第22話 ズィータ戦域 ③
彼女は、結婚式の途中で抜け出してきたとしか思えない服装をしていた。
その華奢な上半身には、純白の花柄模様があちこちに刺繍されていた。両肩が大きく露出していて、美しい鎖骨のかたちが露わになっている一方、下半身は神代の御伽噺に出てくるお姫様のように優美であり、同時に、荒野に佇む狩人のような野趣に富んでいた。
だから、ちょっと混乱したし、咄嗟にどう反応すれば良いかわからなかった。実際、釣鐘を彷彿とさせるシルエットのスカートは純白でありながら、ところどころに焦げ痕があった。おまけに、裾の切り口は鋏で力任せに裁断したかのようにでたらめだ。きれいなかたちをした膝小僧に、ほつれた白銀色の糸くずが絡みついている。
こんなに動きにくそうな服装をしているのに、あれだけの身体能力を発揮できるだなんて信じられなかった。なにせ彼女といったら、《囀り》の強襲を受けて宙に放り出され、絶体絶命の危機に陥っていたぼくら四人を、たったひとりで俊敏に受け止め、軽やかに駅舎の屋根に着地してみせたのだから。突然のことに、エディもキレートも呆気に取られた。もちろん、ぼくもだ。
いったい、この美しい女性は何者なのだろう。
思考の縁で考えていると、彼女が確認するように、もういちど尋ねてきた。
「バードウッド先輩……いったいこれ、どういう状況なんですか?」
ぼくのことを知っている。なぜだ。
ぼくは彼女の事を知らないのに。
いや――知らないような気がする。
なにか、言語化しがたい感情が胸の中心に渦巻き始めた。
「君は、もしかして《泰若》のベル・ラックベルか?」
と、不意にキレートが声をかけた。
ベル・ラックベル。
まさか、この人が?
「ギルド《星の金貨》の王認冒険者、だよな? そうだろ?」
《星の金貨》の王認冒険者。初耳だった。いや、そうじゃない。ぼくは知っていたはずなんだ。彼女がどういう肩書の人物であるかを。そのはずなのに、ぼくは彼女のことを何も知らず、 部外者であるはずのキレートがそのことを知っている。きっとぼくがキレートに話したのだろうが、これ以上に歪な心理的状況があるだろうか。そう意識した途端に、地に足がついてないような不安感に襲われた。
たったひとりの女性に関する記憶のあるなしで気持ちが落ち着かなくなる。滑稽に思うかもしれない。でもそれが意味するのは、記憶を奪われる前のぼくにとって、ベル・ラックベルが特別な女性であったということだ。
もしかして、彼女はぼくの恋人なんじゃないのか。
「(いや、そんなわけあるかよ)」
シャードランの身のこなしより鋭く早くツッコミを入れつつ、思わず失笑する。まったく、ぼくもヤキが回ったもんだ。馬鹿な推論を立てるのも大概にしろ。
「おかげで命拾いしたよ」
キレートが感謝の言葉を口にする。ベル・ラックベルは鼻に皴を寄せていて、すぐには返事を寄こさなかった。逼迫した状況を前にしたときに見せる、彼女なりの防衛反応だ。ぼくはそれを知っている。記憶にはなくとも、なぜだか体が覚えている。
「……あなたたちは?」
「俺はキレート・ロックヤード。ギルド《放浪の三つ首》のB級冒険者。守護士だ」
「オレっちはエディ・アンダー。同じく《放浪の三つ首》の、しがねぇA級冒険者で魔撃士。こっちの気絶してんのはノヴィアだ。まったく、キレートの言う通りだ。助けてくれてありがとうよ」
「いえ。冒険者同士なら、危難を前に助け合うのは当然の心構えです」
「聞きしに勝る殊勝な態度だ」
「もしかして、わたしのことはバードウッドさんから?」
「そうさ。こいつとは」と、エディが短杖でぼくの肩を軽く小突きながら、「ズィータの地下魔構の《ロングレッグス》で知り合ったんだ。今日、初めて、たまたまな」
