四章⑤ 無法魔術師は決着をつける
「あら、よく来るわね。随分と待ったんじゃない?」
二日ぶりに見るヘレナ・ベスティアは、さすがにもうそれほど変わり映えしている感じではなさそうだった。
ただ、これまでに目にした彼女と明らかに異なるのは、ちゃんと髪を撫でつけてその顔にもしっかりと化粧をして、服装も緩めのブラウスにタイトスカートというスマートな格好をしていることだろう。
「無事に仕事に復帰したみたいだね」
彼女の部屋である二〇三号室の扉の横にもたれたまま、僕が言った。
すでに日差しも赤みがかる程度には傾いていて、西の空から東の空にかけて野鳥の群れが優雅に飛んでいく姿が見える。
その方向は確か僕が住んでいる森がある方向で、ひょっとしたら彼らは広義でいうところの同居人だったりするのかもしれない。
ヘレナが昨日から仕事に復帰しているという情報はすでに分かっていたが、彼女が何時に何処で仕事をしているかまでは分からなかった。
だから、こんなところで小一時間も待ちぼうけをしていたわけである。
「ええ、なんとか踏ん切りもついてきたしね」
肩に提げた鞄を担ぎなおしながら、ヘレナが答える。
「それに、いつまでも塞ぎ込んでるわけにはいかないわ。周りにも心配させるし」
「意外だったよ。普段はいろんなところで講演会をしてるんだってね」
「あら、誰に聞いたの?」
僕の反応にヘレナが驚いたように目を見開き、それから少し照れくさそうに笑った。
「まあ、大したことじゃないわよ。仕事がうまく行かない人とか、好きな人になかなか振り向いてもらえない人とか、そういうちょっと人生に悩みを抱えてる人が、少しでも前向きに生きていけるような話をしているだけ」
「そんなありがたい話をしてる人がつい数日前は飲んだくれて警官に酒瓶を投げつけていただなんて、今思い返してみるとお笑い草だね」
「あのときは……さすがにちょっと冷静じゃなかったのよ」
苦笑ぎみに肩をすくめながらも、ヘレナの顔に不快そうな色は窺えない。
僕がそういった冗談を言うタイプの人間であることを、ヘレナはしっかりと理解してくれているのだろう。
「中に上がらせてもらっても?」
「かまわないけど、大したもてなしはできないわよ。お酒ももう飲み切っちゃったし」
「ちょっと話をしたいだけさ。綺麗な女の子と二人っきりで話をするのが趣味でね」
「あなた、誰にでもそういうこと言うでしょう? あたしはいいけど、メディアにも同じようなこと言っちゃダメよ。あの子、ちょっと依存体質なところがあるから」
ご忠告はありがたいが、ちょっとタイミングが遅かったかな。
「どうぞ、上がって」
ヘレナが部屋の扉を開けて中に入り、僕もそれに続いていく。
二日ぶりに入る彼女の部屋はさらに整理が進んでいて、あれだけたくさん転がっていた酒瓶も今は影ひとつなかった。
それどころか床の染みすらも消えていて、これには大家さんもニッコリだろう。
立ったまま手持ち無沙汰にしていると、ヘレナが壁側に設えられたソファに座るよう目で促してきたので、ひとまず僕はそこに腰を落ち着けさせてもらうことにした。
「それで、いったいどんな話を聞かせてくれるのかしら?」
ヘレナは部屋の片隅におかれたコートハンガーに鞄をかけると、そのままベッドの縁に腰を下ろしながら僕に流し目をくれる。
目の前で挑発的に組まれた脚に思うところがないではないが、ひとまず僕は本来の目的を優先することにした。
「実は例の事件、犯人が逮捕されたんだ」
まるでペンで引いたみたいに綺麗なヘレナの眉が、ピクリと動く。
「君の言うとおり、アレスって女性が犯人だったみたいだね」
「へええ、そう。決定的な証拠でも見つかったの?」
「それが向こうから自首してきたみたいでさ」
「自首? ふうん……」
あれだけアレスのことを激しく糾弾していたくせに、ここに来てヘレナの反応は薄い。
ただ、そのことはいったん気にせず、僕は言葉を続けた。
「良心の呵責に耐えかねたのかな。まあ、これで一件落着だよ。君も随分とアレスさんのことを随分と憎んでいたみたいだから、早く知らせてあげたほうがいいかなと思って」
「そう……」
