第9話 ぼくの最大の武器
彼氏がいると知ってから、一か月後の華ノ月。
それは、とある日の午後。撮影作業所での一幕だった。
『トムさん、ブラウ・ブラウニーには十分注意してください』
ベル・ラックベルをモデルにした魔導商品紹介第八弾の撮影がひと段落して、ぼくらは作業所に置かれた休憩用の横長椅子に腰かけていた。差し入れに買ってきてあげた焼き菓子をふたりで美味しい美味しいと口に運んでいると、ベル・ラックベルが、ふとそんなことを口にしてきた。
『お菓子の食べ過ぎには気をつけろってこと?』
出ているところは控えめに出ていて、引っ込むところはしっかり引っ込んでいる彼女でも、そんなことを気にするんだなと意外に思っていると、ベル・ラックベルがきょとんとした顔になった。
『な、なにを言っておられるので?』
『話題を振ってきたのはそっちじゃん』
『あ、いや……え? ち、違います! このお菓子のことではなくて! いや、このお菓子を食べていたら思い出して、つい口に出してしまったって感じではありますけど……!』
ベル・ラックベルが、その綺麗な眉毛をみっともなく下げて突っ込みを入れてきた。予想通りの反応が返ってきて、ぼくはお菓子を口にしながら声をあげて笑った。このあたりになってくると、九つも歳が離れているとは思えないくらい、ぼくと彼女はギルド仲間として親密な関係性になっていた。
『わかってるよ』
食べ終わった焼き菓子の袋を、彼女の目の前でひらひらさせて言った。
『このお菓子の名前の由来になった、焦げ茶色のモンストルのことだろ?』
『あー……私を試しましたね?』
『試したというか、ぼくなりのボケというか。で、ブラウ・ブラウニーがなんだって?』
『トムさん、遭遇したことあります?』
『レベル3とか4の地下魔構に出現するモンストルだろ? ないよ。基本的にレベル1しか潜らないから。今後も遭遇することはないだろうなぁ』
『そうやって油断していると、なにかのはずみでカチ会っちゃうときがあるんですよ』
『油断ねぇ』
『たとえば《隠し階層》にうっかり落ちちゃった先でとか』
『ないない。だってレベル1の《隠し階層》で遭遇するモンストルなんて、せいぜいレベル2クラスじゃないか。養成学校時代にそう習ったし、ギルドの迷宮教本にもそう書いてある』
『教科書通りにいかないのが探索なんですよ、トムさん』
十九歳の誕生日を迎えたばかりの女の子が口にするような言葉じゃないだろ。人生何週目なんだよ……と言いかけて、はたと思い直した。国から表彰されたB級冒険者。数週間後にはA級への特別昇格試験を控えている。そんなすごい冒険者の声には、年齢という垣根を越えて傾聴する価値があって当然だった。
『そんなに強いの? ブラウ・ブラウニーってモンストルは』
『私も何度か討伐したことがありますが、強いというか、厄介ですね』
誕生日に彼氏に買ってもらったという鼈甲の髪飾りを、ちょっと触りながら、想い出すようにしてベル・ラックベルが言った。
『どう厄介なの?』
『五歳児並みの知能があるのもそうなんですが、いちばんの厄介なところは、見た目が小鬼類下級モンストルのブラウニーとそっくりってところです。私なんかが言うのもおこがましいですが、経験の浅い冒険者はブラウニーと勘違いして、まず餌食になります。でも、よく観察すると違いがあることに気付くはずです。手に構えている槌がそれです。一見すると木槌に見えるんですが、実体は戦木槌(ウォーハンマ―)。魔力を秘めた武器です』
『ということは【ディレクション】が効かないのか。そんなヤツに出くわした日には、とんずらするしかないな』
『戦略的撤退をしようにも、狭い層で遭遇すると難しいですよ。見かけはずんぐりむっくりなのに、跳躍力があるんで』
『じゃあ、もう降参――』
そう言いかけたとき、ベル・ラックベルが半目になってこちらを覗き込むように見てきた。呆れや不信。そういったニュアンスの込められた視線に、ぼくはコンマ数秒と耐えられなかった。親しくなるうちに砕けた態度を取るようになっても、彼女の根っこの部分、すなわち根性と真面目さという一面は、過酷な冒険者生活を経て、入会当初より磨き上げられているように思えた。
『――ってのは、冗談としてもだ。きみはそんなヤツをどうやって討伐したってんだ?』
『決定的な弱点があります。そこを突けば、万が一に遭遇したとしても勝てますよ。その弱点というのが――』
