第18話 ある冒険者たちの声
岩面に覆われた道はどこまでも長くうねっていた。照命石の照り返しを受けて青紫色に輝く洞窟内部は、とても幻想的な雰囲気だけれど、レヴナント強襲の一件が尾を引いているせいだろう。ぼくも《放浪の三つ首》の冒険者たちも、周囲への警戒を怠らず先を急いだ。キレートを先頭に、ぼく、ノヴィア、しんがりをエディが務めるという探索形態で。
探索を進めている途中で何匹かのモンストルに遭遇したけど、レヴナントやスワンプマンと比較すれば、それほど脅威じゃなかった。もちろん、キレートたちの力を借りなければ、討伐することすらままならない。依然として、ぼくひとりの力なんてたかが知れている。それでも、未知のモンストルを前に、みっともなく右往左往するということは、ここに至ってかなり軽減されていた……自分で言うのもおかしな話だけど、でもぼくはそう感じていたんだ。この時は、まだ。
「あ、おい。なんだよ」
キレートが足を止め、ひとりごとのように苛立った声を出した。「どうした?」と、足をやや引きずりながら歩くノヴィアが、ぼくの肩越しにキレートが目にしたものを見て、ちいさく「あ……」と声を出した。
「行き止まりだ。どーなってやがるんだ」
「んー……別の道を見落としていたか?」
「照明石を使ってもこの暗さなら、可能性は考えられますね」
「仕方ない。もと来た道を戻るしかないか。もう少し探索を続ければ……」
「いや、ちょっと待ってください」
キレートが踵を返そうとしたのを止め、ぼくは耳をそば立てた。天蓋から氷柱のように垂れ下がる岩の先端。そこを伝って滴り落ちる雫の音に混じって、哀しい歌声にも似た音が断続的に響いているのに気付いた。
「風の音だ」
「風?」
「……たしかに。それっぽい音……」
「でも行き止まりだぞ」
「壁だ。きっと壁の隙間から風が漏れてるんだ」
ぼくらは手分けして、大きくごつごつした岩壁という岩壁に照命石を翳し、隙間がないか観察することに徹した。注意深く耳を澄ましていると、風の音は、やはり断続的に続いていた。壁の一部が脆くなっていて、そこから空気が漏れている。もしかしたら、地上に繋がっているかもしれない。そんな淡い期待を抱いた。
「ここだ」
振り返ると、ノヴィアが岩壁の一か所に手を当てていた。そこだけ周囲と違って、青紫色の鉱石がほとんど生えていない。
「でもどうしてここだけなんだ? 他は剃刀一枚だって通りやしないくらいみっちり敷き詰められているのに、この壁の部分だけガタガタだ。まるで、後から適当な岩をはめ込んだような……」
「考えているよりさきに、行動に出た方が早いんじゃねぇのか?」
エディが詠唱に意識を集中しようと目を瞑り、しかしなにかを思い出したように、すぐに片目を開けてぴたりと動きを止めた。
「オレっちのじゃ、火力が高すぎるな……おい、トム」
「はい」
「爆火筒、まだあるか」
「最後の一本が」
「よし。やってくれ」
背負鞄から、これまで二度に渡って窮地を助けてくれた、その赤く太く長い、魔粉火薬の詰まった筒を取り出す。それと見定めた岩壁のすぐ近くに突き立てるように配置すると、着火を済ませ、ぼくらは離れたところで様子を伺った。
爆雷芯が火花に喰われて、轟音、そして爆発。振動の波が岩肌を伝い、粉塵という粉塵がどっと溢れて視界を覆った。
「――《振るえ、撒け、黄昏の種》」
エディの峻厳な詠唱。単純攻撃効果を抑えた魔導の力が風を生み出し、視界を覆う灰と茶の分厚い幕を取り払った。
その瞬間、きっとぼくだけじゃない。キレートたちも、暗闇の底で光を見つけたような、声にならない声を上げたはずだ。
爆火筒は、ただ脆い岩壁を崩しただけじゃなかった。それは、ぼくらが辿るべき道筋をたしかに探り当てたのだ――屈んで歩けば、ようやく人が通れるという深さの横穴、というかたちで。
その横穴の向こうから、さっきよりも強い風の流れを顔に感じた。わずかに、香木と古い脂を混ぜ合わせような、独特の臭いを感じた。
緩やかになびく前髪の向こうへ、自然と期待に胸が膨らんだ。
「きっと出口に繋がってるはずだ! はやく行こうぜ」
キレートがはやるように口にしながら、声に警戒の色を滲ませて続けた。
「気配を感じる……さっきの爆発で、モンストル達に勘づかれたかもしれない」
「善は急げだな」
いつまでもその場に留まるわけにはいかなかった。まずはぼくが。続いてキレートが。そして、彼の手を借りる形でノヴィアが。最後にエディという順番で、腹ばいになって先へ進んだ。途中でキレートの背負う大盾が何度か岩肌をこすってがりがり音を立てたり、まだ痛みの残る右足にノヴィアが耐えるような声を漏らしたりはしたが、それでも先へ先へとぼくらは進んだ。
