第21話 ズィータ戦域 ②
神代の頃。絶大なる魔力と統率力で全魔族の頂点に君臨した、懼れる貌のデルスウザーラが建造した大陸制圧戦略拠点兵器・地下魔構。
その深部に潜むモンストルの中には、いかなる魔属にも分類できない『未詳侵攻機能体』が存在するらしい――。
根拠不明の噂は年月を経て伝説となり、やがて《魔王の遺産》と呼ばれ、冒険者たちの口の端に上るようになった……って、あとでリザ先輩に教えてもらった。
どうしてそんな噂が生まれたのか?
いまのぼくには、なんとなくだけど、わかる。
魔王討伐後もなお、不気味に人類社会に有り続ける地下魔構。それは時に福音を、時に厄災をもたらし、ギルドですらその全容を把握しきれず、未解明の事象を多く残す。
そうした地下魔構の抱える闇の奥に、崩滅したはずの大魔王の影を、冒険者をはじめとした多くの人々は感じ取ったんじゃないだろうか。
地下魔構はデルスウザーラの肉体の一部から創り出されている。地下魔構の底では、今でも大魔王の獄炎じみた息吹が吹き荒れている。なにか間違いがあれば、大魔王は蘇ってくるのではないのか。神話の時代に語られていた、恐るべき魔族の時代が再来してしまうのではないか――そんな恐怖心が、いつしか《魔王の遺産》という名の未知の概念を生み出した。
そして――今、その《魔王の遺産》が、事実としてぼくの目の前に現れている。最悪のかたちで。
未知の概念を相手にするのは、いつだって冒険者の務めだ。『危険を冒す』と書いて冒険者と呼ぶのなら、あの瞬間、あの恐るべき《囀り》を前にしたとき、正しくぼくらは冒険者だったに違いない。
勝てるかどうか――宙を切り裂くように飛ぶ空雲の絨毯に乗り、強風に全身を叩きつけられていたあの時のぼくに、そんなことを考える余裕なんてなかった。頭の中にあったのは、エディやキレートと同じだった。
冒険者らしくありたい。
その一心で、ぼくは気絶したままのノヴィアに気を払いながらも、詠唱して短杖を振った。巨大すぎる《囀り》の構造。その中心部。つまり、宙に釣られた黄金鐘に向かって。
次の瞬間、《囀り》が反応。黄金鐘が唸るように揺れ、空気を裂く高音が押し寄せる。雲が弾け、衝撃波が空雲の絨毯ごとぼくらを押し戻す。
視界がぐにゃりと曲がり、耳の奥がきしんだ。
――ただの耳鳴りじゃない。
色が滲み、空間がねじれる。足元の感覚すら狂い、浮いているのか落ちているのか分からない。脳の奥を直接掻き回されるような、吐き気すら伴う不快感。
キレートの背中が二重三重に揺れ、エディが五人に見える。
「あ、ああ……?」
そのキレートも、ぼく同様に低く呻き、視線を彷徨わせていた。彼もまた、ぼくと同じような状況に襲われているに違いなかった。
「っ……んだってんだよ……!」
エディが短杖を握り直し、歯を食いしばった。彼は、空に浮かぶ《囀り》が幾重にも分かれ、渦を巻いて迫ってくる幻を見ているようだった。
「幻惑かよ! しゃらくせぇな!」
エディの渾身の詠唱。低致死性の稲妻が、ぼくとキレートの全身を軽く叩く。力任せだが、効果はあった。気分が多少は回復した。
「人間サマを舐めんじゃねぇぞ! 砕けやがれ!」
エディが短杖を高く掲げ、雷光の詠唱を叩き込む。ファイブスターたちを葬り去った《雷煌鞭》より、さらに強力な《迅・雷煌鞭》だ。杖の先からほとばしった太く鋭い蒼白の稲妻が、幾重にも空を縫うように走った。耳を裂く破裂音が続き、ぼくの全身の毛が一斉に逆立つ。
特大の雷撃は《囀り》の黒い装甲に直撃――しなかった。眩い魔光は弾かれ、稲妻が砕けた破片のように四方へ飛び散った。轟音と衝撃波が、こちらに逆流してきた。空飛ぶ絨毯が持ち上げられたように揺れ、胃の底が跳ねる。
「効いてない!?」
反射的に声が出た。全身が針で突かれるような感覚だけが残っている。
「おい! こっちだ! かかってこい、この化け物ッ!」
「いやかかってこられちゃ困るんだけどやっちまえキレート! 住民の避難完了まで足止めだ!」
エディの慌てたような早口を背景音に、キレートがぼくらを防御するように大盾を前に構えた。詠唱――盾面が赤黒く脈動し、魔導効果の【挑発】が放たれる。
だけれども、《囀り》は微動だにしなかった。山のような左肩から生えた砲塔のひとつが、わずかにこちらを一瞥したかと思えば、魔紋を毒々しく輝かせることなく、興味を失くしたように旋回していく。
「……無反応だと?」
キレートの声に焦りが混じる。
なんでだ……?
