四章④ 無法魔術師と最後のピース
彼女が後ろ手に部屋の鍵をかけたことを確認して、僕はその体を優しく抱きしめた。
最初こそ僕の体を押しのけようとする彼女だが、その力はあまりにも弱く、それが形だけの抵抗であることはすぐに分かった。
少し汗の匂いがする彼女の首筋に唇を這わせていると、やがて震える彼女の腕が躊躇いがちに僕の体を抱き返してきた。
僕は両手で包み込むように彼女の顔に触れ、正面からその瞳を覗き込む。
薄いレンズの向こうに見える灰色の瞳は戸惑うように揺れているが、震えるその唇は何かを求めるように薄く開かれていた。
僕は何も言わずにその唇を塞ぎ、そのまま――。
※
「わたし、誰にでもこんなことするわけじゃないんですよ……ううん、違うわね。そもそもハワードくらいしか、わたしをそういうふうに見てくれる人がいなかっただけ……」
言い訳をするように、僕の腕の中でメディアが呟いた。
ベッドサイドのランプがほんのりと照らす室内は、そのわずかばかりの明かりでも十分に分かるほど色味がまったく感じられない。
寝具をはじめ、あらゆるものがベージュの濃淡で、設えられている家具も生活に必要な最低限のものしか揃えられていなかった。
白ではなくベージュなのも、きっとそのほうが汚れが目立ちにくいだろうという程度の理由なのだと思う。それほどまでに、この部屋には生活感を感じない。
「気にすることないさ。こんなのは、言ってみれば交通事故みたいなもんだよ」
「ふふっ……それなら、慰謝料を請求しなくちゃいけませんね」
力なくメディアが笑う。
昼過ぎに市民学校で再び会う約束を取りつけ、夜に彼女の家の近くにあるという創作料理のお店で待ち合わせをした。
メディアは服用している薬があるということでお酒は呑まなかったが、僕が気にせず呑む姿を見て触発でもされたのか『家でなら少しくらいは』と食後に誘ってくれた。
その時点で僕は酒なんかより別のことを期待していたし、それはひょっとしたら彼女も同様だったのかもしれない。
『あわよくば』なんてことは出会ったときからずっと思っていたし、彼女も何かのきまぐれでたまには僕みたいなイケメンと寝てみるのもいいかと判断したのだろう。
「実は昨日の話を聞いてから少し心配だったんだ。君はまだ本当の意味で『卒業』できていなかったんじゃないかってね」
ともあれ、腕の中で相変わらず物憂げな顔をしているメディアに僕が言った。
彼女は僕の肩に頭の端っこを乗せたまま、ほんの少しだけその肩が震える。
「卒業……しなきゃいけないんです。もう、何処を探しても彼はいないんですから……」
「本当は、ヘレナさんと交際をはじめたあともずっとハワードのことを?」
「分かりません。ただ、わたしにとってハワードは唯一の支えで、そこにいつしかヘレナが加わって、でも、わたしはどちらからも選ばれなかった」
いよいよ本格的にメディアの肩が震えはじめ、僕はその肩をそっと抱き寄せる。
涙を流している様子もなければ嗚咽を上げているわけでもないが、仮に見た目では何ともなさそうに見えたって、心がどうかは分からない。
「お父さんもいなくなって、わたしは一人ぼっちになって、だから、一人で生きていく強さを身につけなきゃって、最近はずっとそんなことばかり考えていました」
「別に一人で生きてく必要なんて、ないと思うけどな」
「でも、わたしのことなんて、誰も……」
「そんなことはないさ。君くらい魅力的なら、いつかきっといい人が見つかるよ」
「たとえば、あなたとか?」
「僕は、その……あんまりオススメはしないかな。いつ刺されて死ぬかも分からないしね」
メディアが頭の位置を変え、レンズ越しではない瞳でぼんやりと僕の顔を見つめてくる。
その口許にはほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
「ふふっ……そのときは死神でも名乗ろうかしら……」
「本当は、聞きたいことがあったんだ」
「分かってます。そうじゃなきゃ、わたしなんかと関わろうとは思いませんよね」
「そんなことはないけど……まあ、それについてはまた今度話そう」
口許に浮かんでいた笑みが自嘲的なものに変わるのを感じて、僕はほとんど反射的に彼女の額にキスをする。
それが功を奏したのか、あるいは『また今度』というワードが何かしらの作用を果たしたのかは分からないが、ひとまず彼女の表情がそれ以上暗くなることはなかった。
僕はメディアに見えないようにそっと安堵の溜息を吐くと、改めて言葉を続ける。
「聞きたいのは、ハワードさんの父親についてさ」
「ハワードの、お父さん……」
「君も知ってるよね。ハワードさんの父親のこと」
「……ハワードが殺されたことと、何か関係があるんですか?」
「あるかもしれないし、ないかもしれない。ただ、事実を確認しておきたくてさ。ハワードさんは、自分の父親が誰なのか知っていたのかな」
いつだったか、セオドール・ボルジアはハワード・ジョンソンを表向きでは認知していなかったが、陰ながら経済的に援助していたと言っていた。
それが本当であれば、彼らの関係は少なくとも僕たちが想像していたよりかは良好だったのかもしれない。
ただ、あのような演説の場でわざわざ言うようなことでもないし、わざわざ言うようでもないことを言うということは、つまり、その裏に何か意図があるということでもある。
「知っていたと思います。ハワードは、子どものころから自分がお父さんに捨てられた子だと言うことにずっと心を痛めていましたから」