と、ある地点まで来たところで、ぼくは咄嗟に顔を顰めた。
「なんだ、この臭い……」
どこからか風に乗って漂ってくる、香木と古い脂が混じったような臭い。洞窟の先を進んでいけばいくほど、どんどん強烈になってくる。次第に、鼻に纏わりつくような甘ったるい風合いへと変化し、その臭いの重さにたまらず咳き込んだ。それはキレートもノヴィアも同様だった。ただ、エディだけ反応が違った。
「嗅ぎ覚えがある」
最後尾から聞こえる老練の冒険者の声には、懐かしさと、どこか諦めにも近い感情が乗せられていた。それだけで、ぼくも含めたその場にいる全員、まさかという気持ちに駆られた。自然と動きが止まった。この先でぼくらを待ち受けているであろう光景を想像したくはなかった。希望の道筋を発見したつもりが、もしかしたら――不吉な予感が脳裏を過った。
「おかしいな」
ふと、エディが呟くように言った。
「さっきまでモンストルたちがざわついてたのが、急に大人しくなったぜ……」
「この先にあるなにかを感じ取って、退却したんだ。そうとしか思えない」
ノヴィアが冷静な声で推測を述べた。
「いこう」と、後押しするように、すぐ後ろでキレートが言った。ぼくは返事を寄こさず、代わりに手足を動かすのを再開するというかたちで意志を示した。ここまで来た以上、肚を括るしかなかった。それにどのみち、先に進むという選択肢しか、ぼくらには残されていないのだ。
やがて、広い空間に出た。
ぼくら四人は順番に穴から出ると、立ち上がり、照明石を頼りに暗がりを観察した。キレートたちと初めて出会ったときの空間より、そこは広く、高く、そして香木と香辛料を混ぜ合わせたような、独特の臭いに満ち溢れていた。
寒い。それに、ひどく空気が乾燥していた。
何度も咳き込み、胸の辺りに押し寄せる不快感を堪えながら歩みを進めていると、なにかに足元をすくわれそうになった。
慌てて照明石を足元に向けた。
自分がなにに躓いたのか。それが淡い光の下に晒された瞬間、ぼくは情けない悲鳴を上げて後ずさっていた。
壁に寄りかかった、人間の死体――
さきほどから鼻腔を刺激していた独特の臭いは、この物言わぬ死者から放たれていた。
「こっちにもあるぞ」
「ここにもだ……」
キレートとノヴィアが、ほとんど同時に声を潜めて言った。さすが経験を積んできた冒険者だけあって、変わり果てた人間の死体を見ても、彼らは悲鳴のひとつすら上げなかった。それでも、照り返しを受けて輝くふたりの顔には、懼れと、困惑と、深刻な状況に直面した者に特有の緊張感が溢れていた。
恐怖心を押し殺し、呼吸を整えていると、不安を和らげるようにエディがぼくの右肩に軽く触れて言った。
「こいつら、服装からして冒険者かもしれねぇな」
そう呟くと、彼は遺体のひとつに近寄ってしゃがみこみ、まるで珍しい動物の死骸を見つけたかのように、照明石片手に観察をはじめた。そこに頼もしさを感じるのと同時、予想外の状況を前にした時の、自分と彼の感覚の違いを、まざまざと見せつけられた気分になった。
「遺体の損壊がそこまで激しくない。モンストルに襲われたんじゃなく、自然死したって感じに近いな」
エディの推測が的外れとは思えなかった。たしかに、身に付けている冒険者装束とおぼしき服は劣化が激しく、襤褸に近い状態で煤けてはいたが、首がおかしな方向に曲がっていたり、五体のどこかが欠損していたりといった、激しい外傷は見受けられなかった。それこそ、眠るように死んだという表現がしっくりくる。そんな雰囲気を感じたせいだろうか。恐怖心が次第に薄らいでいくのに、そう時間はかからなかった。
身元不明の遺体は、全部で六つ。どれもこれも一部が白骨化しており、皮膚は枯れた樹皮を彷彿とさせる茶褐色を帯びて、人相が判別できないほどひび割れていた。もう少し観察してみると、遺体の周辺は水がかかったように、そこだけ色が他と比べて濃かった。
「尿……ですかね?」
「いや、液状化した内臓の痕だ。全身の穴という穴から漏れ出していやがる」
「どうして腐敗臭がしないんでしょうか」
「内臓が腐る前に、脱水症状を起こして亡くなったからだ。体内の水分がある一定量以下になると、細菌の動きが弱まって、腐敗の進行が遅くなるんだ。オレっちの見立てでは、三ヶ月……もしかしたら、亡くなってから数年は経過してるかもしれないな」