ぼくは、さっきの雷撃の瞬間を思い返す。光が弾かれた距離。火花の散り方。挑発波を浴びても反応しない違和感。
これは、偶然じゃない。
「エディさん、もう一発。威力は抑えて」
短く頼むと、エディは一瞬だけ目を細め、黙って詠唱を紡いだ。
青白い小規模な魔力弾が放たれ、《囀り》に迫る――そして、また同じ距離で弾かれた。
三度目。別角度から、鐘や砲塔の周囲を凝視する。
空気が、ほんのわずかに屈折して見える。
熱気とも違う見えない膜の揺らぎを、この目で確かめた。
「……魔導障壁だ」
呟いた瞬間、喉の奥にざらつく熱が走る。
これでは、外からは通らない。どんな魔導効果も無力化されてしまう。
と同時に、妙な違和感があった。
冒険局時代に、魔導障壁を展開するモンストルに遭遇したことはない。だけれども、どうしてかぼくは知っていた。魔導障壁を見抜くコツを知っていた。
きっと、奪われた記憶が告げているのだと直感した。
その直感は即座に確信へ変わり、胸の奥で何かが暴れ出した。
ベル・ラックベル――その名を口にした途端、喉の奥が焼けるように熱くなる。
顔も声も思い出せない。だが確かにそこにあった何かを、《囀り》が奪った――その確信だけは消えない。
返せ。返せ。返せ――!
「……行こう」
気づけば口からその言葉が漏れていた。声は自分のものじゃないみたいに低く、重かった。胸の奥で、返せ、という言葉が幾度も反響していた。
「はぁ!? どこへだよ!」
キレートが振り返る。何かを察したエディが短杖を横に差し入れ、ぼくの腕を押さえる。
「決まってる。魔導障壁の内側だよ。このまま突っ込むんだ」
「この期に及んで、なにバカなこと言ってんだ!?」
風を切る耳鳴りの中で、キレートが声を張り上げた。
「内側に飛び込むなんて狂気の沙汰だ! 解除の方法を探せばいいだろうが!」
「探してる時間があるか!?」
ぼくは食い気味に返した。
「見ろよ! あいつの砲塔、間隔詰めて回転速度も上げてきてる! 避けてる間にこっちが削られる!」
「物は言いようだ! 避けられてるうちは、勝機はある! 応援が来るまでの時間稼ぎにだってなる!」
キレートが盾を前に突き出す。強風に押し戻されながらも、その声は揺らがない。
「それに、どんな魔導障壁にも『穴』はあるはずだ! 属性か、周波か……外から剥がす方法を見つけるべきだ!」
「外からじゃ切り崩せないんだ!」
ぼくは右腕の義手を突き出す。銀色の指先が冷たい光を放つ。
「君の言う通り『穴』があるなら、内側から《夜のはじまり》で本体を直接叩ける! それしかない! これでも反対するのか? もしかして怖いのか? キレート。だったら、ぼくひとりだけでもやってやるさ!」
「ヤケになるな! どうして魔導障壁の内側なら、その義手が役立つって言いきれるんだ!? もし中でも無効化されたら――」
「だったら、ここで何もせずに終わるのか!? それでいいのかよ!」
声が荒れる。胸の奥で、返せ、という言葉が何度も反響している。
言い切った直後、空雲の絨毯が急降下した。腹が浮く感覚と同時に、黄金鐘が再び震え、耳を裂く音波が空を満たす。
「……っと!」
エディが、針穴に糸を通すような繊細さで短杖を操り、絨毯の魔力の流れを捻じ曲げる。幻惑の魔導効果を間一髪のところで避けた直後、透明な舵を切るように空気の層が変形し、砲塔からの魔力弾がすぐ脇をかすめて消えた。
「おめぇら、声張るな。耳が死ぬ」
エディが額に汗をにじませながらも、ちらとこちらに視線を寄こす。
「エディさんの見立ては?」