ヘレナは短く答えて、目線を窓のほうに向けながら少し低い声で続ける。
「親切のつもりかもしれないけど、ちょっと悪趣味じゃない? どうせそのうち新聞にでも載って、自然とあたしの目にも入ったでしょうに」
「ごめんごめん、確かに少し趣味が悪かったかもしれないね。でも、早いうちに知らせたほうがいいと思ったんだ。たぶん、君にとっては予想外のできごとだったろうから」
「……どういうことかしら?」
窓のほうに向いた視線が、再び僕のほうに戻って来る。幾分か、その鋭さを増して。
かまわず僕は言葉を続ける。
「だって、容疑者として逮捕されたならともかく、自首なんてされたら何を言われるか分からないだろう? 自首した上でおかしなこと言われて、逆に自治警察に『あれ、もしかしてコイツ、犯人じゃないのかも……』なんて思われたら、面倒なことになっちゃうもんね」
「何が言いたいのか分からないわ」
「僕は最初から、犯人はアレスに罪をなすりつけたいんだろうなって思ってた。ただ、それは疑いをかけさせたいだけで、別に逮捕される必要まではなかったんだ。魔術による殺人事件が起こって、その容疑者として市民学校で魔術を教えてる教師が挙げられて、その教師がさらに魔術師養成所から派遣されてたエリートってことが世間の目に触れれば、世論は一気に反魔術……少なくとも、魔術師養成学校の設立に関しては反対の流れになる」
「だから、何だって言うのよ」
「そうすれば、犯人の目的は達成だ。そうやって作り上げた世論の流れでセオドール・ボルジアが市長選を勝ち抜けれれば、さらに万々歳ってところだろうね」
「ボルジア? 市長選? いったいあなたは何の話をしているの?」
「おや、その反応は少しおかしいよ。君は《地上の人々》の導師だ。代表であるボルジアが市長選に出ていることは知っているはずだし、その彼が今回の事件を政治利用していることだって知らないはずがない。僕が事件と彼を結びつけることを不愉快に思うなら分かるけど、何も知らないふりをするのはさすがに無理がある」
「……調べたのね、あたしのこと」
「調べたというほどのことじゃないさ。メディアは君のことをよく話してくれたよ。君が自分を心の傷から救ってくれて、ハワードの心の傷も救ってくれたと感謝していた。さすがは導師さまってところかな」
「大袈裟よ。別に、わたしはその人が欲しいと思う言葉を選んで伝えているだけ」
「誰にでもできることじゃないさ。君はその力を使って人の心の隙間に入り、そうやってこれまで何度も自分の目的を果たしていった」
「……何が言いたいの?」
「まだ少し分からないんだ。ボルジアの命令によるものなのか、もっと上からの命令によるものなのか。ただ、君に与えられた使命は最初からひとつだった。セオドール・ボルジアにとって邪魔なものを消すこと。だからメディアに近づいた。彼女の父を消すために」
「何の話をしているのか、分からないわ」
「メディアの父は、たぶんハワードの次にエリザ・ジョンソンの死の真相に近いところにいた人物だ。当然、ボルジアとハワードの関係も知っている。脅迫の実行犯はエリザだったのかもしれないけど、首謀者は彼だった。だから死んだ。酔っ払い同士の喧嘩ってことになってるけど、当時の捜査資料を確認したら、喧嘩の相手が誰かまでは分からなかった。飲み屋の裏手で倒れてるところが見つかって、発見されたときにはすでに事切れてたみたいだね。魔術による一撃で胸部を陥没させられていて……おっと、そういえばこれはハワードの死因とほとんど同じだね」
「妄言を垂れ流したいなら他所でやってくれる?」
「もう少しつきあってほしいな。ともあれ、メディアの父を消したあと、君は彼女を介して今度はハワードとの交際をはじめる。ハワードが《地上の人々》に近づいたのが復讐のためだなんてのは一目瞭然だし、導師としていきなり接近すれば、さすがにハワードだって警戒したかもしれないからね。まあ、ハワードはそもそもその行動自体が無警戒すぎるし、仮に君が直接かかわりを持とうとしたところで問題はなかったと思うけど」
「出ていく気がないなら、人を呼ぶわよ」
