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二人は同じ木の下で

作者: なゆぬん


 少し肌寒くなって、それまでは蝉たちが独占していた空を満たすのが、鈴虫や蟋蟀(こおろぎ)の鳴き声になると、秋の訪れを感じて少し寂しい気分になる。だけれど、そんな僕をつかの間ではあるものの慰めてくれたのは空を美しく燃え上がらせる夕焼け空だった。


 どこにでもあるような堤防。そこにはいっぽんのカエデの木が佇んでいる。ここは僕にとってお気に入りの場所だった。だけど、ここに人が来ることは少ない。そもそもここらが田舎なのもあるけれど、なによりも近くに堤防に上がる階段がなくて、ここにくるには少し離れた階段をのぼってから、それなりに歩かなければいけないのが原因だった。


 それでもたまに、ここに人が来ることがある。そういう場合、大抵は失恋だとか喧嘩だとか、わけありな場合がほとんどだ。少し前にはこの木の枝に縄をかけて、首をつって自殺しちゃった人もいたらしい。まあ、人ってのは複雑な生き物だから、別におかしいことじゃないか、なんて思ったよ。僕はそんなことするべきだとは思わないけど、必死にもがいて生きて、それでも辛くて、とうとうその痛みに耐えられなくなった結果、終わりにすることを選ぶしかなかったのだとしたら、仕方ない、というか。せめて永遠の夢の中では幸せに生きていてほしい、って、そう思う。どうせこの世界で幸せになれないのなら、死後の世界ってやつか、あるいは来世ってやつに期待するのも、それなりには健全だと思うよ。



 そんなことを考えていると、遠くに人影が見えた。こちらに向かっている。ひらひらと波を打っているのはスカートだろうか。紺色の制服、たぶん高校生の女の子だ。不吉なことを考えていた直後だからすこし胸騒ぎがする。


 僕はよく、ここでわけありな人の話を聞いていた。複雑な悩みをもつ人間にアドバイスを与えてあげることなんて馬鹿な僕にはできっこないけど、話を聞くくらいならできるし、言葉にして吐き出すというだけでも、案外、気が楽になることも多いからそれなりに僕は役に立てていると思いたい。


 今にも泣きそうな顔をして、彼女は僕の前で立ち止まった。夕日の逆光を浴びて、僕に影を落とした彼女の顔は、はっきりとは見えないけれど、とてもきれいな顔立ちをしている。って、何を考えているんだ。きっと彼女は何かしらの悩みを抱えて、一人になりたくてここに来たんだろう。

 そういろいろと考えていると、彼女は僕のほうを見てゆっくりと口を開いた。


「友達と…喧嘩したの。」彼女はそう言った。

『それで、ここに来たんだね。』と僕は返した。

「ここさ、『仲直りの木』ってわりと有名なんだよ。ここにきたら仲直りできるって。」

『そんな噂が立ってたんだ…知らなかったよ。』なんかちょっと、それは面倒だな。

「よかったら、あたしの話、聞いてくれる?」彼女は涙ぐみながらそう言った。

『うん、いいよ、話してごらん。』そういうと彼女は僕の隣に座って話し始めた。


「わたしさ、いま三年生なんだけど、一年生のころ、初めて仲良くなった子がいてね。」

『うんうん。』その子と喧嘩しちゃったってパターンだろうな。

「まあ、お察しの通りさ、その子と喧嘩しちゃったってわけ。三年間ずっと仲良かったのに、もう元には戻れないほどの大喧嘩でさ、やになっちゃうよね。」彼女は寂しそうな顔をしている。


『そっか、ふたりってどうやって仲良くなったの。』

「そうそう、笑えるんだけどさ。あたし朱里(あかり)っていうの、その子は千春(ちはる)っていうんだけど、苗字がおんなじ『木下』でさ、クラスの最初の席順ってさ、名前順に決まるじゃん。それであの子が私の後ろの席でさ、苗字がおんなじきのしただね、ってそれで仲良くなったんだよね。笑えるっしょ。」

『なんというか、楽しそうだね。』それくらいしか言葉が見つからないほどには返答に困った。

「変なやつ来たなあってばかにしてるでしょ。あははっ。」

『別に馬鹿になんてしてないよ、悪くないじゃん、そういうの。』思ったことを言った。


「まあ、ばからしいけどさ、でも、ずっとそのときの会話を覚えてるくらいには、気に入ってる思い出なんだよね。」そういうと彼女の瞳から涙が一粒こぼれた。夕日をそこに閉じ込めている。