視線に気づいたキレートが、腕利きの魔撃士に乞うように尋ねた。
「そうさなぁ……ま、いくら《魔王の遺産》でも、魔導障壁に『穴』があるって意見には同意だな」
エディは即答した。歴戦の経験から導き出した、確信的な推測だった。
「《魔王の遺産》なんて大層な呼び名をしてってから、柄にもなくビビっちまったがよ。よくよく考えりゃ、完全無欠なモンストルだったら、とっくの昔に目覚めて活動を開始してらぁ。でだ。こういう場合、外から崩す策を見つけるのが常道だが……あの鐘が発動してる間は、普通の魔法じゃ多分全部弾かれる。おめぇの意見もトムの意見も、どっちも一理ある」
「だったら――」
ぼくは、改めて覚悟――それは意地に近い覚悟だったと思うけど――を口にしようとしたけれど、そこでキレートが怒鳴るように遮った。
「だったらなおさら、突っ込むのは悪手だ! 魔導障壁の内側に入った瞬間、あの砲塔の餌食だぞ!」
「行かなきゃ、奪われたものは返ってこない!」
キレートの目が揺らいだ一瞬、空雲の絨毯が再び大きく傾く。エディが短杖を回し、魔力の糸を操るように軌道を修正したのだ。
「トム、おめぇ本気なのか?」
こちらの覚悟を確かめるようにエディが言った。
「こんな状況でユニークなことが言えるほど、面白い男じゃないんでね」
そうは言ったものの、胸の奥で冷たいものが広がったのは事実だ。
本当に突っ込めるのか? 魔導障壁に弾かれ、そのまま砲塔の餌食になるかもしれない。ぼくは天才じゃない。【切取】と【編集】の魔導効果を組み合わせて、どこまでやれるかなんて未知数だ。才能はからっきしで、ただの凡人で、しかも冒険局を追われた落ちこぼれだ。
なら……根拠を探せ。今すぐに。
「エディさん、さっきの攻撃、もう一度やってくれませんか」
砲塔の旋回、鐘の揺れ、魔力弾が弾かれる距離をもう一度――いや、何度でも見ろ。
その時、見えた。黄金鐘が打ち付けられた直後、《囀り》の揺らぎがわずかに鈍る。ほんの一秒にも満たない隙間。位置は、左肩付近――【挑発】をキレートが放った時、魔紋は輝かなかったが、左肩の砲塔はわずかに動きを見せていた。きっと、そこだけ障壁の膜が若干薄いのだ。
「エディさん、奴の背後に回って左肩付近へ近づけますか?」
「そこが、薄いんだな?」
「ぼくの見立てでは」
言うや否や、エディは「わかった」と短く応答すると、短杖を繰り、空雲の絨毯を滑らすように奔らせた。
「エディさん! あなたまで――」
「わりぃなキレート! オレっちも、こっちのほうが性に合ってるらしい!」
エディの、どこかやけっぱちな声が、風切り音の幕の向こうでくぐもって揺れた。
空雲の絨毯が大きく傾き、ぼくらは《囀り》の背後へ回り込むよう、斜め下へ滑空していく。絨毯を構成する水蒸気。そこに込められた魔導効果が、雲の肌理を細かく震わせ、絨毯の縁から霧の粉がこぼれ落ちた。
ぼくは奥歯を噛み合わせ、気絶したままのノヴィアの体重を背で受け止め直した。彼女のかすかな体温が、空気の冷たさに削られて遠のいていく気がする。
狙うのは左肩。鐘が打たれたあと、障壁の揺らぎがわずかに鈍る、その一点。凡人のぼくに許された唯一の根拠。踏み出すための痩せた足場。
「――今だ」
鐘が打たれる瞬間、エディが高速詠唱を放った。短杖を捻り、蒼白い魔力の糸を障壁の一点へ突き刺す。不可視の膜がへこみ、細波が環状に駆ける。目に見えない壁が、確かにそこにあると告げる、たわみ。
ぼくは息を詰め、《夜のはじまり》の銀色の指をわずかに絞った。指先の関節がきしんで、小さな金属音が掌の皮膚に痛い。