「人なんて、呼ばなくてもそのうちくるさ。それより、話の続きをしよう。ハワード殺害にはボルジアにとっての障害を消すという意味もあったけど、もう一つの大きな理由があった。それがアレスに殺人容疑をかけることだ。これはさっきも触れた話だけど、君はボルジアの選挙活動にアレスを利用するつもりだった。おかしな噂を流してハワードとアレスに関係を持たせるよう誘導したりしてね。アレスが思った以上に身持ちの固い女性だった点については、ちょっとあてが外れた部分もあるかもしれないけど」
「言いがかりよ。いい加減にして」
「何にせよ、ハワードは無事に消すことができた。アレスに関しても概ねうまくいった。君に誤算があったとしたら、それは彼女が自首してしまったことだ。でも、それだって別に決定的に状況が覆るようなことにはならないよ。君が心配することは何もない。まあ、誤算といえばもう一つあるけど……」
ヘレナ・ベスティアは脚を組むのもやめてその場に立ち上がり、もう完璧に軽蔑するような目つきで僕のことを見下ろしていた。
視線だけで僕を殺す気にでもなっているのではないかと思うくらい凄絶な眼差しでこちらを見下ろすヘレナの顔を、僕は溜息まじりに見上げる。
「実を言うと、ここまでの話はすべてただの妄想なんだ。僕が見聞きしたことから思い描いたオリジナルストーリーにすぎない。でも、いくつか動かせない事実もある」
「……言ってみなさいよ」
「君が魔術師で、嘘つきだってことさ。今日も、この前も、部屋に入ったときからずっと気になってたんだ。すっかりガラス片も片づいてるし、床にも壁にも染みひとつない。いくらなんでも綺麗すぎるってね。君、掃除用具とか持ってる?」
「……大家さんから借りたのよ」
「ほら、また嘘をついた。君が掃除用具を借りに来たかどうか、待ってる間に大家さんにはもう確認してるんだ。分かるよ。僕たち魔術師はいちいち道具なんて使わない。掃除くらいは魔術でこなしてしまう。前に来たときも随分と部屋が片づいてたし、そのときからずっと君が魔術師であることは疑っていた」
「……」
「残留魔力の検知を行えばこの部屋で魔術が使われたかどうかはすぐに分かる。嘘の上塗りをしたいならかまわないけど、あまりおすすめはしないかな」
まあ、掃除で使う魔術の魔力ごときでは、すでに検知できないレベルまで濃度が下がっている可能性も否めないが……。
しかし、僕のハッタリが思ったよりうまく効いているのだろう。明らかにヘレナの顔には動揺の色が浮かんでいた。
「仮にあたしが魔術師だからって、今回の事件と結びつけられるわけじゃないわ。そんな妄想をダラダラと聞かせて、いったい何がしたいって言うの?」
何がしたい――か。
考えてみれば、僕は何がしたいのだろう。
……いや、そんなことは分かっている。
何だか気恥ずかしいから、僕自身が認めたくないだけだ。
僕はきっと――。
真実を、解き明かしたいんだ。
「君は有能ではあるんだろうけど、詰めの甘い性格ではあるらしい」
いよいよ最終段だ。僕は意識的に深く呼吸をしながら、ヘレナの顔を見上げる。
「セオドール・ボルジアの演説のとき、公園で僕を闇討ちしようとしたとき……そのあたりもかなり綱渡りだったろうけど、まだこのあたりはマシなほうさ。一番はハワードを殺した直後のことだ。君はもっと、細心の注意を払うべきだった」
「何のことだかさっぱり分からないけど……後生だから聞いてあげるわよ」
「せめて通報するなら、誰か協力者を募るかうまく第一発見者を誘導すべきだった」
「…………っ!」
「まあ、それが簡単じゃないことくらいは分かるけどね。でも、それでも自分自身で通報をするなんて真似だけは避けるべきだった。録音を確認させてもらったけど、ノイズまじりでも君によく似た綺麗な声をしていることだけは分かったよ」
「……似てるだけの別人よ!」
「そうかもね。でも、自治警察は君に話を聞きたがるだろう。さっき言いかけたもう一つの誤算というのは、通報の録音音声と君を結びつけられてしまったことだ。君は魔術師で、嘘つきで、ハワードと関係があって、ひょっとしたら事件の第一発見者かもしれない。一方でアレスはもう犯人じゃないことがほとんど確定している。彼女の証言は自分が犯人でないことを逆に証明してしまった。君は言い逃れをするんだろうけど、少なくとも自治警察は君を怪しむだろうね」
