第14話 偶然を生きる
《聖なるかな》は消姿草と組み合わせると、その効果はてきめんだった。エディ・アンダーから教えられた詠唱を口にしてから、この首飾りのおかげでモンストルは一匹も寄ってくることはなかった。
でも、状況が劇的に好転しているとは言い難かった。
手首に巻き付けた腕時計へ視線をやって、ぼくは小さく溜息をついた。長針と短針があべこべに回転を続けていた。いつからこうだったのか。少なくとも《隠し階層》に落ちた直後は、針は正しく昼の十二時付近を指していた。きっと、この洞窟内を形成している青紫色の鉱石が特殊な磁場を形成していて、それでいつの間にか正常に機能しなくなっていたのだろう。
ベル・ラックベルの結婚式は、どのあたりまで進んだのか。
ノヴィアたち《放浪の三つ首》の冒険者とひと悶着を起こした後でも、ぼくはそのことが頭から離れなかった。別に彼女の結婚式と、ぼくのいまの状況とが直接的に結びつくわけでもないというのに。彼女の結婚式がつつがなく進行していって、みんながみんなハッピーな気持ちになっているのは、とても喜ばしいことだと頭ではわかっているのに。
心のどこかで、決して取り除かれることのないしこりがあった。それは《ロングレッグス》……いや、《レボリューショナリー・ロード》の《隠し階層》に落ちてから、どんどん強く根を張っている。そのことを自覚すると、心の弱さを養分にして、なにか得体の知れない怪物が自らの内で成長していくような、そんな恐ろしい妄想に囚われていくような感覚に襲われた。
ぼくは、ふと目線を上げた。
ノヴィアたちが向かったのとは逆の洞穴へ、何気なく視線を投げかけた。
その時だった。
洞穴の向こう。闇の間隙に、見知った人の後ろ姿を見た。
手足を隙間なく覆った冒険者装束。小柄な体躯。
茶色のセミロングヘアが光を放っていた。
「あ……!?」
ぼくは反射的に、座り込んでいた岩から腰を上げた。
ベル・ラックベルだ。
「なんで……」
頭を振る。いや、まさか。ありえない。
驚きと同時に警戒心を高めようとした。ついさっきノヴィアから聞いた話を思い出せば、これが《レボリューショナリー・ロード》に仕掛けられている罠であることは明々白々だ。結婚式の主役である当の本人が、こんな地の底を彷徨っているはずがないのだ。
それを重々承知であるはずなのに、ぼくの心の《隠し階層》の奥底で昏く蠢く感情は、理性から肉体の支配権を奪ったかのように激しく躍動し、ぼくの全身を震わせた。
気が付けば、ぼくはファイブスターたちの無惨な遺骸を踏み蹴散らして、洞穴の奥へと走り出していた。救助隊の到着を待たなければならない。そう頭ではわかっているのに、自然と体が動いてしまっていた。
違う。違う。違うぞ、トム・バードウッド。
なにをやっているんだ。トム・バードウッド。
わずかに残る理性の灯がそう叫ぶも、ぼくは息を切らして、ベル・ラックベルの後を追った。
彼女はときおりこちらを振り返り、ぼくの良く知る一年以上前の、あの撮影の時に見せた笑顔を地の底で振りまきながら、どんどん先へと進んでいった。
洞窟の中は吐息が白くなるほど冷えていて、壁に埋め込まれている燭台はひとつもなかった。灯りの代わりを務めるのは、ぼくの胸元で浮かぶ照命石と、淡い輝きを放つ彼女の、幻影の髪からなびく光の軌跡だけだ。
そうだ。これは幻影だ。ベル・ラックベルがこんなところにいるはずがない。
しかし、理性の訴えは感情の暴走を止めるのに、いささかの効力も持ち合わせてはいなかった。
「まて! まってくれ!」
縋るような台詞。自分でも驚くほど、情けない声色だった。
ベル・ラックベルは、そんなぼくの醜態を軽くいなすかのように、もう一年以上も見ていない、あの時と同じ笑みを振りまいて、ごつごつした岩面を泳ぐかのように、ぼくの先を走っていく。
全身から吹き出る臭い汗を探索者衣装の繊維が吸い取っていく。跳舞靴を履いているのに、足の底に痛みがはしった。でこぼこした岩面のせいで、膝の間接が外れそうな感覚になる。肉体は悲鳴を上げていた。でも、ぼくの後ろ暗い感情は、まるで解放の出口を求めるように暴れ回って、さんざんにぼくの体を酷使していた。
「なんで!」