そうして、何度目かの攻撃の後。
「穴が……開いた!」
ぼくは義手を握りしめた。エディが意気揚々と声を上げ、空雲の絨毯の飛翔速度を上昇させた。
あと数呼吸で届く――そう思った刹那、耳の奥で「パリン」と乾いた破砕音が弾けた。視界全体に蜘蛛の巣状の細い線が走り、世界が水面のように沈んで、別の面へ裏返った。
左肩の砲塔が消えた。
思わず、声を失った。
ぼくらの前に立ちはだかっていたのは、左肩の砲塔じゃない。黒々とした巨躯の、胴体部――真正面。
「まさか……ずっと幻を見ていたっていうのか……?」
胸が、冷水を浴びせられたように、縮んだ。
ぼくの全身が、「間違えていた」と叫び出す。何十回も観察して、ようやく導き出したはずの位置関係。根拠は薄くても、それが唯一の頼み綱だったのに――
その頼み綱が、指先から滑り落ちていく感覚に、とてつもない恐ろしさを覚えた。
《囀り》の全身から放たれる威圧感が、ぼくらを嘲笑うかのように見下ろしている。
「ダメだ……」
キレートがかすれた声で呟く。
エディは短杖を握る手を強張らせたまま、言葉を失っている。
空雲の絨毯は、すでに最高速度に乗っていた。
エディが、顔面蒼白で短杖を繰り、絨毯の魔力の流れを逆捻りにする。でも、もう遅かった。闇色の巨躯は、もうほとんど壁だった。こちらの瞳に吸い込まれてくるほど迫っていた。足場が消える。いや、もともと雲の織物に過ぎない足場なんて、最初から心許なかったはずだ。それでも「ある」と思い込めていた根拠が、いましがたの耳の奥の破砕音とともに粉々に砕けた。
衝突――絨毯を構成していた水蒸気粒子が魔導効果を喪失し、一斉に形をほどき、霧の粉となって四方へ逃げ散った。
支えを失った体が空に放り出され、胃袋が喉元まで引き上げられる。脳が頭蓋骨に三度ぶつかる。視界の端でキレートの大盾がバチンと風を叩き、エディの魔導衣が紙片のように翻った。
《囀り》の両肩で、白光が静かに成熟する。
音がない。いや、耳が追いつけないだけだ。
蒼白い、しかし中心に色のない何かが両肩の砲塔内部で凝縮し、黒い輪郭の継ぎ目から漏れる。
そうして、光の成熟は臨界点を迎え、都市の色はひっくり返った。
光の瀑布。そうとしか例えようのないものが、二条、砲塔からまっすぐに吐き出される。空気が悲鳴を上げ、音よりはやく景色が剝ぎ取られていく。影は存在を許されず、すべてが白く、蒼く、透明に灼けていく。
ズィータの街が、線で切られた紙の模型みたいに整然と崩れていく様が、目に焼き付いた。屋根がなくなり、梁が縫い針のように千切れ、窓の硝子が一斉に音もなく粉雪になって空を埋める。美しくも地獄のような光景の中で、激しい後悔と慙愧の念に襲われていると、また光の瀑布が放たれた。
光線の直撃を受けたのは、駅舎に近いズィータの高層建造体のひとつだ。その最上部――建物の象徴である王冠のような構造体が、ただ白い閃光に上書きされ、そこに無が残った。遅れて爆ぜる空気が、黒い煙をぐしゃりと押し広げては、千の鈴をいっぺんに落としたみたいな微かなチリチリ音が、街の至るところから湧いた。
落下の途中、ぼくは見た。見るはずのない距離で、それでもたしかに目撃した。見た「気がした」なんて曖昧な言い方では、自分に嘘をつくことになる。
見た。確かに見た。崩れ落ちる建物の外壁が剥ぎ取られていく中で、陽の光を最後に受けたかのように、ひときわ白く舞う布切れを。レースの縁が風に痙攣し、ふわりと広がっては、鋭い欠片と混じって落ちていく。
