第8話 戦木槌【ウォーハンマー】の恐怖
頬に当たる冷たい何かが、昏倒したぼくの意識を静かに目覚めさせた。
むくりと起き上がって目を細めた。あたりは真っ暗だった。ほんの三十センチ先になにがあるのかさえわからないくらいの闇が、目の前に広がっていた。虹色プラーグに吞み込まれた際に、照命石を落としてしまったらしい。それとも、プラーグが取り込んでしまったのだろうか。いまとなってはわからない。
一方で、腰に手を回したとき、感触があった。ぼくはほっとした。大丈夫だ。瘴気濃度計はちゃんと革帯にセットされてあった。
そして、耳に届く風切音。空気が流れているということは、地上への出口も確実にある。その見立てで間違いなかった。
(シャハル! この雰囲気……ルイ先輩から聞いていたとおりだ!)
ぼくをいちばんに可愛がってくれている広報宣伝局の先輩からの話を思い出しながら、頭上へ視線を向けた。暗闇の向こうから何かが降ってきて、ぼくの唇に当たった。反射的に舐めとった。無味。水滴だった。
ぼくは背負鞄をその場に下ろし――かけて、はたと止まった。
(いや、まずやるべきは……)
背負鞄を背負い直して、右腕を振る。銀光が輝くのを確認。これだけでも照明の代わりにはなりそうだけど、あいにくと内部にセットしている魔石が呪文刻印針の針先に無駄に削られていくのを良しとするほど、ぼくは酔狂じゃない。
大人しく詠唱。それから、いつもだったらモンストルたちへ向ける右手の指先を、自分の顔へ向けて、指弾――ぼくの全身を囲むように、光の線が幾重にもはしった。
ぼくはこのとき、透明な、しかし周囲と断絶された空間の中にあった。
これは本当に不思議なことで、この物語を書いている現在も公式解明されていないことだけど、《夜のはじまり》の魔導効果で断絶された空間の中では、外と比較して時間の進みがほんの少しだけ早くなる。どうやってそれを知ったか。ここでそれを語ると長くなるし、それを書いたなんてことが知られた日には、リザ先輩が顔を真っ赤にして叱ってくるだろうから割愛する。
でも事実、空間の中の時間の進みは、ほんの少しだけ外界からは進んでいる。本当に、ほんの少しだけど。囲まれた当のぼく自身が、とくにこれといった影響を感じてないことからしても、おそらく人間の五感に激しい影響を及ぼすほどじゃないんだろう。
レベル1や2の地下魔構には、魔力攻撃を仕掛けてくるモンストルはいないって、なにかの本で読んだことがあった。ひとまず、物理攻撃を警戒するという意味でも、初手に【ディレクション】を張るというのは、悪い選択肢ではなかったはずだ。
ぼくは改めて背負鞄を下ろして、中身を漁った。手の感触だけを頼りに、まずは照命石を探し当てた。胸元で浮かんで光るそいつを頼りに、背負鞄の中身を漁った。
測層器を取り出して、腰の革帯にセット。それに予備の呪文刻印針を数本取り出して、探索用装束のポケットに突っ込んだ。最後に層眼鏡を首から吊り下げ、裸眼で周囲を観察した。
(……ひとまず、良さそうだな)
右手と左手を重ねて打ち鳴らして、【ディレクション】を解除した。その拍子に、また天井から水滴が垂れてきて、ぼくの黒髪にかかった。
照命石の向きを変えて確認したところ、天井もこれまた長大だった。水滴の正体は、その長大な天井の周辺から突き出している、氷柱のようなかたちの岩肌から垂れていた。
(ここって、大魔王が創った後で、魔力成分を含む地下水が流れ込んで出来た空間なのかな?)