▲▲▲
教科書通りにいかないのが探索なんですよ、トムさん――
たしかに、ベル・ラックベルの含蓄ある言葉通りのことが、目の前で起こっていた。
ブラウニー改めブラウ・ブラウニーが、魔力を存分に込めた戦木槌を手に、じりじりと距離を詰めてきた。気づけばぼくは短杖を片手に、洞窟の岩壁を背にするかたちになっていた。
《隠し階層》には、それの派生元である地下魔構より、ひとつ上のレベルに相当するモンストルが出現する――そういった世間の常識は、この瞬間、ぼくのなかで脆くも崩れ去っていた。地下魔構か。さすがはお茶目な大魔王が創っただけのことはある。人生も探索も、予定通りにはいかないものだ。そのことを、身をもって思い知らされた。つくづくツキに恵まれなかった。
でもやるべきことは、幸運だと思って手に入れた宝箱の中身が不運だったことを嘆くのではなく、その不運な状況を切り抜く好機を、必死になって探ることだった。
考えろ。考えろ。トム・バードウッド。
下唇を噛み締めた。脳が汗をかいていた。それでも、地の底から響くような嗤い声を上げるブラウ・ブラウニーは、待ってはくれなかった。白い眼光をギラリと放ち、その太い両足を再びバネのようにしならせると、戦木槌を振り上げながら跳躍。初撃と同じ動きだった。完全に舐められていた。
ぼくにやれることは、恐怖を呑み込んで、岩を粉々に砕くほどの一撃を死に物狂いで避けること。
……だけではなかった。
戦木槌が振り下ろされる瞬間に横へすっ飛んだ。砕ける岩面の上を転がり、片膝をついて起き上がり、ブラウ・ブラウニーの影を土煙の向こうに認識するのとほとんど同時に、詠唱。
短杖の先端から迸る火球が、冷えた空気を灼いて宙を駆ける。
だがすんでのところで、敵が魔力を込めた魔具を力任せに横へ振るった。戦木槌のばかでかい先端が、ぎりぎりのタイミングで火球を捉えた。魔力攻撃と魔導効果。超自然的な力の波動がぶつかり合った。深紅の閃光が散って、洞窟内は一瞬、昼間のような眩しさに襲われた。
(くそ! だめか!)
ブラウ・ブラウニーは戦木槌を振り回したあと、反動で硬直するんです。そこを狙えば勝てます――
ベル・ラックベルの言葉は正しい。たしかにヤツの動きが止まったのを、土煙の向こうにこの目で見た。
だけれど、硬直はほんのわずかだった。
ブラウ・ブラウニーがこちらを振り返り、口角を歪めた。ヤツはピンピンしていた。
仕留められなかった原因はわかっていた。こちらの魔導効果の出が遅いのだ。
(せめて、高速詠唱が使えれば……)
無理だとわかっていても、そんなことを考えてしまった。けれど、元・E級冒険者であるぼくに、D級以上の冒険者が扱う応用詠唱術が真似できるはずもない。そもそも、短杖に使っている呪文刻印針が対応していない。
(もっと近づいて撃たないとダメか。それに、詠唱している時間も……)
でも、ぼくは不思議と絶望していなかった。
ベル・ラックベルの言葉を信じていたからだと、いまにしては思う。
ぼくは彼女を疑わない。疑うはずもない。あんなに真面目で、努力家で、根性のある一流の冒険者が「弱点」と言ったのなら、それは「弱点」なんだ。
あとは、ぼくが死力を尽くして頑張るだけだ。
ブラウ・ブラウニーをしっかり見据えながら、背負鞄に手を回して、必要なものを右手に握る。《夜のはじまり》が銀に光って、それに光痕を付与。
それを挑発として見て取ったのか。小鬼類のモンストルは、戦木槌を振り回しながら突進を敢行してきた。
ヤツの焦げ茶色の短い足が岩面を蹴り砕き、迫真の勢いで向かってくる。
ぼくのすぐ後ろは岩壁。逃げ場はない。
いや。最初から、逃げる気なんてさらさらない。
教科書通りにいかないのが探索なんですよ、トムさん――
「君の言う通りだ」
彼我の距離が狭まる。
五メートル。
四メートル。
三メートル。
二メートル……
そして一メートル。
地下に棲む魔の存在に特有の生臭い吐息。
それを嗅ぎ取れそうなぐらい距離が縮まったタイミングを、ぼくは逃さなかった。
死が脳裏を掠めるより先に、ぼくは恐怖を懸命に押し殺しながら右腕を振るった。
ブラウ・ブラウニーのすぐ脇を素通りするように、宙へ投げ放たれたそれの周囲には、すでに光の線が奔っていた。
戦木槌で、今まさにぼくを叩き潰そうとしていたブラウ・ブラウニーの白眼がわずかに揺れた。自分のすぐ脇を通ったそれに気を取られて、視線がぼくから外れた。なんにでも好奇心を抱く五歳児並みの知能が仇になった。