「今日? どういうことです? 《星の金貨》は休業日で……え、そうですよね? バードウッド先輩。まさかお休みの日に地下魔構に潜っていたんですか?」
ぼくは返答に窮した。説明が難しい。
「先輩? 本当になにがあったんですか?」
言葉に詰まるぼくを見て、ベル・ラックベルもさすがに異変を感じ取ったようだ。こちらを覗き込むように顔を寄せてくる。
と、そこでエディが口を開いた。
「ミス……いや、ミセス・ラックベル。コイツの反応がおかしいのも無理はねぇんだ。なぜかって言うと、あんたとの記憶を完全に喪失してるからな」
「記憶喪失……!?」
彼女にとって、それは予想外の一言だったのだろう。事実を受け止めたうえで、ベル・ラックベルはこちらを見下ろした。その美しい顔が、次第に困惑と焦慮に呑まれていくのがわかった。なぜだかぼくは、ひどくいたたまれない気持ちになった。
「トムは、自分自身の事は覚えている。おそらく《星の金貨》のことも。今日経験した出来事のすべても、正しく記憶してる。だが、ミセス・ラックベル。あんたとの記憶だけが喰われちまってる」
エディの話を耳にしながら、ベル・ラックベルは勢い込んでその場にしゃがむと、ぼくの両目に指の先をかけ、まるで医者が患者を見るような調子で、ぼくの体を診察し始めた。
無意識のうちに目に入った。彼女の左手薬指。結婚指輪。白金のリングに金剛石を嵌めただけの無華美な見た目ながら、それは、あらゆる穢れから彼女自身を遠ざけるような御守りのようにも見えて、たまらずぼくは視線を明後日の方向にやった。
「たしかに、記憶の一部に欠損が見られます」
「その魔導効果は」と、キレートが驚いて指を差した。「《触観走査》だろ? 救護士が使うっていう。信じられない。超高精度の人体診断の魔導効果を扱えるなんて」
「たいしたことじゃありません。そんなことより」
診断を手早く終えたベル・ラックベルは、ぼくの肩に軽く手を置くと、立ち上がってふたりに訊いた。白炎に燃え盛る街並みを背景に、宙に浮かぶ古魔の巨躯を、鋭く睨みつけながら。
「さっき『記憶が喰われた』って仰ってましたけど、あのモンストルが関係しているんですか?」
「そうだ。かいつまんで説明するとだな――」
エディがごく簡潔に事態のあらましを説明する。その間、ベル・ラックベルは指を折り曲げて、その美しく整った爪同士を弾き合わせている。自然と視線が吸い寄せられた。さっきは気づかなかったけど、彼女の爪には特殊な装いがされていた。手首に装着した腕輪から細く伸びる五本の針支が、赫偉石のような輝きを放つ爪に接着しているのだ。指甲飾。いや、正確には指甲飾を模した魔導具。以前、なにかの撮影で撮ったような気がするけど、思い出せない。
「――そうですか。あれが《魔王の遺産》というわけですか」
神妙な顔で危機を前に頷くと、彼女は耳飾りを爪で弾いた。
「聞こえてましたか? ダエラさん」
『ああ! ばっちりなにもかもな!』
その耳飾りの先端――呼々石と呼ばれる遠距離音声伝達の魔導効果が付与された魔導具から、粗野なしゃがれ声が聞こえた。
『しっかし、トム! てめぇのやらかしもここまで来ると、突き抜けすぎて尊敬の念しか湧かねぇよ!』
嫌味とも賞賛ともつかない大声が耳飾り越しに聞こえたかと思いきや、駅舎の屋根の下から、炎を撒く猛烈な突風と共に、一体の飛翔生物が姿を見せた。
黒く分厚い胸部に、体表のほとんどを覆う紅く刺々しい鱗。丸太のような太い後ろ脚と比較して、人間の腕ほどにも見える小さな前足。巨大な顎から稲妻のような音を奏でながら、骨棘の並ぶ巨大な尾をピンと張り、大きな瘤のように盛り上がる肩甲骨から伸びる二対の翼を羽ばたかせて、姿勢を制御している。
羽ばたくたびに風圧が生じて、ぼくの全身を強く叩いた。どうにかして踏ん張る。そんなぼくを、金色に輝く飛翔生物の眼が捉えた。