照命石の光で照らし出された空間は、横に長く広がっていた。光の照り返しを受けて、岩肌が青紫色に輝いていて、なんとも神々しかった。青錯銅にはじまり、紫ゴルドーといった貴重な鉱物資源を多量に含んでいたのだろうか。あるいは、ダンジョン内に満ちる瘴気が地下鉱脈と一部で魔力結合していたのかもしれない。それとも空気中の水分と結びついて、結晶化していたのかも。
どちらにせよ、一般的な層と比較しても、ごつごつしてうねっている空間で、迷宮感は第一層よりもはるかに強かった。まさに《ロングレッグス》って感じだと、この時のぼくは思ったんだ。
瘴気濃度計の数値は基準値以下を示していた。近くにモンストルの気配はなかった。それだけでもほっとした。知的好奇心に駆られて飛び込んできたけど、自分の命は当たり前に惜しかった。
見たところ、道はひとつしかなかった――全身が身震いした。知的好奇心が刺激されたから、というだけじゃなかった。
(めちゃくちゃ冷え込むな……この《隠し階層》は最深層部よりも下なのかも)
《隠し階層》については、いままで知識でしか知らなかった。具体的に全層のうちどこに位置しているのか? 脱出口はちゃんとあるのか? それらの配置には、何かしらの規則性があるのか? 具体的なことは、まだ解明しきれていない。大魔王が意図して創り出したものなのか、それとも地殻変動や地下水脈の影響で自然に発生したものなのかも含めて。
ただ、ときおりニュースで見かける《隠し階層》帰還者の証言には具体性と信憑性があった。国の認可を得て調査に乗り出したギルドの測層調査も、数は少ないけど行われているという事実から、数十年前からその存在は公にされている。
噂によると、《隠し階層》には、国が発行している魔物図鑑に登録されていない新種のモンストルをはじめ、珍しい素材や鉱石が落ちているって話だ。そんな風にルイ先輩から聞いていた。実際、大変な目に遭ったと言いながら、先輩はちゃっかりと魍霊類に分類される新種のモンストルの遺骸を持ち帰り、新型魔石の開発に一役買ったんだった。リドル君が大変に喜んでいたのを、いまでも覚えている。
(……とりあえず、動くかな)
ぼくは腰に付けた測層器を起動させて、歩き出した。透明な珠に十字型の殻をぐるりと一周付けたような形状の、探索における必需品のひとつ。内部にセットされている魔石が不可視の魔力線を層内の壁面へ向けて常時放ち、周囲の空間を非破壊走査しているのだ。
これがいわゆる、測層調査ってやつだ。本来なら測層局員の仕事だけど、それはあくまで通常業務範囲内でのはなしだ。今回のような不測の事態が、いつ起こるか分からない。だから、地下魔構に潜るときは、冒険者であろうと誰だろうと、最低ひとつは測層器を持ち歩くのが常識とされている。記録した層内構造のデータは、あとで測層局に提出してあげればよかった。
(レベル1とはいえ、未踏の《隠し階層》の測層データ……全部記録してやるぞ! こいつはさすがに評価せざるを得ないだろうなぁ、M・Mさんよォ~~~。今期の賞与、期待してるからなァ~~~! うひょひょひょひょ~~~~!)
頭の中はルンルン気分。軽くステップもしちゃったりして、ぼくはご機嫌で洞窟内を進んでいった。衝撃を吸収してくれる市販魔導具の跳舞靴のおかげで、ごつごつした岩面も歩きやすくて苦労しない。これなら、いきなりモンストルに襲われても、どうにか反応できそうだった。
心細くはなかった。むしろ、その逆だ。興奮していた……は、少し言い過ぎだけど、強壮薬のように全身を駆け巡る知的好奇心が、ぼくの足を前へ前へと歩かせていたのは確かだ。
(冒険者でもないぼくが《隠し階層》を発見したって聞いたら、第五班の人たち、どういう反応をするかな)
認めてくれるだろうか――いや、違うか。嘘つきとは言われないだろうけど、おそらくこちらが期待する反応は返ってこないだろうって気はした。『たかが《ロングレッグス》の《隠し階層》じゃないか』とかなんとか言って……でも。
(彼女なら、ちゃんと話を聞いてくれそうだよな)
鳶色の目。茶色のセミロングヘア。卵型の小顔……ベル・ラックベルの顔が浮かんだ。
彼女なら、ならきっとこう言うに違いない。
『え! ? ホントですか! めっちゃ凄いじゃないですか! 先輩、もってますねぇ~』
『ありがとう。いや、ぼくも信じられなかったよ。我慢できなくて小躍りしちゃった』
『普段そんな真面目なのに、小躍りするんですか? しかも地下魔構で?』
『するする。ひとりでテンション上がった時とか、平気でやる』
『ヤバイ。想像したら面白い。今度見せてください』
『いや見せないよ! なんで見せる必要があるの!』
『だって、この前も撮影に協力したじゃないですか』
『じゃあ、小躍りを見せる代わりに、こんど素材集めに協力してくれる? というか真面目な話、君がいてくれると助かるんだよ』
『ぜーんぜんいいですよ! お安い御用です!』
…………
ヤバイ。
これは本格的にヤバイ。
ぼくは気を引き締めるために、頭をぶんぶん振って、右手で頬を何度も叩いた。
冷たい金属の感覚が、火照った肌に伝わってきた。
(……気持ち悪りぃ)
自分にうんざりしながら、腕時計を確認した。時刻はまもなく、昼の十二時に差し掛かろうとしていた。いよいよベル・ラックベルの結婚式が、ここサンカーヴより東に十キロほど先にある、シュワルティア王国第三の大都市・ズィータで執り行われようとしている。
それなのに、その肝心の主役たる彼女に対して、こんなよくわからない感情をぼくは向けてしまっていた。そのことが、すごく申し訳なく感じられた。
(自分って、つくづくなんというか……)
テンションが一気に下がった。こんな妄想を、一度だけじゃない、ぼくはこれまでに何度かやってきた。もし、こんな気味の悪い頭の中を彼女に覗かれでもしたら……
(あの綺麗な目に、一度も見たことのない軽蔑の色が宿るんだろうな)
と、自己嫌悪に陥っていたところで、瘴気濃度計が反応音を出した。
(きたな……!)