エディが言った。あまりにも確信に満ちた声だったから、思わず尋ねた。
「まさか、前にもこれと同じものをどこかで見たことが?」
「ああ」と、エディは眉間に深い皴を寄せると、重々しく頷いて続けた。「寒くて乾燥した場所で脱水症状や飢えに苦しんだ挙句、最期を迎えた冒険者の遺体ってのは……こんな風に木乃伊化する。全部が全部そうじゃねぇが」
エディが目を瞑って片手祈りをした。ぼくとキレート、それにノヴィアが続いた。地上の光を見ること叶わず、モンストル蠢く地下魔構で最期を迎えた冒険者たちに対しての、それは最低限の礼儀だった。
「地下魔構で遭難するというケースは、そう珍しい話でもありません」
祈りを終えたノヴィアが、エディの言に補足を加えるように言った。たぶん、ぼくの経験値の少なさを考慮しての発言だったのだろう。
「探索中に思いがけない異常事態に襲われるのは、冒険者にとって日常茶飯事。でも、事前の準備不足が祟って、冷静さを欠いてしまえば、混迷障害を発症して正常な判断能力を失くしてしまう。挙句、ひどい最期を迎えるなんて話は、珍しくもないんです」
「この人たちは、探索中に《隠し階層》に迷い込んで、正常な理性を失くしてしまった……」
「可能性として、ありうる話ですね。《隠し階層》に落ちてしまったことと、救命呼笛が使えない事態が重なった結果、こんなところで最期を迎える羽目になってしまった……」
「地下魔構で冒険者たちが相手にするのは、モンストルだけじゃないってことですか」
しばらくのあいだ、沈黙が下りた。モンストルの気配はすでにない。とはいえ、また新たな困難に出くわしてしまった。ここに遺体があるということは、つまりこの先は出口に通じてはいない可能性が極めて高いってことだ。
脱出の希望は潰えてしまったのだろうか。
でも、風の動きは途切れていない。どこかの隙間から漏れているのか。それとも、風なんて最初から吹いていなくて、すべては地下魔構の異様な空間が引き起こす幻聴なのか。
「おい、ちょっとこっち来てくれ」
キレートが不意に呼びかけてきた。
「この遺体、なにか手に持ってるぜ」
岩壁へもたれかかるように死んでいる遺体を指さして、彼は言った。おそるおそる白骨化した遺体の右手を見ると、薄茶色の、ひどく汚れた冊子が、小指と薬指の第二関節部分にひっかかるようにしてあった。
「……調べてみるか」
キレートは「ごめんな」と小声で遺体に声をかけると、壊れ物でも扱うかのような手つきで冊子を右手で取り、左手で慎重に頁を一枚ずつ捲りはじめた。読みやすいように照明石を冊子へ近づけつつ、ぼくも中身を見た。でも、書いてある内容はさっぱりわからなかった。経年劣化が酷いせいで、薄墨で書かれた文字は、その大部分がひどく掠れていて、しかも国の公用語ですらない、見たこともない文字で書かれていた。
「だめだ。さっぱりわからん。ノヴィア、読めるか?」
お手上げだとばかりに、キレートが冊子を差し出しながら、ぼくに語り掛けた。
「彼女は養成学校時代に文献調査を専攻してたんだ。世界中のいろいろな言語に精通しているから、もしかしたらこれの中身もわかるかもしれない」
「お世辞が過ぎるぞキレート。あまり期待するな」
けれど、彼に褒められたことが嬉しかったのだろう。言葉とは裏腹にまんざらでもなさそうな顔で、ノヴィアは冊子を受け取った。胸元に浮かぶ照明石を頼りに冊子の表紙をまじまじと見ると、彼女は一枚一枚の頁を舐めるように目で追いはじめた。
「……これ、手記だ」
「手記?」
「ああ……」
しばらくしたところで、ノヴィアが唸るように言った。
「内容的にそうとしか考えられない。探索道中の記録が詳細に書かれている……しかもヤーパン語だ」
「まさか、読めるんですか?」
「養成学校時代に、少し習ったことがあって……ここに書かれてある言語は、おそらくヤーパニー……シュワルティアより東にある諸島連合の北部地方に伝わる訛言語でしょうね。しかも……」
ノヴィアは再び日記に視線を落とすと、信じられないといった顔つきで言った。
「日付を確認する限り、五十年前に書かれた日記だ」
「五十年前!?」
「そんなに昔の……」
「五十年前……オレッちがまだ生まれたてのガキの頃だな。所属していたギルドの名称は書いてあるか?」
エディが遺体に目を向けたまま、ノヴィアに問いかけた。
「《真銀の狩人》って名前のギルドに所属していたみたいです」
「聞いたことないな。エディさんは?」