「……そんな……」
「そうなれば、ボルジアはどう対応するだろう。それとも、もっと上のほうが対応するのかな。君のような暗殺者を抱えているくらいだから、トカゲの尻尾切りどころか切り捨てた尻尾の後始末くらいわけないのかもしれないね……あ、ごめん、その話は僕の創作なんだった。まさか、本当にボルジアが暗殺者を……それも、魔術師の暗殺者を召し抱えてるなんて、そんなことあるはずないもんな?」
「……そんなこと……!」
「いずれにせよ、自治警察の取調を受けて『《地上の人々》の導師』である君が実は魔術師だったなんてことが明るみに出れば、少なくとも組織の求心力に一定の影響が出ることは避けられないだろうね。仮に君がその話術でもって難局を無事に乗り越えたとしても、僕がここまで語ってきた『物語』をついつい『誰か』に吹聴してしまったら、今度はそれが新たな火種となるかもしれない。それとも、そんなことをすればいつかの記者のように僕を事故に遭わせるかい?」
「……もう、いいわ」
瞬間、ヘレナの気配が変わった。
「詰めが甘いのはどっちでしょうね?」
ヘレナが大きくその両腕を広げ、それと同時に部屋中が光り輝く障壁のようなものに包まれる。
壁も床も天井も気づけば燐光を纏う膜のようなものに覆われており、どうやら魔術的な檻のようなもので部屋全体を包みこんでいるらしい。
以前にライラが音や視覚を遮断する障壁のようなものを展開していたが、それを大げさにしたものとでも考えればよいだろうか。
何にせよ、ヘレナはそれまでの焦燥した様子とは打って変わって、もう完全に勝ち誇ったように僕のことを見下していた。
「確かに、あなたのことを見誤ってたのは事実ね。まさかここまで完璧に言い当てられるとは思わなかった。あなた、過去視でもできたりするの?」
「記憶喪失だからさ。自然と過去に思いを馳せることも多かったのかもしれないね」
「余計なことをしたものだわ。こんなことに首を突っ込まなければ、こんなに早く人生に幕を下ろすこともなかったでしょうに」
「ここで僕を消すつもり?」
「いつかやらなきゃならないなら、早いほうがいいでしょう? ひょっとして、あたしのことを人体をちょっと陥没させることしかできない非力な魔術師だと思ってた?」
「いや、むしろ逆だよ。きっと魔術の制御に秀でた優秀な魔術師なんだろうと思ってた」
僕は彼女の手腕を素直に誉め、ゆっくりとソファから立ち上がる。
すると、まるでそれを合図にしたかのように壁や床を覆っていた光の膜から鎖のようなものが伸びてきて、瞬く間に僕の手足を絡め取っていった。
そのままゆっくりと四肢が引っぱられるような力を感じるが、ヘレナはこのまま僕を八つ裂きにでもしようというのか。
「確認させてもらいたいんだけど、メディアやハワードに対する君の感情は、けっきょく打算からくるものでしかなかったのかな」
冷ややかな笑みを浮かべているヘレナに、僕が訊く。
そこにはある種の僕の願望も含まれていた。
初めて見たときの明らかに正気ではない様子も、その後に彼女が見せた二人に対する慈愛に満ちた様子も、僕の目にはとても演技には思えなかったのだ。
「当たり前でしょう?」
しかし、ヘレナはただ馬鹿にしたように口の端を歪めるだけだった。
「でも、あたしなりに誠意は示したつもりよ。ろくでもない親に人生を歪められて、互いに傷を舐め合うことでしか前に進めなかった哀れな二人……あたしはそのうちの一人を人生という辛い檻からから開放して、もう一人には誰にも縛られない自由を与えてあげた。むしろ感謝してほしいくらいだわ」
「……そうか。まあ、それならそれで、よかった。実を言うと、君に命令をしているのが誰であるかより、そっちのほうがずっと気になってたんだ。でも、改めて言うけど、やっぱり君は詰めが甘いね」
「なんですって?」
僕は手足を拘束していた光の鎖を無造作に引きちぎると、驚いたように目を見開くヘレナに向けて肩をすくめながら告げた。
「だからさ、せめて君が悲しむふりでもしてくれれば、僕だって少しは加減したってこと」