数メートル離れた岩陰からモンストルの気配を感じた。
腰の革帯から短杖を左手で抜き取り、右腕を振る。
《夜のはじまり》を起動。
正直なところ、このタイミングで遭遇して助かった。現実に目を向けさせてくれたという点では。
(お、あれは……魔物図鑑で見たことある。ブラウニーだな)
岩陰から現れたのは、肥満児ほどのサイズのある、全身が焦げ茶色の二足歩行型モンストルだった。
ブラウニーは小鬼類に属するモンストルとしての特徴を備えている。額から生えている、一本の赤い短角がそれだ。上顎と下顎から生える合計四本の牙を黄ばんだ涎で濡らし、白目には狂暴性が宿っていた。どうやら、ぼくを獲物と見定めたらしかった。
ぼくは、ヤツの持っている武器に注目した。ピンク色の体毛で覆われている両手で、全長一メートルほどになる大型の木槌を構えていた。ブラウニーといえばこれ、と言われるほどの代表的な近接武器だ。円柱型の先端部分が、ブラウニー自身の頭部より大きいのが、ひときわこちらの目を引いた。
(一匹だけか)
しかし、相手はレべル2の地下魔構で目撃例の多いモンストル。ギリギリ討伐できる相手。油断はできなかった。それは、油断しなければ勝てる相手であるということだ。
気持ちを鎮めて、詠唱。そして指弾――しかけたところで、機先を制したブラウニーが、その太く縮んだ足をバネのように動かし、跳んだ。
(え?)
木槌を思い切り振り上げ、襲い掛かってきた。
――間に合わない。
跳舞靴に力を込めて、左にすっ飛んだ。ほとんど反射的な動きだった。
直後、耳元で盛大な破砕音。青紫に輝く岩壁の破片が右耳を掠め、飛んできた小石が眉間に鋭い速度で当たった。血が滲んだけど、そんなのには構っていられなかった。ぼくがさっきまで立っていた場所は、相当な大穴が穿たれたはずだ。ブラウニーの木槌。話に聞いていた以上の威力だった。
(でも、【ディレクション】なら……!)
分厚い土煙と水飛沫舞う視界の向こうへ、ほのかに揺らぐ敵影を目撃した。
おおよその狙いをつけ、今度こそ指弾――光の線が幾重にも奔り、立方体の断絶空間にブラウニーを隔離。
間髪入れずに短杖の先端を向けようとした。
その拍子に、薄い硝子が割れるような音がした。
ぼくの右腕が、その奇妙な違和感を光の明滅というかたちで感知した。
(……なんだと?)
ぶぅん、と風切音がして、土煙と水飛沫のベールが、たったの一振りで薙ぎ払われた。
嫌な予感がした。こめかみのあたりを、冷や汗が流れた。
視界の向こうに現れたのは、粉砕された岩面の上に立つブラウニー。手元と同じピンク色の体毛に覆われた、その凄まじい跳躍力を見せつけた足先が、岩面から漏れ出る地下水に濡れて黒く光っていた。
(断絶空間を破壊した!? そんなバカな!)
何かの間違いだ。相手は地下魔構レベル2相当のモンストルのはずだ。
信じられない気持ちになって、もう一度、そのブラウニーらしきモンストル目掛けて、力いっぱいに指弾をした。再び光の線が幾重にも奔り、立方体の断絶空間にブラウニーを押しとどめた。
だが、次の瞬間だった。ブラウニーが恐怖に慄くぼくの顔を見て、嗤うように口元をゆがめながら、思い切り木槌を横薙ぎに振るった。
またもや、薄い硝子が割れるような音――直後、層内に起こった気流の変化を肌で感じ取り、背筋がぞっとした。
【ディレクション】を構成する魔導効果のひとつ【切取】で切り離された空間は、外からも中からも、物理的な干渉を一切寄せ付けない。
だけれども、魔導効果に関しては、その限りではない。
魔導効果……すなわち、魔力を源とする攻撃。魔力攻撃。
人間が生まれつき備えていない力。魔導具にセットされた魔石から放たれる力。
魔族や、地下魔構で生産される一部のモンストルが身に付けている超常の力。
けれど、魔力図鑑に登録されているブラウニーの生態詳細に、魔力攻撃のことについては何も言及されていない。
(レベル1の隠し階層だぞ!? 良くてレベル2相当のモンストルだろ! なんで魔力攻撃できるヤツがいるんだ!?)
いや、まずそのことよりも考えるべきは、目の前にいるブラウニーは、ブラウニーであって、同時にブラウニーではないってことだ。
(あの手に握っているのは、木槌じゃない。戦木槌……!)
嬉々として殴殺の魔具を振り回してくる敵の攻撃を、跳舞靴を駆使して辛くも避けながら、ぼくは昔を思い出していた。
ベル・ラックベルとの会話。
目の前の、のっぴきならない状況に打ち勝つために、それは必要なことだった。