「竜!?」「ちっ! あんなものまで呼び寄せやがったのか!」
「待って! 違う! 敵じゃない!」
身構えるエディたちを、慌てて止める。竜の頭部から伸びる二本の角。専門用語で角基部と呼ばれる部分に、口輪型の手綱が装着されている。
つまり、この竜は野良じゃない。乗り手がいるのだ。その乗り手のことを、ぼくは良く知っていた。冒険者時代に大型の地下魔構へ潜っていた時、その人物は、この生き物をほとんど必ず同伴させていたのだ。
「ふーん。記憶を喰われたってことみてーだが、おれや相棒のことは覚えてやがんのか」
背の竜鞍に乗り、手綱を右手で手繰り寄せている人物が、すっくと立ちあがって姿を見せた。その左手に、異名の元となった緋々色金製の大槍を携えて。
「ダエラさん!」
《魔天槍》のダエラ・アルチザール。その人で間違いなかった。間違いなかったけど、ぼくは少々戸惑った。歴戦の冒険者として知られる彼女には似つかわしくない、浅黄色のロングドレス姿をしていたからだ。
「どうした、石像みたいに固まりやがって。まさか、おれにこの素敵なドレスが似合わねぇなんて、ほざくわけじゃねぇだろうな」
「あ、いや。そういうわけでは。とても似合ってますよ!」
「お世辞の上手さもE級だな」
ああ、もう。めんどくさい人だな。
「ほ、本当です! ただ、なんでそんな恰好をしているのか、わからないだけです!」
「わからない、だと?」
「ええ」
「ベル・ラックベルの記憶だけじゃなく、彼女がどうして、なぜこの場にいるのかも、わからねぇと?」
「はい……」
「……結婚式だよ」
苛立たし気にダエラさんが口にした。
「なんで忘れちうまんだ。くそ。なんでだよ」
咎めるような口調。でも、その声がわずかに震えている。動揺からなのだろうか。この人でも、うろたえるときがあるのか。歴戦の冒険者が見せる、らしくない態度を前に、どう反応していいかわからなかった。
「そこにいる、ベル・ラックベルの結婚式が、今日ここで執り行われていたんだ。さっきまで披露宴の真っ最中だったんだよ」
今度は、ものわかりの悪い生徒に教える教師のような口調になった。
「結婚式……やっぱり」
「ん?」
「いえ、その……彼女の服装から、もしかしてそうなのかなと思っただけです」
落第生のぼやけた回答を耳にして、鬼教師は渋い表情を浮かべた。
「おい、それだけなのか?」
「え?」
「出てくる感想は、それだけなのかって聞いてんだ」
「すみません。記憶を欠落したいまのぼくには、この状況を把握するので精一杯で……」
ダエラさんは何も言わなかった。ただ、無言の視線だけがあった。眼帯に覆われた右眼からも、強い視線を感じた。そのせいで、心の内を見透かそうとする陪審員の前に立たされたかのような気分になった。
「かなり、手ひどくやられたみてぇだな」
喉奥から絞り出すような、どこか悔しさが滲んだような口調。そうしてダエラさんは、親の仇であるかのように、遠くに望む《囀り》を睨んだ。
「人の大切なモンをぶんどってご満悦ってところか。さすがは魔王の犬に相応しいクソモンストルだな」
吐き捨てるように口にしてから、ベル・ラックベルに声をかける。
「ベル! こいつの相手はお前に任せたぜ。ところで、新郎と一緒じゃねぇのか!?」
「住民の避難誘導にあたってくれてます! そっちの状況はどうなってますか? M・Mの姿がさっきから見えないんです!」
「あのバカは政治に忙しいんだとよ。おれたちをほったらかしにして、協会本部庁舎へ乗り込みやがった。大方、この件の責任の所在について議論しているはずさ」と言って、ちらりとぼくの方を見てから、また視線をベル・ラックベルへ戻した。
「ま、あの新郎が対応してくれているなら避難誘導の方は大丈夫だろうが、いちおうこっちもスコルピの野郎が対処中だ。騒ぎを聞きつけた他のギルドも応援に来る」