「そのことは、君もハワードから聞かされていたのかい?」
「はい。ハワードのお母さんも、ときどき愚痴っぽく漏らしていました。わたしたち、家族ぐるみのつきあいでしたから」
「言いづらいかもしれないけど、お母さんが死んだとき、ハワードさんは……?」
「とても荒れていました。ハワードはおばさんのことをとても大切にしていて、それなのに周りは彼を親殺しのようにあつかって……」
まるで痛みを堪えるかのように、メディアがキュッと唇を噛んだ。
僕は何も言わずにその背中を優しくさすりながら、言葉の続きを待つ。
「ハワードは、それからわたしにも辛く当たるようになってきました」
「そうなのかい? でも、君たちはずっと関係を続けてたって……」
「ハワードの気持ちも分かるから、受けとめてあげなきゃって。おばさんがハワードのお父さんを脅迫しはじめたのは、わたしのお父さんのせいだから……」
「なんだって?」
メディアの父親――娘に乱暴をはたらいている時点で歪んだものを抱えていそうな人物とは思っていたが、すでにそこまで落ちぶれていたのか。
「それはつまり、君のお父さんが焚きつけたってこと?」
「はい。その当時、仕事をクビになってお金に困ってたから、おばさんを利用してハワードのお父さんからお金を巻き上げようとしていたんです。ハワードはおばさんを必死にとめていたみたいですけど、けっきょくあんなことに……」
「ひょっとして、君のお父さんとハワードさんのお母さんは……」
「はい。たぶん、そういう関係だったんだと思います」
これはまた随分と歪んだ関係だな……。
「ハワードさんのお母さんは、警察の捜査では自殺となっているようだけど……」
「そうみたいですね。でも、ハワードは殺されたと思っているみたいでした。彼が《地上の人々》の活動に傾倒していったのも、ちょうどそれからです」
ハワードが《地上の人々》の一員だったことは、はからずもボルジア本人の口からすでに聞かされている。
しかし、あのときと今ではその事実も随分と違う意味を持つように感じられた。
ボルジアが僕ほど暢気な性格じゃなければ、ハワードが何を思って《地上の人々》に近づいたのかに気づいていないはずがない。
それでいてあのような言いまわしができるということは、おそらく最初からハワードの死を政治利用するつもりだったからだろう。
「ハワードは、自ら《地上の人々》に近づいていったのか……」
「復讐のためだったのか、他に何か目的があったのかは分かりません。もともとハワードのお母さんも《地上の人々》で要職に就いていたそうなので……」
まあ、それは当然か。でなければ、そもそもエリザ・ジョンソンとボルジアが接点を持つこともない。要職に就いていたとなれば、自然とその距離も近かったことだろう。
だからこそハワードも《地上の人々》に近づきやすいと考えたのかもしれないが、もし彼にその危険性を顧みる冷静さがあれば、悲劇が繰り返されることもなかったのだろうか。
「でも、結果的に《地上の人々》に入ったこと自体は良かったんだと思います」
一方、何も知らないメディアには、何故かその行動が好意的に受け取られているらしい。
不思議に思っていると、彼女はあまりにも意外な事実を口にする。
「おかげで、ヘレナとも出会えましたから」
「ヘレナ……」
そうか。彼女も《地上の人々》だったのか。
「彼女は魔術によって苦しむ人々を救うだけでなく、心に傷を抱えた人や自分の人生に思い悩むを人を導く導師として活動しているんです。わたしも彼女によってどれだけ心を救われたか……それに、きっとハワードも……」
「君は本当に、ハワードさんを大切に思っていたんだね」
「わたしは……」
僕の腕の中で、メディアが急に嗚咽を漏らしはじめる。
何がきっかけなのかは分からない。ただ、これまでハワードの死に対して抱え込んでいた感情が、ここに来て一気に溢れ出したのだろう。
口では何と言おうと、メディアの心は常にハワードとともにあった。
きっと彼女はハワードから『卒業』したかったのではなく、自分への依存を断ち切れないハワードを『卒業』させたかったのではないかと思う。
そのために、自分の感情を押し殺してでもハワードと距離を取った。
自分を救ってくれたヘレナがハワードの心も救ってくれると信じ、悲しみを乗り越えた彼が再び光の下を歩めるようになることを願っていたのだ。
――だが、もうその願いが叶うことはない。
「……っ……っ……ごめ、なさい……っ……不思議、ですよね……っ……もう、何年も、泣くことなんて、なかったのに……っ……」
嗚咽まじりに言うメディアの頭を、僕はそっと胸のうちに抱き寄せる。
「泣けるなら、我慢せずに泣けばいいんだ」
うなじのあたりを優しく撫でながら、僕が言った。
「世の中には、泣きたくたって泣けない人もたくさんいる。だから、泣けるならいっぱい泣いて、怒れるならいっぱい怒って、そのあとは美味しいものをいっぱい食べるんだ。それさえできれば、たぶん大抵のことはどうにかなる」
我ながら無責任な発言だとは思うが、それでもメディアは少しだけ笑ってくれた。
「……きっと一人ではうまく泣けないから、そのときはまた胸を貸してくれますか?」
そのまま僕の胸の上でぐるっと体の向きを変え、じっとこちらの顔を見つめながら訊いてくる。
「いつでも貸すよ。誰かに刺されて、死ぬまでの間でよければ」
「……ふふっ……本当に不思議な人……」
メディアはまだしっかりと涙に濡れた瞳をそれでも柔らかく綻ばせると、そのまま目を伏せてゆっくりと僕のほうへと顔を近づけてきた。




