第20話 ズィータ戦域 ①
「いいかげんにしてください」
撮影を終えて事務所へ戻ろうとしたぼくを、冷え冷えとした彼女の声が呼び止めた。
「バードウッド先輩、その写画機越しにわたしのからだを見るとき、なに考えているんですか」
答えられずにいると、彼女は、これまで見たこともないくらい、おそろしさすら感じるほどの真顔で言い切った。
「色目を使ってこないでください。わたしには結婚を約束したお相手がいるって、前にそう言いましたよね。それなのに、仕事と関係ないところでも、やたらとわたしに声をかけてくるじゃないですか。こっちが気を許しているのを良いことに、馴れ馴れしくしてきて。正直なところ迷惑しているんですよ」
喉が急速に乾いていく。道具を持っている手が、緊張と焦りで痺れてきた。
「仕事だから仕方なく付き合っているだけで、本当は私生活なことを根掘り葉掘り聞かれるの、もんのすごいストレスなんですよ。表情に出しているのに、なんで気づかないんですか? 人を撮るのが仕事の癖して、そういうところは疎いんですね。ダッサ」
舌打ち。
綺麗な眉毛を歪ませて、小馬鹿にしたように口角を歪める。
「まさか、万に一つでもってな具合で、狙ってるんですか? 先に言っておきますけど、ありえませんから。百パー無理。冒険局から逃げて、逃げた先でもずーっと下っ端に甘んじている甲斐性なしの男なんて、どこに行ったって相手にされませんよ。わたしがちょっと優しく接してあげているだけで、つけあがらないでもらえませんか? いったい何様のつもりなん……あー」
彼女が天を仰ぎ見た。茶色のセミロングヘアが、針のように見えた。
「敬語使うのもウザいわ。おい、バードウッド。おまえマジでわたしをどうしたいんだよ。まさかと思うけど、おっぱい見たいわけじゃねぇんだろ?」
そんなわけ――ないだろと口に出そうとしたが、気持ちとは裏腹に、下腹部に熱いものを感じた。
彼女の視線がそこに注がれる。
美しい顔が、嘲りを帯びて、こちらを値踏みするように鼻息を鳴らした。
「なんだよ。やっぱり下衆なこと考えてたんじゃねぇか」
急に距離が詰まった。
彼女の、生温かな吐息が顔にかかったと思った次の瞬間には、ぼくは固いコンクリートの上に押し倒されていた。
頭を打った。視界がちかちかする。
彼女が口を大きく開いて、嗤っている。
やめろ――やめるんだ――
「本当はそんなこと、思ってないくせに」
どこにそんな力があるのかと思うくらい、彼女は、その細い腕には似つかわしくないほどの、途方もない力でぼくの体を抑え込んだ。
そうして次に、頭突きを食らわせるような勢いで、唇を押し付けてきた。
二枚の朱肉の花びら。その隙間から蛇のように這い出た舌が口腔をまさぐり、白く濁った唾液が糸を引いて垂れ、コンクリートに染みを作った。
彼女の舌は肉厚で、それこそ灼けるように熱かった。
口の中をまさぐられるたびに、あちこちが火傷でもしたかのように痛く、痺れた。
非現実的な光景。ありえない肉体の蹂躙。胸と胸の間に両腕を差し込んで、懸命にもがくけど、それでも彼女は離れない。
全身が熱い。ぼくの体温じゃない。彼女の体温が、それこそ燃えるように熱くなっている。
永遠とも思えるくらい、口づけは続いた。そのうちに、激しい違和感がやってきた。
舌が膨れ上がり、ざらざらとした棘のようなものが、ぼくの舌に突き刺さった。
予想外の痛みに悲鳴を上げようとしても、口を塞がれているから叫び声ひとつ上げられない。
身体の至るところから、おかしな汗が滲み出てきて、ぼくはたまらず目を剥いた。
背筋が凍り付いた。
彼女は嗤っていた。
それこそ、弱った冒険者を前にしたモンストルのように。
いや、ようにではない。
モンストルだ。
セミロングヘアの髪を揺らし、八つの目を持ち、赤茶けてひび割れた肌を晒して、尖った耳の奥から無数の蛆虫を垂れ流している――
「おい! 起きろ! 起きるんだよ!」
と、そこで頬に鋭い衝撃が奔って、視界が暗転。
もういちど目を覚ました時には、彼女のおぞましい姿はどこにもなく、代わりに、青々とした風景が視界に飛び込んできた。雲との距離が、やけに近かった。
空だ。
脱出できたのか?