「それまで持ちこたえるしかないですね……ダエラさんは?」
「わかってんだろ? おれはいま、猛烈にむしゃくしゃしてんだ」
好戦的な笑みを浮かべると、《星の金貨》最強の槍使いは、得物を持ち直して一息に言い放った。
「ってことで、あの時代遅れの遺物を産廃処理してくるぜ!」
すぐさま手綱を握りしめ、ダエラさんが巧みな翻竜語で相棒へ指示を飛ばす。古の時代から超自然的存在として君臨するその稀少種は、谷間を吹き抜ける地渓風じみた鼻息を漏らすと、決意の咆哮を轟かせ、翼筋で支えられた翼を駆動。巨躯を震わせて飛翔すると、あっという間に最高速度に到達し、豆粒のように小さくなった。
「すまない。本当に、すまない」
《囀り》へと特攻していくダエラさんと竜の後ろ姿を見ながら、キレートがうわ言のように呟いた。
「人生の大事な門出の時に、こんなことになってしまって……」
「あなた方のせいではありません」ベル・ラックベルは、きっぱり言い切った。「不測の事態に遭遇するのは、冒険者の常ですから」
「でも、ケリは必ずつけないと」
そうぼくは口にした。自分でも驚くほど、熱の入った言葉だった。
「ベル・ラックベル」
「は、はい」
「ごめん。エディが口にした通り、ぼくはいま、君に関する記憶を失くしている。君が今日、ここで結婚式を挙げることも、ぼくはなにも知らずにいた……たぶんな。そうに違いない」
知っていたら、きっと地下魔構になんて潜らなかった。
アイツを目覚めさせることもきっとなかった。
たぶん。きっと。おそらく。
「ダエラさんの言う通り、ぼくは『やらかした』んだ。そのせいで、ズィータは……」
燃え盛る街から目を背けるわけにはいかなかった。崩落した家の屋根。超高熱に灼かれて原型を崩した石壁。泣き叫ぶ声。助けを求める声。大声で誰かに呼びかける声。混沌をかき分けるさまざまな声の隙間を縫うように救難信号音が轟き、そのたびに思い知らされる。これは自分がやったのだ。自分が《魔王の遺産》を目覚めさせてしまったのだと。
だから、とぼくはベル・ラックベルに向かって続けた。
「取り戻さなきゃ」
殴るように横薙ぎの風が吹く。彼女の栗色の髪。ほつれた毛先が熱波に揺れる。
「ぼくがケリをつけなきゃいけない。ケリをつけて、ぼくは君についての記憶を取り戻したい」
「おいトム、そんなこと――」
取り戻せる保証はどこにもないぞとでも口にしかけたキレートの腕を、エディが短杖で小突いて静止させた。ぼくはエディに内心で感謝しつつ、続けて口にした。
「自分でもよくわからないんだけど、ぼくは、君になにかを言わなきゃいけない。とても大事なことを。ぼくの人生を賭けて、なにか大切なことを伝えなきゃいけない。そんな気がするんだ」
確信的推論ってやつだ。
「だから、協力してほしい。この地獄を終わらせるために」
「バードウッド先輩」
ベル・ラックベルは――自分の結婚式当日に降りかかった厄災を前に、こんな表情ができるものだろうかと、尊敬を通り越して畏怖すら覚えるほどに冷静な声で言った。
「その言葉、あとで必ず聞かせてください」
真円を描くように、ベル・ラックベルが両腕を振る。なめらかな武の中に覗く気品。上下から挟むように拳を構え、指先をぴたりと止める。指甲飾された十の美爪が鋭く立ち、ぼくの鳩尾の辺りに狙いを定めた。
「いまから、皆さんの膂力と魔導具を底上げします」
「底上げ?」
救護士にそんな能力があっただろうかと考える間もなく、彼女が詠唱を唱えた。瞬間、彼女の足元から紺碧色の魔導陣が円形に展開。清浄な空間がぼくらを包み、光の粒子が妖精のように視界で舞った。
「わたしの役職は強奏士。さあ、準備は整いました。一緒に戦いましょう、バードウッド先輩」