「さっぱり知らねぇな。たぶん零細ギルドだったんだろう。いまはもう存在しねぇギルドなのかもな……で、ノヴィア。その手記、具体的に何が書かれているんだ」
「ちょっと待ってください」
彼女は視線を手記に落としたまま、丁寧に中身を吟味しはじめた。
「……文章は読める。何が書いてあるかも理解はできる。でも、いまいちよくわからない」
「どういう意味だ?」
キレートの問いかけに、ノヴィアは難しい顔になって答えた。
「彼らもあたしたちと同じく、探索中に《隠し階層》に迷い込んだらしい。でも、そこでモンストルと戦闘になって……命からがらここに逃げ込んだところで、モンストルたちから身を隠すため、わざと壁の一部を崩して、入り口を塞いだらしいんだ」
「壁の一部が脆くなっていたのは、そのせいか」
「脱出口を見つけられなくなって、食料も尽きて、幻覚や幻聴に苛まれていたみたいだな。それで、ひとり、またひとりと、命を落としていったらしい。仲間たちが苦しんで亡くなっていく様子が、克明に記録されている……ただ、気になる記述がある」
「なんだ?」
「幸せの絶頂……そういう表現が使われている。これが何を意味しているのか……」
ノヴィアは再び視線を手記に落とすと、指先を頁に這わせて、たどたどしく読み上げ始めた。
「聖暦五十八年。紅ノ月。二日……食料が尽きて十日間が経過……水も残り少ない……ゴードンにさっきから……呼びかけているが返事がない。ひどい頭痛がする。立ち上がる……気力もない。オスカーは……無理だろう……家にいる妻と娘に……せめて一言伝えたい……愛している……結婚や昇進……幸せの絶頂にある自分たちが、ここに誘われたのは偶然……それとも必然なのか……ミディ、カ、カロライン?――ちょっと発音がよくわからないが、人名が続いているみたいだな――仲間はみな、それぞれに幸せの絶頂にあった。それが、こんなかたちで最期を迎えることになるなんて。あんなものを目にしてしまったせいか……」
「あんなもの?」
「待てキレート、まだ続いている……キャスパルが解読した――ここは完全に掠れていて読めないな――の力。噂に聞いていた……《魔王の遺産》……」
「魔王の遺産?」
キレートが、ぎょっとした声を上げた。
「おい、ヤバそうじゃねぇか」
エディの声には、緊張と好奇心が満ちていた。
二人の反応に構わず、ノヴィアは淡々と、死の断崖に立った者の魂の叫びを読み上げていった。
「……不吉の象徴……でも自分たちには、どうすることもできない……衰弱が激しい……あんなものを見たせい……か……自分たちの……幸福な感情……が、吸い取られていくような感覚……」
そのとき、洞窟の奥から、また哀しげな歌声にも似た風の音を聞いた。
ぼくは――この時、まったくの無意識のうちに――手記の解読に夢中になっているみんなの傍から少しずつ離れて、風の音のする方向へ、ふらふらと歩みを進めた。
「聖暦五十八年。紅ノ月。四日……生き残っているのは、このガーバインだけ……どうしたんだ……妻と娘の顔が思い出せない……愛している……はずなのに。これも《魔王の遺産》を……発見してしまったせいなのか……」
洞窟の奥に向かって進んでいくにつれ、風は次第に強くなっていった。
「たしかに、意図を掴みかねる表現だ」
「幸せの絶頂に《魔王の遺産》……ねぇ」
「……もし、万が一にでも……そんなことはありもしない話だろうが……なにかの偶然でここを訪れることになる、どこかの……冒険者たちが、私の手記を読んでいたら……それ相応の覚悟が必要になることを、どうか理解してほしい……」
好奇心がそうさせるのか。それとも、別の何かがぼくの足を動かすのか。
さらに広い空間に出た。岩壁には四角型の穴がいくつも穿たれて、そこには、水と空気と、それから、永い時の流れに浸食された燭台の残骸が置かれていた。
「脱出口は……おそらくこの先……だが、《魔王の遺産》が、それを塞いでいる……」
ノヴィアが、ごくりと唾を呑んだ音が、やけに大きく聞こえた。
「すまなかった。我々には……どうすることもできなかった……諦めることだ……それを目にした者、すべてを不幸の淵に叩き落とす」
そうして、こちらを見下ろすかのように君臨する、絶大な規模のなにか。
闇の向こうで、それをたしかに目にした瞬間。
また、あの哀しげな歌にも似た風の音が、耳朶を撫でるように通り過ぎていった。
「《魔王の遺産》の声に、耳を傾けてはならない」
全身が身震いした。寒さのせいだけではなかった。
「その《囀り》に耳を傾けては……ならない」




