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序章③ 無法魔術師は転がり込む

 目が覚めると、今度は見覚えのある天井がそこにあった。


 といっても、いつも目にしているあばら家のボロボロの天井ではなく、綺麗に塗り固められたモルタルの天井である。


 薄らぼんやりとした頭でそのまま視線をめぐらせると、どうやら僕はベッドに寝かされているらしく、そのベッドの縁では一人の女性がこちらに背を向けて座っていた。


 どうやら下着を身に着けている最中のようで、露わになった白い肌が目に眩しい。


 僕がそのまま寝具の中で身じろぎをすると、衣擦れの音に気づいた女性がこちらを振り返り、にこりと微笑みかけてくる。


「あら、ごめんなさい。起こしてしまったかしら?」


 優しげな声でそう告げるその女性のことを、僕はよく知っていた。


 サーシャ・アルコニィ――成り行きで一年前からこのザルインの街での生活を余儀なくされた僕を公私にわたって世話してくれている女性である。


 歳は三十代半ばくらいという話だが、見た目にはとてもそうは見えず、まだまだ若々しいだけでなくとても麗しい風貌をしている。


 優しげな二重の瞳は落ち着きのある深い群青色で、少しウェーブのかかった長い亜麻色の髪は窓から差し込む薄明かりを反射してキラキラと輝いていた。


 スタイルもまったく崩れておらず、少し広めの肩から細くくびれた腰へのラインなどは何度見てもグッとくる圧倒的な魅力がある。


「もう起きる? ずいぶんと疲れていたようだし、まだ寝ていてもいいのよ」


 その美貌についウットリとしている僕に気づいた様子もなく、サーシャさんはそう言ってベッドの縁から立ち上がった。


 そこで僕はようやく自分がおかれている状況に気づき、慌てて体を起こす。


「なんで僕がここに……?」


 自分自身の体を見下ろすと、どうやら僕自身も生まれたままの姿であるようだった。


 ――ということは、まあ、おそらくそういうことなのだろう。


 仮に僕とサーシャさんが何かの勢いでうっかり『添い寝』をしていたところでそれ自体はよくあることだし、今さら驚くようなことでもない。


 ただ、昨夜の流れから僕がこのベッドで目を覚ますことになった流れについてはまったく理解が及ばないし、何かしらの説明を受けたい気分ではあった。


「あら、覚えてないの? まあ、いつものことだけど……」


 スラッとしたスタイルに似つかわしくない豊満な乳房をブラの中に収めながら、サーシャさんがクスッと笑う。


 記憶喪失であることが関係あるのかどうかは分からないが、僕は酒に酔ったり疲れているときは記憶が飛んでしまうことが多々あり、彼女もそのことはよく知っている。


「仕込みの前に少し店先の掃除でもしておこうと思ったら、路端であなたが寝ていたの。話を聞けば、殺人容疑で警察署に連行されたけど、面倒くさくなって脱獄してきたなんて言うじゃない? お酒の匂いがしたから、きっと変な夢でも見たんだろうと思ってひとまず中に入ってもらったんだけど」


 サーシャさんはニコニコと笑顔で言いながら、床の上に乱雑に脱ぎ捨てられたシャツを拾い上げて袖に腕を通していく。


 なるほど。どうやら僕はサーシャさんの経営するパン屋『水蝶』の前までたどり着いたところで力尽き、そのまま地べたで寝入ってしまったようだ。


 このパン屋から僕の自宅までそれほど距離があるわけではないのだが、あと一歩というところで精魂尽き果ててしまったらしい。


 しかし、だからといって僕とサーシャさんが素っ裸で同じベッドの上にいることに関してはまったく話が繋がってこないようにも思えるが……。


「あら、そこまで説明させるの? あなたのほうから誘ってきたのに……」

「ほ、ホントに……?」


 そう言って意味ありげな笑みを浮かべながら流し目をくれるサーシャさんに、僕は思わず血の気が引いていくのを感じた。


 サーシャさんを酒の勢いで押し倒すこと自体はよくあることだが、それでもこれから店の仕込みがあるというタイミングで襲いかかるというのはいささか無体がすぎる。


 親切心からベッドを貸してくれていることを考えれば、なおさらだ。


 僕にだって、何かと恩義のあるサーシャさんに対してくらいは反省の念を感じる程度の常識が備わっていた。


「……ふふっ、ウソよ」


 ――と、そんな僕に、サーシャさんが茶目っ気たっぷりのウィンクをして見せる。


「本当はわたしのほうから襲っちゃったの。仕方ないでしょう? だって、あなたの寝顔があまりに可愛いすぎるんだもの」


 シャツとスカートを身につけ、その上に作業用のエプロンを羽織りながら告げるサーシャさんの顔には、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。


 僕はもう完全に言葉を失ってしまい、そんな僕の様子を見てさらにサーシャさんがクスッと笑みを深める。


「おかげで朝から元気をもらえたわ。わたしは仕込みに戻るけど、もしまだ眠かったらそのまま寝ていてね。でも、帰るときはタイミングに気をつけてちょうだい。もし娘に見つかったら、言い訳が大変だから」


 最後に長い髪をくくってポニーテールにすると、サーシャさんはそんな言葉を残して部屋を出ていった。


 娘――というのは、もちろんサーシャさんの実子のことである。


 名はセシルという。歳は十二歳で、今年から平日の日中は市民学校に通っているはずだ。


 今が仕込み前の時間帯というを考えるとさすがにまだ起きてはいないだろうが、確かにタイミングによっては顔を合わせてしまう可能性もあった。


 サーシャさんの夫でありセシルの実父でもある男性はもう何年も前に他界してしまっているので、少なくとも理屈の上では僕たちの関係にやましいところは何もない。


 ――のだが、だからといって思春期真っ盛りの女の子に母親の爛れた側面を知られてしまうというのは決して健全なことではないだろう。


 サーシャさんの厚意に甘えてこのまま惰眠を貪るのも悪くないが、リスクを避けるならばさっさとお暇しておいたほうがよいかもしれない。


(帰って寝なおすか……)


 僕はその場でグッと体を伸ばすと、そのままのそりとベッドを出て床の上に脱ぎ捨てられた衣服を取り上げる。


 そして、ベッドの縁に座りながらそれらを身に着けると、記憶が失われる前から履き続けているらしい妙に無骨なデザインのブーツに足を突っ込んで立ち上がった。


 まだ今ひとつハッキリとしない頭を小突きながら戸口のほうに向けて歩き出しつつ、なんとなく壁にかけられた姿見のほうに目を向ける。


 そこに映っているのは、銀髪碧眼の若い男の顔である。


 その表情には何処か厭世的で皮肉げな空気が宿り、手入れのされていないボサボサの髪も相まって、見た目の若さに反してまったくと言っていいほど活力を感じられないが、単純な見た目に関しては控えめに言っても超絶イケメンだと思う。


 その首からは瞳の色と同じ深い碧色の宝石をあしらったペンダントが下げられており、それだけが唯一鏡に映るものの中で確かな輝きを放っていた。


 このペンダントも僕が記憶を失う前から身につけているもので、宝石に絡みつくように施された銀細工には『アテナ』という名前が彫られている。


 さて、随分と遅くなってしまったが、そろそろ自己紹介をしておこう。


 僕の名はアテナ・ラスティング。今から約一年前にこのザルインの街に流れ着き、そのまま成り行きで居着いてしまった記憶喪失の魔術師である。


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