三章① 無法魔術師は動き出す
ふと目を開けると、ベッドのすぐ隣でライラが板切れのようなものを耳に押し当てながら抑えた声で何やらボソボソと喋っていた。
手に収まるほどのその小さな板切れは仄かに燐光を放っており、魔力によく似た波動も感じることからおそらくエーテルを利用した通信機か何かだろう。
エーテルというのはこの世界そのものが持つ魔力のようなもので、大気中に常に見えない形で漂っている。
これらを取り込んでエネルギーとして利用するのが『エーテル機関』であり、それ以外にも最近ではこういった遠隔通話などの技術に利用されていた。
窓を見ると、カーテンの隙間から淡く陽光が差し込んでいる。少なくともすでに夜は明けているらしいが、正確な時刻までは分からない。
「分かりました。準備をしてすぐ向かいます」
そう言って、ライラが光の消えた通信機をベッドサイドに放り投げた。
「……起きたのか?」
そのままモゾッと寝具の中で体を回し、僕のほうに向きなおってくる。
「何かあったの?」
「『戦人街』で冒険者同士の諍いだそうだ。殴り合いの喧嘩ならともかく、魔術まで使ってドンパチやったせいで被害が尋常じゃないらしい」
僕の腕を無理やりずらして腕枕をさせながら、ライラが陰鬱に溜息を吐く。
「『戦人街』って、下層の?」
「そうだ。『市民街』と違って外からの出入りも多いから、たまにあるんだ」
ザルインの街は階段状に連なる三層構造になっていて、下から『戦人街』『市民街』『上級市民街』と呼ばれている。
僕は市民街から出たことはないが、市民権や入場許可を持たない者でも自由に出入りできるのは戦人街は少し治安が悪い傾向にあるということくらいは聞いたことがあった。
「今から行って間に合うの?」
「暴徒の鎮圧はもう終わっているだろうな。どのみち、わたしのメインは修繕だ」
「あ、なるほど」
気だるげに答えるライラに、僕は思わず苦笑する。
『エーテル機関』の普及によって誰でも魔術に似た力を行使できるようにはなったが、そういった装置では代用できない力もまだまだ存在する。
その最たる例が、物体の修復や人体の傷を癒やす再生魔術と呼ばれる類の魔術だ。
再生魔術は技術的にもかなり高度なものであり、とくに人体の修復には人体構造そのものを熟知している必要があるため、扱える者自体の希少性も高い。
ライラがどの程度の水準にいる魔術師なのかは未だに判然としないが、修繕作業のあてにされるくらい再生魔術に定評があるというなら、やはりそれなりの使い手ではあるということか。
「今日は一日作業になるやもしれん。なんだったら、おまえもついてくるか?」
ぐるっとうつ伏せになって僕の胸の上に顎を乗せながら、ライラがそんなことを訊いてくる。
その顔はかなりついてきてほしそうだったが、はっきり言って気のりはしなかった。
他人の喧嘩の後始末なんてやりたくないし、そうでなくとも一日作業になるかもしれないなんて聞かされたら、それだけで僕のやる気メーターは枯渇してしまう。
ただ、言い訳もなく『No』と突き返したら、それはそれでどうなるか分からないのも事実だ。下手なことを言ってまた『緊縛』でもされたら目も当てられない。
「せっかくだから、僕は事件についてちょっと調べてみるよ」
そこで思いついたのが、事件のことだった。
といっても、実際にはもうただの『言い訳』ではなくなっている部分も少なからずある。
僕にしては珍しく、この件については本心で興味を持ちつつあった。
「サボりの言い訳ではあるまいな?」
しかし、見上げるライラの目は明らかに僕の言葉を信用していなさそうだ。
「何だったら、あとで報告会をしてもいいよ」
「ほう、言ったな? では、こちらの業務が終わったら森の家に向かおう」
「楽しみにしていてよ」
自信を覗かせる僕に、それでもライラはしばらく訝しげな目線を向けていた。
だが、やがてフッと口許を緩めると、そのまま首を伸ばして僕の顔を覗き込んでくる。
「そこまで言うなら、任せるとしよう。半端な報告では許さんからな?」
念を押すようにそう告げるライラの顔はもうほとんど息がかかるくらいまで迫ってきていて、僕は思わずその柔らかそうな唇を舌先でぺろりと舐めてしまう。
驚いたように目を丸くするライラだったが、すぐにニヤッと不敵な笑みを浮かべると、そのまま本格的に僕の上に乗りかかってきて、ほとんど無理やり唇を重ねてきた。
こうなったらもう彼女はとまらないし、僕にできることなんて自分の迂闊さを呪うことくらいのものである。それから僕の身がどうなったかについては想像におまかせするが、さて、準備をしてすぐ向かうとは何だったのだろうか。