『——どうして喧嘩したの?』


「そーだそーだ、喧嘩した理由、話さなきゃね。」彼女は少しだけ真剣な顔をして言った。

「とはいえさ、あたしも正直よくわかってないんだよね。」

『え、喧嘩なんでしょ、そんなことあるかい。』そう言って、まあそういうこともあるか、とも思った。


「まあ、わかんないってのはちょっと語弊あるかもね。千春さ、あたしの悪口言ってたんだよね。クラスの他の女の子にさ。あたしそれ聞いて千春にキレてさ。お互いめちゃくちゃに言い合ってさ。」

『うわあ、それは何というか——。』

「それっきり、もう千春とは一言も話さないし、目も合わせないようになっちゃった。」

『そっか…。』

「千春と仲が悪くなっただけじゃない。あたし、仲がいい友達は千春くらいしかいないから学校じゃひとりぼっちになっちゃったし、千春があることないこと悪口言っちゃったせいであたし、性格悪いやつみたいになってんだよね。」

 何も言えなかった。正直よく理解できない世界の話だったから、何を言っても薄っぺらになる気がした。

「——ほんと、やになっちゃうよ。」震えた声の言葉を皮切りに、彼女はぼろぼろと涙をこぼしながら僕に寄りかかってきた。

「あたしさあ、わるいことしちゃったかなあ、あたし千春のことだいすきだったのにさあ。」泣きながら彼女は言う。


「なんでさあ、あたし、まだ千春とたくさん遊びたかったのに、どうせお別れも近かったのにさあ、ていうか、受験も近いのにさあ、こんなこと、ないよねえ。」体中の水分がすべて抜けてしまうような勢いで彼女は泣きじゃくりながら、かろうじて言葉を紡いでいるようだった。


 彼女はずっと、僕に寄りかかったまま泣いていた。友人に裏切られるなんてことがどれだけつらいことなのか、そんな経験をしたことのない僕には想像もつかないけれど、きっと、世界が突然真っ暗になるみたいな絶望だろう、と僕なりに解釈した。


「あたし、もう千春と一言も話さないままなのかな。」ひとしきり泣き終えた彼女はそう言った。そんなことないよ、なんて言えない。そんな根拠はどこにもない。そもそも、ほとんど一方的に被害者だし、どうしようもないのかもしれない。どうして悪口を言われていたのか、それだけが疑問だけど。

「はあ、勉強しなきゃ、共通テスト、八割はとんなきゃいけないのに。」そう、彼女には受験もあるんだ。僕にはそれが上手くいくことを願うくらいしかできなかった。

「頑張んなきゃね。つらいけど。」そういうと彼女は立ち上がった。強い人だと思った。

『うん、頑張って。でも、無理はしすぎちゃだめだよ。』そう声をかけた。

「ありがとね、話聞いてくれて、やっぱり少しだけ気が楽になるもんだね。ほんのちょっとだけどね。」実際、彼女の問題は何一つ解決していないわけだが、気が楽になったのならよかった。ほんのちょっとだけどね。


「そうだ、名前なんて言うの。」彼女は少し視線を落とす。

『僕の名前かい、ええと、楓だよ。』

「ふむふむ、カエデか、いい名前だね、なーんてね。」

『はは、まあね。』まあ、適当に言ってみただけだけど。


「ありがとね、また来るかも。」そういうと彼女は堤防をずっと遠くへ歩いていった。影が小さくなっていくのをただ見ていた。とりあえず、自殺とかじゃなくてよかったと思った。

 

 3

 

 いくつかの夜を跨いだある夕暮れ時のこと。あの日のように遠くから歩いてくる人影があった。スカートを揺らしながら近づいてくるのをみて、僕はまた朱里だろうか、と思った。けれど、距離が近づくたびに、それが別のだれかであることが分かった。


 思いつめたような顔をして、彼女は僕の前で立ち止まった。夕日の逆光を浴びて、僕に影を落とした彼女の顔は、はっきりとは見えないけれど、とてもきれいな顔立ちをしている。って、また余計なことを考えてしまった。さいきん、女子高生多いなあ、なんて思ったけれど、思えばそれは必然的なことだった。


「あのっ、友達と喧嘩しました!仲直りしたくて来ました!」随分と勢いがいいな、それに、仲直りの木のうわさ、思った以上に有名なのかもしれない。面倒だけど、まあ別に僕も暇だしいいか。