それがウェディングドレスの残骸だと、ぼくの脳は瞬時に理解した。
理由なんてわからない。それでもぼくは、もつれる感情のままに、凄まじい勢いで無性に叫びたくなった。重力に引きずられながら、全身の感覚が冷水と熱波を同時に浴びせられたみたいに熱く、そして冷たくなった。喉が勝手に開いて、声を上げようとする。でも、風が喉の形を奪っていく。落下の圧が、声帯を押し潰す。叫べない。あの名を呼びたいのに、音にならない。
ベル・ラックベル――
これが凡人の終わり方だ。地面という巨大な現実が引き寄せ磁石みたいに迫ってくる。ぼくは冒険局を追い出された落伍者で、奇跡的な才覚なんて持っていない。空中で体勢を立て直す技術も、風を掴む祝福も、なにも持ち合わせちゃいない。
視界の端でキレートが歯をむき、盾を下に向けて落下速度を殺そうとするのが見える。エディは短杖を逆手に持ち替え、この限りなく切迫した状況下でも、なにかの魔導効果を放つ気らしい。かすかに見えたノヴィアの顔は、眠っている子どものそれと同じで、あまりに無力で、酷だ。
――諦めろ、という声がした。ぼくの内側の、弱くて、静かで、やけに理屈っぽい声。
そんな場所まで自分を追い込んだのは、お前自身だ、と。
「《空域の螺旋跳躍》――!」
強風吹き荒れる中、やけに響く声がしたかと思いきや、ふわり、と体が浮いた。落下の直線が、唐突に曲線へと変わる。重力の手が一瞬だけ緩み、背中に、確かに人の腕だと判別できる硬さが回り込む。
温かい。温度の意味を思い出すのに、半秒かかった。
「――っ!」
息を吸う。肺が火傷をしたみたいに熱い。視界の縁がまだ白く、《囀り》の破壊光線の残像が消えない。けれど信じられないことに、誰かが、足場のない空間を足裏で確かに蹴っているのが見えた。
空気そのものに階段があるみたいに、焦げた風を踏みしめ、角度を変え、速度を選び、ぼくら三人――いや、四人だ。キレートとエディを左右に抱え、気絶したノヴィアを背へ回し、なおかつぼくを肩に担ぎ上げている。そんな滅茶苦茶な運搬をやってのける肩と腕は、驚くほど細く引き締まっていて、耳元に感じる呼吸は冷静そのものだった。
「……ま、じかよ」
耳の奥で、キレートの呆れた呟きがほどけるのが分かった。彼の声が揺れるたび、肋骨が湿った音で鳴る。エディは短杖をまだ手放していない。壊れものみたいに固く、それでも手から離さずにいる。その意地が、妙に心強かった。
空気がひとつ、二つ、三つと蹴り台に変わり、ぼくらは駅舎の屋根へと降りた。鉄骨が、着地の瞬間に「ギン」と薄く鳴いた。ぼくの膝が勝手に折れ、頬がざらついた屋根材に触れた。乾いた砂の味が舌に広がる。肺が空気を取り戻し、やっと咳が音になる。
ぼくを背負っていた人物が、そっと肩からぼくを降ろした。ひどく丁寧で、急ぎがない。続く動作で、左右の腕からキレートとエディが降ろされ、最後に背のノヴィアが、眠りを醒ますのを邪魔しないような手つきで屋根に横たえられた。
風の音が途切れた。ぼくはゆっくりと顔を上げた。
卵のように整った顔。大きな瞳。口元に引かれた口紅は控えめに輝き、薄い化粧が生来の品の良さを思わせた。
栗色のセミロングヘアは、後ろでひとつにまとめられていた。これから祝福の門出を迎えるに相応しい高貴さと共に。
「大丈夫ですか、バードウッド先輩」
わけもなく、心臓が跳ね上がった。
目の前の女性が、心配げに眉根を寄せて、こちらを見下ろしている。
まるで、星空に輝く金貨のように、美しい女性だった。