でも、どうやって。
「大丈夫かよ、トム!」
ああ、この声は知ってる。
キレート・ロックヤード。
彼の声がする。
「ダメだ。目は開けているが、まだボケっとしてやがる」
「そんじゃあ、ちょっくら……」
どん! と体に衝撃が奔った。エディが……エディ・アンダーが短杖の先端をぼくの首筋あたりに当てて、気つけの魔導効果を与えた。そのおかげで、ぼくの意識は完全に晴れた。
信じられない光景が目の前に広がっていた。
豆粒サイズの家屋に建物。そして、平べったい棒のように見える駅舎。
ぼくは宙に浮いていた。足元に視線をやって、さらに驚愕した。真っ白な絨毯に近い、空飛ぶなにかの上に乗っていた。ぼくもエディもキレートも。
「魔撃士の十八番は、単純効果の攻撃魔法だけじゃねぇのさ」
「な、なんで空を……」
「こちとら、だてに何十年も冒険者やってねぇよ。お前さんが気をやっている間に、呪文刻印針を取り換えるなんて朝飯前だ」
「どういうことです?」
「【凝集】の魔導効果。空気中の水蒸気を固めて飛ばし、操作するってぇ代物さ」
台詞は得意げだったけど、エディの顔は引き攣っていた。
「水蒸気……」
言われて初めて、ぼくはお尻のあたりに湿り気を感じた。水蒸気という性質は変わらず、魔導効果で特殊な結合をしているおかげで、四人乗りでも雲の絨毯はびくともしなかった。
「【凝集】は水蒸気だったら、そこに異物が混じっていようが効果が働く。だからノヴィアの【毒】と相性が抜群なんだが……」
でも、そのノヴィアと言えば、一向に目を覚まさず、眠るように気絶していた。
キレートは、きっと後ろ髪を引かれる思いでいたはずだ。それでも彼は、キッと鋭く前を見据えて、完全に覚醒を果たした《魔王の遺産》を睨みつけた。
巨像だって? なにを言っていたんだ、ぼくは。
とんでもない思い違いをしていたことを、いやでも思い知らされた。
宙に浮かぶ《魔王の遺産》――《囀り》には、頭部がなかった。完全な無貌だった。
そのせいか、まるで城塞そのものが命を得たように、ぼくの目には映った。
塔のような肩部には無数の砲門と魔紋が刻まれていて、機械仕掛けの羽根車が、呼吸でもするかのように、光り輝いて規則正しく回転していた。
全身を覆う黒い装甲は太陽の光を浴びて鈍く輝いて、揺らめく光の反射が、ぼくらの網膜を途方もなく圧迫してきた。
伸びる二対の巨きな腕は、人類へ罰を下す魔の鉄槌の如く、鎖を断ち、大気を砕き割るほどの力に満ち溢れていた。
そして、胸部――石灰石で鍛造されたとばかり思っていた巨大な釣鐘。その表面にひとりでにひびが入り、まるで割れた卵の殻のように剥がれ落ち、地上へ散華していった。
現れたのは、荘厳な神殿の門に飾られるに相応しいほどの、優美な紋章の刻まれた黄金鐘だ。その黄金の鐘が、ゆっくり、おおきく、弧を描いて前後に揺れるたびに、大気が震え、空がわなないた。
ぼくも、エディも、キレートも息を呑むばかりで、これが夢であることを死ぬほど願った。
でも、異変を感じ取った地上の――ズィータに集いし人々の困惑と焦慮に満ちた怒号が、ちいさくぼくの耳朶を打つたびに、これが現実であることを強烈に思い知らせてきた。
《魔王の遺産》……古の恐怖を呼び起こす、魔そのもの。
幸せの絶頂を糧に目覚め、すべてを地の底へ叩き落とす、魔王が仕掛けた最期の大仕掛け。
……幸せの絶頂だって?
……なんだ。なにか、おかしい。
「あんまり、こういうことは言いたくないけどよ」
キレートが苦々しく口にした。
「きっと……お前の過去が、アレを目覚めさせる引き金になったんだと思うぜ、トム」
「ぼくの過去?」
ぼくの過去が、いったい何だというのだ。
「幸せの絶頂とやらに至る誰かを叩き落とす。それが《魔王の遺産》の行動目的であるとするなら、なにか引き金になる要素が必要なはずだ」と、エディが見解を述べた。「あの手記と、それと釣鐘に刻まれていた神代文字から察するに、その引き金になるのは《幸せの対置の感情》なんだろう。誰かに向ける、後悔、羨望、嫉妬、そして哀しみ……そういったのを食っちゃ寝して、あの《魔王の遺産》は起動の時を待っていたに違いねぇ」
「つまり……ぼくの過去が、奴を目覚めさせる最後の一押しになったって言うんですか」
「勘違いはするな。別に責めちゃいねぇよ」
そう口にするキレートの言葉に、嘘はないように思えた。起こったことは仕方がないという、冒険者らしい前向きな姿勢で、彼は続けた。
「お前の過去を視たが……なんだ。その……ずいぶんと重い感情を抱えていたんだな、お前」
「過去を視たって、どういう……重い感情なんて、なにも……」
「なぁ、トム・バードウッド」
エディがキレートの言葉を引き継ぎながら、じっと《囀り》の動向を伺いながら言った。