『はいよ、じゃあ、話を聞こうか。』


 彼女は僕とちょうど人一人分の間をあけて芝生の上に腰を下ろした。そして、話し始めた。

「私、友達にひどいことしちゃったんです。」こんどは加害者パターンか。というか、もしかして。

「私、悪口を、言っちゃって。それで嫌われちゃいました。」僕の中の疑念が確信に変わっていく。

『ありゃあ、確かにひどいことしちゃったかもしれないね。』でも、どうして悪口なんて。

「ほんとは別に、朱里…その友達のこと嫌いとかじゃないんです。ただ、ただ…。」

『うんうん、落ち着いて、一つずつ話してごらん。』

「ほんとに私、最低なんですけど。その子に彼氏ができたんです。遥翔(はると)くんっていうんですけど。」

『ああ、えっと、まさか——。』昼ドラ展開ってやつだろうか。


「遥翔くんのこと、私も好きだったんです。」へえ、遥翔ってやつは罪な男だね、ほんとうに。

『なるほど、それで、悪口を言っちゃったんだ。』まあ、ということだろう。

「それで私、朱里の悪口言っちゃって。べつに朱里を嫌われ者にしてやろうとか、そう思ったわけじゃなくって。でも、気づいたらそれがクラス中に広まって、あることないこと言っちゃったのに、みんな朱里のことをひどく言い出して。朱里にもばれちゃって、それでっ。」

『なるほどね、それで、君はどうしたいのさ。』彼女のほうをむいて言った。

「私は、私があることないこと悪口を言いふらしたのを朱里に正直に話して謝りたいです。それに、クラスのみんなにも、全部嘘ついてたって。だから朱里のことを悪く言わないでって。言いたいです。」

『うん。僕もそうするべきだと思うよ。』


 正直、少しほっとした。ただただ千春が最低なやつで、ただただ朱里がかわいそうな被害者だなんて、あまりにも救いようがない話だから。まだ、なんとかなりそうなもめ事でよかった。悪口はよくないけれど、千春の心の中も決して穏やかではなかったろう。


「でも、怖いです。」彼女は震えた声でぼそっとそう言った。彼女がどんな顔をしているかはよく見えなかった。

『まあ、それもそうだね。でも、話さないわけにはいかないでしょ。』

「怖いんですよ。もし、朱里が許してくれなかったら、もう私は朱里と話せないままお別れになります。卒業、近いから。」やっぱり、千春も朱里のこと、大好きなんだと思う。

『でも、それならなおさら伝えてみなきゃ。』

「それだけじゃないです。もし私が誤解を解くためにクラスのみんなにこのことを打ち明けたら、こんどはきっと私がみんなから悪口を言われる側になる。だから…怖くて。」まあ、怖いってのはおおかたそういうことだろうと思った。


「普通に考えて、いまさら自分の護身のこととか考えてんの、最低ですよね、くずですよね。朱里だって今も、みんなにいろいろ言われて苦しいはずなのに。私が苦しむのなんて当たり前なのに。」そこまで言い終えて、彼女は堪えていた涙が溢れ出したようだった。


「怖い、怖い、居場所がなくなっちゃうかもしれないです。」


 僕は、別に彼女を最低だとは、くずだとは思わなかった。悪口を言ったことは本当に、ただただ悪いけれど、自分が傷つくのが怖くてたまらないのもまた、ただただ仕方のないことだから。


『君が怖いっていう気持ちもよくわかるよ。べつにそれは、君が自己中心的なくずだからじゃないよ。』思ったことをそのまま言った。

「でも、とりあえず朱里には伝えようと思います。私がしたこと、思ってることのすべてを。」

『遥翔くんのことも?』…少し意地悪なことを言ってしまったかもしれない、と後悔したが。

「…遥翔くんのことも。ぜんぶ、言います。」そう彼女は言った。


『そう。君はやっぱりいい子だね。きっとうまくいくはずだよ。』だって朱里は千春のことをちゃんと好きだから。きっとわかってくれるだろう。

「朱里は高校で初めての友達なんです。」それはもう知っているけれど。

「一年生のころ、朱里とは席が隣同士で、隣って言っても前後なんですけど、それで、二人とも名字が『木下』だねって言って、それで仲良くなったのを覚えてます。くだらないですけど、私の大切な思い出なんです。」君もその話をするんだ、といいかけて慌ててやめた。彼女もここに来たことは伝えないほうがいいだろうから。でも、ほんとうに気の合う友達なんだろうと思った。


『それは、いい思い出だね。』

「大切な思い出だから、悪い思い出にしたくないんです。」彼女はそういうと立ち上がった。


「話聞いてくれてありがとうございます。私、仲直りします。約束します。」

『わかった、約束ね。』


 彼女は僕に向かって深く礼をして、そのまま踵を返して遠くへと歩いて行った。ここに歩いてきた時よりもずっと軽い足取りで歩いているように見えた。軽くて、確かな足取りだった。