手を必死に伸ばして、彼女の輝く茶髪を掴もうとしているうちに、ふと、そんな一言が出た。
「なんで、きみはぼくの目の前に現れたんだ!」
自分でもなにを言っているのか、この時のぼくにはわからなかった。
「なんで三年前に、《星の金貨》にやってきたんだ!」
きみと出会わなければ。きみと関りを持たなければ。
こんな、わけのわからない感情に支配されて、苦しい想いをせずに済んだはずなのに。
ただ毎日を適当にやり過ごして、それなりに満足した生活をずっと送れるはずだったのに。
「きみがいなければ……!」
心の《隠し階層》は、ついに口に出すべきではない言葉の牙を鋭く剥き出しにした。ぼくが憧れ、ぼくが嫉妬し、ぼくが叶わぬ願いを抱いた、その清らかな女の子に向けて。
「きみがいなければ、穏やかな心で静かに暮らせたのに……!」
肩が千切れそうな勢いで腕を突き出した時には、埃と血に汚れた黒い手革袋の中に、彼女の淡く輝く茶色のセミロングヘアが握られていた。
「きみなんかと出会わなければ……!」
髪を手元に引き寄せつつも、バランスを崩しながら、ぼくは飛びつくようにベル・ラックベルへ襲い掛かった。彼女は驚きに声を上げることも、嫌悪感に悲鳴を上げることもせず、したたかにその小さなからだを無言で岩面に叩きつけた。
そうして、仰向けの姿勢のまま、その綺麗な鳶色の目で、ぼくの心の《隠し階層》を見透かすように見つめてきた。
「はぁ、はぁ、はぁ――」
上がる息。図らずとも、彼女を組み敷く格好になってしまった。
その事実が、ぼくの中に残る欠片ほどの理性を鋭く刺した。
「ら、ラックベル……」
違う。違う。
こんなのは望んじゃいない。
こんなことは、誰だって望んじゃない。
冒険局のみんなも。リーランド上長やリザ先輩も。
そしてきっと、ノヴィア、キレート、エディたちだって。
「きみはぼくの知らない、どこか遠い場所で幸せになるべきだったんだ」
声が震えていたのを覚えている。ぼくの意志が、そうさせているのか。それとも――いや、言い訳はやめよう。
「きみと深い仲になりたいなんて、そんなこと、ぼくは思っちゃいけない」
彼氏。
結婚を約束した相手。
結婚式。
幸せの絶頂。
「思っちゃいけないって、わかっているんだ」
鼻を啜った。瞳に熱い水膜が張った。それは重力に逆らうことなく、微笑みを浮かべる彼女の、聡明さを感じさせるおでこに当たって、儚く砕け散った。
「わかっているのに……きみの笑顔を見ていると、どうしてって思うんだよ」
どうして、ぼくは彼女のように、冒険者として頑張れなかったのか。
どうして、彼女はぼくの部下にならなかったのか。
どうして、彼女の傍に立っているのが、自分ではないのか。
どうして、彼女に将来を約束した相手がいる状態で出逢ってしまったのか。
そんなこと、いくら考えても無駄だとわかっている。過去は過去。現在は現在。そして未来は未来だ。偶然をいくら呪ったところで、なにかが還ってくるわけじゃない。
そんな子供でもわかること、わかっているはずなのに。
ベル・ラックベルの綺麗な顔。輝く顔。自信に満ち溢れて、曇りのない幸福な未来がやってくることを確信している顔。
その美しい顔を見ているうちに、これが幻影であることなんて、とっくにこの時のぼくは忘れていた。
「ベル……」
誰にも見られていないのを良いことに、ぼくは初めて彼女を下の名前で呼んで、その小さな卵型の顔を、壊れ物でも扱うかのように、両手で優しく包み込んだ。
乾燥してひび割れた唇を、薄く桃色に濡れ光る唇に近づける。
その瞬間、美しいベル・ラックベルの顔が、泥のようにあっけなく崩れた。
指先に、痺れにも近い、冷え冷えとした感覚が突き刺さった。
びっくりして顔を離そうとしたけど、泥はもの凄い勢いでぼくの首に巻きついて、あろうことか口元を覆ってきた。全身を使ってめちゃくちゃに暴れ回って抵抗したけど、泥はぴたりと肌に密着して離れなかった。首が泥の触手で強く締められていくうちに、視界が白黒しはじめた。気道が圧迫されて、脳に供給される酸素量が急激に低下したためだった。
死ぬのか――反射的にそう思った。ここで死ぬのか。地下魔構の罠に引っ掛かって、無様な醜態を闇の中で晒して、挙句の果てに死ぬのか?
