序章① 無法魔術師は酔いどれている
失態だった。完全に呑みすぎてしまった。
街灯の仄かな明かりに照らされながら、僕はフラつく足どりで夜道を歩いていた。
まっすぐに伸びる石畳の路地は無限に続くかのように思われ、視界の中で揺らめく街灯の光は僕を嘲笑っているかのようにすら感じられる。
一緒に呑んでいた面々は少し休んで酔いを覚ましてから帰るべきだと言っていたが、素直に彼らの警告を聞き入れておくべきだったかもしれない。
僕は重い足を引きずるように進めながらも、まったく先の見えない不安と胃袋のあたりから込み上げてくる不快な衝動に軽い絶望を覚えていた。
酒場を出たときにはまだ余裕もあったのだが、歩いているうちにどんどん酔いが回ってきて、今となってはまっすぐ歩くことすらままならない状況になりつつあった。
この調子では、自宅のある街外れの森にたどり着く前に力尽きてしまう可能性すらある。
――だから、道端に転がっているソレを見かけたときも、最初は何であるのかまったく理解が及ばなかった。
一見すると、ソレは路地に転がっている大きめのゴミか何かに見えた。
だが、歩みを進めるごとにソレとの距離が近づき、その形状が鮮明になってくるにつれて、その物体が少なくとも『ただのゴミ』ではないことに気づく。
人の形をしていたのだ。酔った頭で幻覚を見ているのでもなければ、ソレは仰向けに倒れ、光のない瞳で夜空をまっすぐに見上げた男性のように見えた。
(死んでる……?)
その姿を見て僕がまず最初に感じたのは、そんなことだった。
何故かは分からないが、ほとんど直感で、僕は中天を仰ぐこの男性がすでに生きてはいないだろうことを確信していた。
これまでの人生で人の死体なんて見たことはない――と、思っていたが、実はそうではないのかもしれない。
僕にはこの街で生活をするようになった約一年前より先の記憶がなかった。
それ以前に何をやっていたかなんて知らないし、興味もない。
ただ、目の前に明らかに様子のおかしい男性の死体が転がっていても不思議なほど心が騒がないのは、少なくとも今の僕が酩酊状態にあることとは関係がなさそうだった。
記憶を失う前の僕は、こうした死体を見ることに慣れてすらいたのかもしれない。
そう感じるほど、僕は眼下に転がる男性の亡き骸を平然と見下ろしていた。
(通り魔か何かか……?)
ぼんやりとした頭でそんなことを考えながら、男性の傍らにしゃがみ込む。
歳は二十代半ばくらいだろうか。
夜道である上に酩酊状態の歪んだ視界でどれだけ正確な判断ができたものかは怪しいものだが、少なくとも若い男性であることだけは間違いなさそうだった。
服装に乱れのようなものはないから、何か争いの末に殺傷されたというわけでもなさそうに見える。
ただ、よくよく観察してみると口の端から血を溢したような形跡があり、胸のあたりが何かで穿たれたかのように陥没していた。
まるで鈍器のようなもので強く殴打されたかのようにも見えるが――。
(魔術か……)
ほとんど直感で、僕はそう確信していた。
魔術――この世界において、選ばれた素質を持つ者のみがあつかえる特別な技法。世界の構造を書き換え、物理法則すら無視した奇跡を顕現させる秘術の総称だ。
もちろん、本来的には人の生活を豊かにするために活用されるべきものであるが、あつかいを間違えれば容易く人を傷つける暴威にも変貌する。
だからこそ、魔術師は誰よりも強く自分自身を律さなければならない――というのが、この街で何度となく魔術による騒動を起こしている僕が自治警察のお偉いさんから拝聴したありがたいお言葉であるのだが……。
(ん……? ということは、この状況……)
急速に酔いが覚めていくのを感じ、それとともに血の気も引いていく。
転がる死体。人気のない路地。そして、その傍らには酔っ払った怪しい魔術師――。
この状況、誰かに見られでもしたら、どんな誤解をされるかは想像に難くない。
そうでなくともこの街の自治警察内における僕の評判は最悪なのだ。
余計なトラブルに見舞われる前に、今すぐこの場を離れたほうが……。
「そこを動くな!」
しかし、すでに状況は取り返しのつかないところにまで差し迫っていたようだ。
声のしたほうを振り仰ぐと、特殊な形状の防具で武装した警官らしき女性が警棒を片手にこちらを睨みつけている。
歳の頃は二十歳そこらだろうか。街頭の薄明かりの中ではあまりよく見えないが、明るい髪色をした、整った面立ちの女性であることだけはなんとなく判別できる。
まだ若々しくは見えるが、その構えには隙がない。
いつもの僕なら適当に魔術をブッ放して逃走をはかるところだが、今の酔いが残った頭では何となくそれも難しそうに思えた。
それに、この女警官が身につけているのはおそらく魔術に対する防護機構を搭載した対魔術師戦用の特殊兵装だ。
魔術によってこの場を乗り切るなら、こちらも相応に本気で挑む必要がある。
とはいえ、酩酊状態の僕にそれができるかどうかは、正直かなり怪しいところだった。
(まあ、ここは一度大人しく捕まったほうが得策か……)
僕はゆっくりとその場に立ち上がると、降参の意を示すように両手を上げた。
「いい判断だ。そのまま大人しくしていろ。応援が着き次第、貴様を署に連行する」
(完全に犯人あつかいされてるな……)
女警官に言われるままに大人しくしていると、ほどなくして別の警官もやってきて、僕はそのまま為すすべもなく捕縛されてしまった。
そして、その警官が乗ってきたと思われるエーテル駆動の四輪自走車に無理やり押し込まれると、そのまま自治警察署にまで連行されていくことになった。
しかし、それにしたってあまりにスピード展開である。せめてもう少し話くらいは聞いてくれてもよかろうに……。