『きっとうまくいくさ、大丈夫。』



 4


 次の日、いつものように夕焼けを眺めていると、遠くにふたつの影が見えた。僕はすぐにそれが朱里と千春であることに気付いた。彼女ら一言も言葉を交わさずこちらに歩いてくる。どうやら、仲直り後、というわけではないらしい。これから仲直り、ということだろうか。


 二人は僕の前を数歩通り過ぎて、少しだけ離れたところに座った。よく考えたら、なぜ仲直りをここでしようとしたのか甚だ疑問だ。とても居心地悪いったらありゃしない。まあ、僕だってこのふたりを見守っていた立場ではあるわけだし、そのゆくすえを最後まで見届けるべきか。


「あのさ、朱里。」先に沈黙を破ったのは千春だった。

「なんで呼ばれたかくらいわかってるから、本題からでいいよ。」あれは、怒ってる…のかな。

「ごめんなさい。私、朱里が遥翔くんと付き合ったのが気に食わなくて悪口言っちゃった。」言った。

「へっ、は、はるとが何!?」まあ、そういう反応になるよな、心当たりなかったみたいだし。

「あの、だから、私も遥翔くんが好きだったの!でもあんたが付き合っちゃって、私も好きだったってことも知らずに私の前でめっちゃいちゃいちゃしてさあ!それでムカついて…ひどいこと、しちゃった。ごめんなさい。」なんていうか、感情の起伏が激しくない?

「あー、そういうことね、まあ、それじゃあ、あれか、一概に全部千春が悪いとも言えないか。」

「いや、どう考えても私が100悪いよ!」まあ、うーん、それはそうかも。

「だから、そのさ、私のせいで朱里、悪口いわれるようになって。」千春はぐっと涙をこらえて言葉を紡ぐ。彼女なりに、いまは、私が泣いていい時ではないと、そう思ったのだろう。

「あー、それは別に、正直、ほかの子たちに悪口言われてるのより、あんたに言われてたってのが一番傷ついたから。」本心、なのだろうか。

「——本当に、ごめんなさい。」


「うん、ありがとう、正直に話してくれて。あたし——。」そこまで言いかけた時、千春がかぶせるように口を開いた。

「だから、私!みんなに言おうと思うの、このこと全部!それで朱里への誤解っていうか、そういうの解こうと思う。」それも約束しちゃうのか。

「え、いやいや、やめてよ!そんなことしたらあんたが次いろいろ言われるよ。あたしあんたさえ友達でいてくれたら、べつに悪口言われようと気にしないし、どうせ飽きるでしょ、ただでさえ受験シーズンでみんなそんな暇なくなるだろうし。」朱里は本当にやさしい子なのだろう。

「だめ!そんなの、朱里だけ苦しい思いしてさ、私だけ、私だけ何の苦しみもなしに仲直りなんて許されるわけないじゃん!」

「あたし、べつに千春に苦しんでほしいなんて思ってない!」

「でも…っ。」


「——わかった。じゃあさ、あたしも一緒に謝ってあげるからさ、それで…いいかな。」

「——ありがとう、朱里…っ!」そう言って、千春は朱里に抱きついた。とうとう、せき止めていた涙が溢れ出したようだった。

「千春、大丈夫だよ、あたしたち友達じゃん。」致死量の青春が夕日をより輝かせている。

「あと、遥翔のことは別に言わなくてもいいっていうか…言わないほうがいいと思うよ。気まずいし。」 

とりあえず、仲直りは成功ってことでいいのかな。


 それから二人は、受験に追い詰められていることや、お互い「仲直りの木」に訪れたこと、駅前のカフェのアイスクリームが死ぬほど美味しいということ、それからいくつかの噂話。仲良く話す二人の姿を見ていると、暖かい気持ちになったけれど、どこか少し寂しくもなった。


「——でも、もうあたしたち卒業なんだね。」

「そうだね、大学も違うし、あんまり会えなくなっちゃうね。」

「ま、定期的に会って遊ぼうよ。」

「へへ、そうだね。」


 少しずつ、オレンジ色の空は地平線に吸い込まれ、深い紺色の(とばり)が落ちてくる。

「うう、寒くなってきたよね。」

「ねー。もうほぼ冬ってかんじ。」

「…そろそろ帰ろっか。」

「そうだね、帰ろうか。」


 そういって二人は立ち上がった。よろけた千春の手を朱里が握った。きっと二人はこれから訪れる困難を超えていけるだろう。寒い冬だって、手をつなげば暖かいから。


 それから、朱里は僕のほうを振り返って言った。

「——ありがとね、カエデ。」

「カエデ? カエデって?」


「『仲直りの木』の名前だよ。ほら、そこの木の下、札が刺さってるでしょ。」

「ほんとだ。」千春は少し視線を落とす。


カエデ (ムクロジ科)