死を前にした時の集中力。
それは、モンストルにはない、人間の最大の特権だ。
詠唱。そして指弾――光の線がブラウ・ブラウニーを取り囲んだ。面倒な小虫をはたき落とすように、ブラウ・ブラウニーが断絶空間のなかで、魔力を秘めた武器を振りかざした。
(かかったな)
戦木槌が不可視の防壁を割ろうとした刹那、ぼくは務めて冷静に、右手の手首を軽く捻る動作をした。
――置換……滅多に使ったことのない、【ディレクション】を構成する魔導効果のひとつ……【編集】の力。
ぼくの目の前から、ブラウ・ブラウニーが消えた。
いや、消えたんじゃない。文字通り、置き換わったんだ。
ぼくがさっき投げ放ったそれと、ブラウ・ブラウニーの位置が、入れ替わった。
そして、この瞬間。ぼくの右手の中には、吸い込まれるように飛び込んできたそれが、たしかに握られていた。
爆火筒――長い筒状の物理的火器。
下部に取り付けられた紐を左手で握りながら、ぼくは全身を投げ出すように、ブラウ・ブラウニーへ突進した。
突然のことに硬直したままのブラウ・ブラウニーへ向けて、筒の先端を向け、思い切り紐を引っ張った。筒の中に詰め込まれていた、ありったけの火薬が轟音を鳴らして炸裂した。
ブラウ・ブラウニーが、つんざくような悲鳴を上げた。ぼくも爆発をもろに食らって吹っ飛んだ。探索用装束のおかげでダメージはそこまででもなかったけど、もんどりうって背中を岩壁にぶつけて、痛みが全身を駆け抜けた。
けど、痛みよりも達成感の方が大きかった。
「や、やった……?」
いや、まだだ。
痛みをこらえて、視線の先に立つモンストルの様子を伺った。
ブラウ・ブラウニーが、先ほどまでは比べ物にならないくらい獰猛に牙を剥き出しにして、頭をぶんぶん振りながら、こちらを激しく睨みつけている。ヤツの腹部から大量の緑色に濁った血が流れていた。けど、倒れる気配はなかった。魔力を込めた得物も握られたままだ。
(やっぱり、そう簡単にいかないか)
ぼくは自嘲するように笑みをこぼして、立ち上がった。
ほとんど使ったためしのない魔導効果を実戦でいきなり成功させるなんて、そんなのは天才冒険者のやることだ。
そして、ぼくは天才でもなければ、冒険者でもない。平凡な広報宣伝局の影響紡ぎだ。
だけれど、この時のぼくには、そこらの天才冒険者だって持ちえない、最大の武器があった。
ベル・ラックベルのアドバイスという、最大の武器が。
(硬直したところを狙う。その方針で正しい)
もういちど、置換を試みようと、背負鞄から爆火筒を取り出した。直後、ブラウ・ブラウニーの様子に変化が見られた。その巨大な戦木槌を肩に担ぐと、片手でゆっくりと振り回しはじめ、徐々に勢いをつけはじめたのだ。
(おいおい、マジか)
こめかみのあたりを冷や汗が流れた。
戦木槌の先端速度が、猛烈に速度を上げていく。殺意の残像を引き連れて、ブラウ・ブラウニーが両手で戦木槌の柄をしっかりと握りしめ、独楽のように回転しながら突進してくる。
力任せの破壊攻撃。だが強力なのは言うまでもない。この攻撃速度。そして攻撃態勢。たとえ位置が入れ替わったとしても、独楽としての動きを止めなければ、攻撃を喰らう隙を与えることはない。五歳児並みの知能で、そこまで考えたうえでの判断だったんだろう。
(だけれども)
これは、さっきよりもやりやすい。
洞窟内の空気が勢いよく攪拌され、顔面を風圧が叩く。モンストルの狂眼と戦木槌の回転が、ぼくを捉えようとした。けど、その前にすべての準備は整っていた。
宙に向けて、すでに光痕されている爆火筒を、高く高く放り投げる。
入れ替わる対象は。
(ぼく自身だ)
詠唱。自分の顔に向けて指弾。そして手首を捻って置換。
風を置き去りにする感覚と、視界に飛び込んできた情報量の変化がぼくを襲った。
でも、そんなのには瞬きをするより早く慣れた。
いつも写画機を片手に、あらゆる画角で現実の映像を覗き込んでいるぼくにしてみれば、視界に収まる情報が変化するのは、ちょっとしたスパイス程度のものでしかない。
ぼくの視界は何段階も高くなって、眼下にブラウ・ブラウニーの禿頭を捉えた。
緊張と冷静の狭間で、ぼくは短杖を振りかざした。
詠唱――火球が迸り、獲物を見失ったブラウ・ブラウニーの矮躯を、完膚なきまでに、今度こそ蹂躙した。