「お前さんが、あの《囀り》に触れた瞬間、なにが起こったか。おれっちもキレートも、しっかり目撃してんだ。やっぱお前、ベル・ラックベルに相当熱を上げていたんだな。お前さんが彼女に抱いていた、とても言葉じゃ表現できない感情の渦が、おれっちたちの頭の中にも流れ込んできたんだ」
「……あんまり、良い気分じゃなかったぜ。いや……」と、キレートが言い淀んで、鼻の先に皴を寄せた。「俺がお前の立場でも、良い気分じゃないな。誰にだって、隠しておきたい感情のひとつやふたつ、あって当然だ。だから、この話はこれっきりだ」
「そうだな」と、エディも頷いて同調した。「まずは、ぐうたら寝ていたあのデカブツをどうするかだ。地上の避難誘導は……どうやらもう始まってるらしいな」
眼下を見下ろして、エディが呟いた。たしかに、街に常駐している保安警備員たちが大声を上げて、休日を楽しんでいた多くの住民たちを、安全な場所まで非難させようと、懸命に動き出しているのが目に入った。
「トム。ベル・ラックベルに連絡は取れないのか?」
キレートがこちらを振り向いて、そう尋ねた。
「え……?」
「何時から披露宴が始まっているのか知らないが、もし彼女がまだここに……ズィータにいるんなら……」
「なるほど。援助を頼めるかもしれねぇな。せっかくの晴れの舞台の日に悪いが、状況が状況だ。俺っちたちだけじゃどうしようもできねぇし」
「……あの、ちょっと待ってください」
「どうした?」
「……ベル・ラックベルって、誰ですか?」
ぼくの一言がかなり意味不明なものに聞こえたのか、エディとキレートが目を剥いて驚き、お互いに顔を見合わせた。
ベル・ラックベル。
その名を口にすると、なにか例えのようのない衝動が湧き上がってくるのが、自分でも不思議だった。でも、ベル・ラックベルって、いったい誰だろう。
いや……知っているような、知らないような。
女の人の名前……いや、でも。本当に誰だ?
髪の色は栗色で、ロングヘアだったか? 思い出せない。
どういう顔をした人だろう。雰囲気は?
ぼくとどういう関係性の人だった?
なんだろう。この感覚は。
毎日見ていたはずの鮮明な夢の内容を、いざ、どんな夢であったか他人に説明しようとした途端、急に思い出せなくなるような。そんな感覚に近かった。
「あの日誌」と、はっとした調子でキレートが言った。「書かれてたな。たしか……妻と娘の顔を、思い出せなくなってきたって記述が」
「あのデカブツに触れた副作用か?」
「というより、記憶そのものを吸い取られてしまっていると言った方が正しいかもですよ、エディさん」
「想いを寄せていた人の記憶を根こそぎ奪い取って餌にするか。なかなか、魔王の野郎もえげつねぇことをするもんだな」
ぼくそっちのけで話す二人。でも、二人の会話の中心にあるのが、ぼくの記憶である以上、この胸の中を走るざわつきは抑えようがなかった。
わかっているのは、ふたつだ。
ぼくは、ぼくの人生に大きく関係する、なにか決定的なことを忘却してしまったらしいこと。
その忘却した記憶を、目の前に君臨する古代の巨大兵器が奪っているということ。
「いま、どういう気分なのかって、もし聞かれたら」
気づけば、ぼくは口火を切っていた。なぜか、いまの感情を言葉にしなければならないと思った。
「おかしな話かもしれないけど……すごく、爽やかな気分って言ったら良いのか……背負いこんでいた重くて分厚い石を、どこかにひょいって捨てたような、そんな身軽さにも近い感覚があるよ」
キレートとエディは正面を見据えたままだ。でも、二人がぼくの話を真剣に聞いているのは伝わってきたから、ぼくも語るのを止めようとはしなかった。
「でも」
ぼくは、銀色の右腕に視線を落としながら言葉を続けた。
「その感覚は、むかし、冒険者時代に右腕を失ったときの感覚に似ているんだ」
右腕を左手で摩る。冷たい感触が、左手の五指に伝わる。ぼくのものであって、ぼくのものではない、けれども今のぼくの立ち位置をきちんと証明する右腕の冷たさ。
「取り戻さなきゃ」
ぐっと、右腕に力を込めて、ぼくは、ぼくらしくない威勢の良さで口にした。
「取り戻したい。ぼくはぼくの記憶を、それがどれだけ苦しい記憶であっても、取り戻さなきゃならないんだ」
「よく言ったぜ、トム・バードウッド」
エディが短杖を持ち直して、言った。
「それでこそ、冒険者だ……おい! ノヴィアを見てやってくれ! しっかり捕まってな! キレート! 防御を頼む!」
「トばすんですね!?」
「たりめぇよ! この距離からじゃ、デカブツの横っ面を引っ叩けねぇからな!」
敵は、古の大魔王が産み落とした遺産だ。
A級とB級、それに元E級の冒険者が束になったところでたかが知れている。
それでも、やらなきゃいけない時が冒険者にはあるのだと言わんばかりに、エディは唇から血が滲むほど歯を食いしばると、空飛ぶ雲の絨毯を加速させた。