主に北半球の温帯に分布するムクロジ科カエデ属の落葉高木の総称。

葉には特徴的な切れ込みがあり、切れ込みが深いものをモミジという。

カエデという名前はその葉の形がカエルの手に似ていることから。

花言葉は「美しい変化」「大切な思い出」


 「仲直りの木」はすっかり紅く染まり、夕日が沈んで暗くなった夜の中で、唯一、月明りを浴びて鮮烈に燃えているようだった。


「カエデ、きれいだね。」

「うん。」


 二人は言葉を交わすことなく、その美しい景色と親友の姿が決して忘れられぬ思い出になるように瞳に焼き付けていた。


「じゃ、行こ。」二人はお互いの手を固く握りなおした。


 もう二度と離れてしまうことがないように。

 これから訪れる冬の中で、そのぬくもりを目印に、いつでもあなたがいることを忘れぬように。


『暗いから気をつけて帰るんだよ、仲良くしなよ。』カエデの葉は優しく揺れる。

『なんて、まあ聞こえていたわけもないか。』カエデの葉は夜風に揺れる。

『はじめから、ね。』それでも確かに、僕は誰もが一人にならないことを願っていた。


「またね、カエデ。」二人は僕に手を振って、遠く遠く夜へ溶けていった。


 5


「楓、寒いでしょ、あっためてあげる。」そう言って、彼女は僕に抱きついてきた。

「まあ、君がそうして傍にいてくれれば心はぽかぽかさ。」彼女の体温が伝わってくる。


 冷たい空気が満たす冬の堤防。日の光が当たっている部分こそ少しは暖かいけれど、風が吹くと凍えてしまいそうになるような昼下がり。


「ひゃあ、さっむい。」彼女はコートを握りしめて固まった。

「ほんとうにね。」僕はただぶるぶる震える彼女を愛おしく思った。


「——もう、六年も経つんだね。」

「へえ、もうそんなに経ったんだ、君も僕によく飽きないねえ。」

「わたしにとって唯一の()()()()だもの。」

「だありん、ねえ。」


 彼女は顔を下げる。


「——なのに。」


 彼女は細かく震えている。温めてあげたい。


「——なんで、あなたが一人で苦しんでいたことにさえ、気づけなかったんだろう。」


 でも、もう生きていない僕にはそれすらできない。


「——ごめんね、楓。」


 もう、僕の言葉さえ、彼女には届かない。


「——あなたを一人にしてしまった私を、どうか、許してください。」


 もう、怒ってないし、もとから、怒ってなんかないし。

 だから、謝るのなんてやめて——。


「——謝るのなんてやめて、楽しい話でもしようよ。なんて、あなたならきっと言うでしょうね。ふふ。そうね、楽しい話しよっか。」



 少し夢を見ていたみたいだ。冬が来ると、妻のことを思い出して、夢に見てしまう。数年前までは、仕事のお昼休みの時間を使って僕に会いに来てくれていたのだけれど、ある日を境に彼女が僕のもとを訪れることはなくなった。彼女がどうなったのか、僕には知る手段がない。ひょっとしたらほかに恋人を見つけて再婚でもしたのかもしれないが、先に彼女を置いて消えてしまったのは僕だから、文句が言えた立場でもない。

今はただ、時折訪れる人々の独白を聞くことだけが、僕が人のぬくもりを感じる唯一の手段だった。

少し寂しいけれど、これはこれで、そこまで悪くない日々だ。


遠くから人影が近づいてくる。あれは…走ってるな。制服から推察するに、男子高校生か。

「山内遥翔です!彼女と喧嘩しました!仲直りお願いします!」ああ、君が。

 そう言ったかと思うと彼は突然僕に、つまり、カエデの木の幹に抱きついた。

「よし、これでいいんだよな、よし、もう一度謝りに行こう。」

 彼はそう言うと僕に向かって一礼して、走り去っていった。


 ああ、本当に面倒だ。噂というやつは、どうしてこうも変な尾びれがつくのだろうか。仲直りにおいて大切なのは素直さ、ただそれだけなのにね。


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