ドンッ! ――と、鈍い音がして、部屋を包んでいた障壁が一瞬のうちに崩壊するとともに、ヘレナの足下が勢いよく崩れ落ちる。
そのままヘレナは声を上げる間なく階下へと落下していき、僕は床に空いた穴から足を踏み外さないようにそっと下を覗き込んだ。
ヘレナは階下にある一階の部屋の床にさらに穴を穿ち、その体を集合住宅の基礎部分にひたすらめり込ませていた。
超重力で彼女の周囲一帯を押しつぶしているのである。彼女の部屋が二階にある以上、こうなることは分かっていたので、大家さんには最初から話を通してあった。
「ホントに落ちてきた!」
そう声をあげたのは、階下の部屋で待っていた鈴音さんである。
万が一逃走を図られたときのために待機してもらっていたのだが、幸いにもその必要はなさそうだ。
ヘレナは優秀な魔術師ではあったのだろうが、だからといって僕の相手ではない。
彼女は声を上げることすらできず、ただひたすら超重力にその身を苛まれ続けている。
「うまくいったな。ヒヤヒヤしたぞ」
――と、玄関のほうからライラがやってきた。
ずっとそばで待機してもらっていたのだ。
せっかくいろいろとお膳立てして彼女に罪を自白させたのに、それを聞いたのが僕だけとあってはあとで言い逃れをされてしまう危険性もある。
「無事に終わったね。ちゃんと僕たちのやりとりは見ていてくれた?」
「ああ。しかし、障壁がはられた瞬間はどうしようかと思ったぞ。幸いそれほど強固なものではなかったから、すぐに内側に入ることはできたが……」
「穴を空けたってこと?」
「ああ。潜入工作は得意だと言っただろう?」
この場合、ライラがすごいのかヘレナが大したことないのかはいまいち分からないな。
「ちょっと、あんたたちも早く降りてきなさいよ!」
下のほうから鈴音さんに呼ばれて、僕たちは慌てて階下に降りていく。
幸いにも事前に聞いた話では階下の部屋は使用されていないらしく、家具一つない殺風景な空間の中、床に空いた穴の中で苦しむヘレナの姿だけが異彩を放っていた。
「くっ……全部、最初から計画してたってこと……!?」
超重力の中でも気丈に顔を上げ、必死の形相でこちらを見上げながらヘレナが吼えた。
「そりゃ、物証がない以上はこうするしかないからね。でなけりゃ、いくら僕でもいちいちあんな挑発的な物言いはしないよ」
「どうだかな」
「どうかしらね」
僕の言い分はライラと鈴音さんによって即座に却下された。
釈然としないものはあるが、いったんは気にしないことにして、ヘレナに言う。
「まあ、確かに君は詰めは甘いけど、それでも優秀だったよ。こっちの手札をぜんぶ使って、やっと引きずり出せた。最後の最後までしらばっくれられたら、もう僕たちにはどうしようもなかった」
「……わたしをどうするつもり……!?」
怒りか、あるいは恐怖か。こちらを見るヘレナの瞳には、様々な感情が渦巻いているように感じられた。
だが、ハワードもこれまで命を奪われていった人たちも、今となってはそういった負の感情を抱くことすらできないのだ。
「この街の施設で貴様のような狡猾な魔術師を収容することは不可能だろう。よって、連邦警察に引き取ってもらうつもりだ。すでに手続きははじめている」
自治警察の手帳を見せながら、ライラが言った。
どのみち、ヘレナを完全に拘束することが可能だったとしても、このままこの街で収容しておくわけにはいかないだろう。
彼女の本当の雇い主が誰なのかは未だに判然としないが、場合によっては本当に『トカゲの尻尾切り』をされてしまう可能性だってある。
「このままじゃ済まさないわよ……!」
一方、ヘレナはこの期に及んでもまだ諦めていないようだった。
「勇ましいことだ」
しかし、ライラは動じる様子もなく悠然と一歩進み出ると、穴の縁で膝立ちになりながらヘレナを見下ろす。
「だが、おまえもまた、わたしのことを侮っているらしい」
「なにっ……!?」
ライラはニヤリと口の端を歪めると、その手をゆっくりとヘレナの体に伸ばしていった。
「『緊縛の魔女』を舐めないことだ。連邦警察の派遣員が来るまでの間、貴様を拘束するなどわけないことをその身にじっくり教えてやろう」




