。