いっさいの色彩がない世界。ベル・ラックベルのいない世界。
そんなところに、ひとりで旅立たなければいけないのか。
意識が朦朧として、手足の感覚が次第に失われていくのがわかった。
でも、なにもかも遠ざかっていく記憶の景色の向こう側に、ぼくはやっぱり、それを見てしまったのだ。
想い出の宝箱に大事にしまっておいた、ベル・ラックベルの笑顔を。
「(いやだ)」
いやだ――
いやだ。いやだ。
こんなところで、くたばりたくない。
途切れかけの最後の力を振り絞り、泥の触手を爪が割れるような勢いで深く掴んで、懸命に引きはがそうと必死にもがいた。
首元と触手の間に、どうにか指の第一関節だけを押し込むように差し込めた。向こうも抵抗してきたけど、死に際のあがきが、このときばかりはわずかに勝った。
ぼくはエディから教えてもらったそれを詠唱した。
瞬間、泥にまみれた《聖なるかな》が、強烈な白光を放射して、周囲を激しく照らしつけた。聖なる浄化の光は、罠に化けた泥のモンストルを灼き尽くした――気道が急激に空気の通り道を確保した衝撃で、ぼくは何度もその場に膝をついてせき込んだ。鼻水と涙と涎が溢れた。まるで二日酔いの朝のような不快感。それでも、全身から出せるだけの汁を出していると、次第に気持ちも体調も落ち着いてきた。ぼくはどっかりと岩壁に背を預け、熱病に浮かされたような感覚を冷ますことにした。
あとで調べてわかったけど、こいつは人の記憶を読み取って罠を作り出す、ミラーシェードという名の上級モンストル。ベル・ラックベルに対して邪な執着心を持つぼくの心を利用したというわけだ。普段は岩壁に擬態していて、対象者の肉体ではなく心を標的にして潜行する能力を持つ。だから、物理的に姿を消していても、ミラーシェードの罠じみた攻撃を避けることはほぼ不可能というわけだ。きっと、ノヴィアもこれに引っ掛かって、《隠し階層》に迷い込んだのだろう。彼女から話を聞いていた、このぼくにしても。
身から出た錆。自業自得だ。でも、間一髪のところで、ぼくはどうにか命を拾うことができた。その理由については、考えるまでもなかった。エディとベル・ラックベルのおかげだ。
エディが《聖なるかな》を渡してくれなければ。ぼくにベル・ラックベルとの想い出がなければ。とっくに命を落としていた。それもこれも、偶然の出逢いがもたらしたものだ。
偶然の出逢い――ぼくはこの時、それについて考えていた。
ベル・ラックベルに結婚を約束した相手がすでにいたのも、彼女がぼくの部下にならなかったのも、彼女の結婚式が、いま、ズィータで執り行われているのも。そのズィータにある《レボリューショナリー・ロード》へぼくが転送されたことも、《隠し階層》に落ちたことも、そこで《放浪の三つ首》 のみんなに出会ったのも、はたして必然と言えるだろうか。ぼくや彼女や彼らの運命は、なにか見えざる大きな力で、すでに決められていたのか。
そうは思えなかった。すべては偶然を前にした際の、選択の連続の結果なのだ。
写画機を回して撮画を重ねていくと、ときおり、ハッとするような一枚が撮れることがある。それは、ぼくの狙った一枚じゃない。モデルのポーズ、雰囲気、撮影所の窓から差し込む光の加減、反射板の位置、空気の密度、モデルの吐息、ぼくの指先、望鏡の撮画速度……あらゆる要素が偶然という名の交差点で重なり合った際に、その奇跡の一枚は生まれる。
人生というのも、それと同じなんじゃないか。
あらゆる選択がぼくらの前には無数にある。その無数の選択を前にしたとき、どれを選ぶか。ぼくらはいつだってそれを迫られる。たとえるなら、闘札遊戯で配られた札のどれを切り、どれを人生という名の場に出すかだ。そのときの自分の選択。それは、本当に自分だけの意志で決めているのか。その日の天気や、社会情勢、ためらい、気まずさ、好奇心、印象、珈琲の温度、予感……自らの意志力では支配することすらままならない不確定要素が、わずかでも入り込むなら、ぼくらは必然ではなく、偶然の道を歩んでいることになる。
偶然を、どう生きるか。
その答えに繋がるかもしれない好機が、ぼくの目の前にはぶら下がっていた。ノヴィア、キレート、エディ……彼らとの偶然の出逢い。それがもたらした好機を、ぼくは掴もうとすらしなかった。臆病さと執着。そこから来る「おそれ」を言い訳にして。
ぼくは立ち上がった。そして来た道を駆け出した。
ベル・ラックベルに意識が向いていないと言えば、嘘になる。
でも、この時はそれ以上に、あの三人の冒険者たちのことが頭にあった。
ベル・ラックベルのアドバイスがなければ戦えない臆病者……キレートの言うことは正しい。ぼくはたしかに、彼女に執着し続けている臆病者だ。
だけれど。
臆病者だとしても、偶然の出逢いがもたらすかもしれない、いまだ見えない道のりを歩もうとする度胸くらいはあっていいはずだ。
ごつごつしてうねる岩面を走りながら、限界まで集中力を高めて周囲に警戒を向け続けた。モンストルは襲ってこなかった。《聖なるかな》のおかげだ。ミラーシェードも、ぼくの精神状態を察して襲ってはこなかった。
わずかな理性が記憶していた道を一目散に駆けているうちに、あのファイブスターたちの遺骸が散らばる開けた空間へ舞い戻ってきた。止まることなく、もう片方の洞穴へと向かった。
まだ、追いつけるだろうか。ノヴィアたちに再会したら、まずはなんと声をかけるべきか。もしも拒絶されたら――自信の無さからくる恐れを、しかし、ぼくは走りながら頭をぶんぶん振って心の中でがむしゃらに否定した。そんなことは、出会ったときに考えればいいことだ!
そうして走っているうちに、それは聞こえてきた。
キレートのものと思われる怒声と、凄まじい爆発音と。
身の毛もよだつようなモンストルの哄笑が。




