第二話 「すべての兵士の背嚢に元帥杖が隠されている」後編
ナブリオーネと軍人になる約束を交わしてカロリーナは自分の家へ帰った。住んでいるのは四階建てのアパートの四階で、あちこちヒビが入っている。扉がギイギイ音を立てて帰って来たカロリーナを迎え入れた。
「こんな夜中まで、どこに行ってたんだい」
部屋に入るなり、不機嫌そうな声で老婆が声をかけた。アパートの家主、ロアン夫人である。
「いえ、その……」
「その服は? フン。ドレスがあるんなら、質に入れて家賃を払いなよ。着ていく先もないくせに」
カロリーナは屋敷を追い出されてからというもの、このロアン夫人の世話になっていた。最初は不幸な身の内を心配してくれていたが、家賃の支払いが滞るにつれて今ではすっかり不愛想になっていた。
「すみません。きっと返しますから……」
「なんだいその目つきは。アタシは家賃もロクに払わないアンタを住ませてやってるばかりか、この前死んだアンタの付き人の葬式代まで出してやったんだよ。聖母だってこんなに優しくはないさ。それなのにアンタと来たらとんだ恩知らずだ……」
「申し訳ありません」
カロリーナは短く言うと、部屋にある梯子を登って行った。彼女が住んでいるのは正確にはアパートの四階の屋根裏だった。
屋根裏は埃っぽかった。
「帰りました。お嬢様……」
かび臭いベッドに腰かけたカロリーナは首から下げているロケット・ペンダントを開く。そこには小さな肖像画と金髪が収まっている。肖像画に描かれているのは、大きな赤い瞳と、綺麗な金髪を持った少女だった。
ソワン伯爵カロリーナとは、その肖像画に描かれている人物であり、既にこの世にはいなかった。思い出すと辛く、涙があふれてきて、やがて緊張の反動が出てカロリーナは夢の中へと落ちていった。
◆
気づいた時、カロリーナは部屋の隅に立っていた。目の前には二人の人間がいる。カロリーナはすぐにこれが夢の中だということにも気づいた。自分は夢を見ている。二日前の、あの日の事を。
「アンヌ、私の最期の言葉をよく聞いて」
ベッドに寝ている少女が言う。美しく、大きな赤い瞳と金の髪を持った少女。
「お嬢様、気弱なことを仰らないで。きっとよくなりますから」
その傍で、大きな赤い瞳一杯に涙を浮かべている少女がいる。ベッドで寝ている少女と同じぐらい美しい金色の髪。
ソワン伯爵カロリーナと、その召使のアンヌ。二人は一緒に屋敷から逃げ出して、このアパートに隠れていた。しかし、カロリーナの身体は貧しい暮らしに耐えることができず、飢えと肺をむしばむ病が彼女の命の灯を吹き消そうとしていた。
「いいえ。自分の身体の事は自分がよくわかるの。私はもうすぐ、お父様とお母さまのところに行く。その前にアンヌ、貴女に伝えなければいけないことが……」
「カロリーヌ様……」
「私たちはお屋敷で、一緒に暮らしたわ」
「はい。伯爵様もお嬢様も、父親のいない私と私の母のことを家族のように大切にしてくださいました」
「ええ。一緒にピクニックにも、狩りにも出かけたわね。でも、それには訳があるの、お父様があなたに優しくしていたのには理由が……」
「それは?」
「あなたの父は、私の父なの……」
「それは……つまり……」
「ごめんなさい。私の父は、あなたのお母さんに酷いことを……」
ソワン伯爵とメイドの間に生まれた子供、それがアンヌだった。伯爵はそのことを秘密にするのと引き換えにアンヌの母親とアンヌを養っていたのだった。そうとは知らないアンヌは伯爵の娘カロリーナの親友になり、姉妹も同然に可愛がられてきた。
「お嬢様……それは……!」
「許して、アンヌ」
「お嬢様は何も悪くありません。お嬢様は、私にとても優しくしてくださいました」
「ありがとう。アンヌ。……私の最期のわがままを聞いてくださるかしら、とても酷いことを言う私を……」
「はい。お嬢様。私は一生お嬢様についていきます」
「アンヌ、あなたは今日から、ソワン伯爵カロリーナ。あなたの身体には、ソワン伯爵家の血が流れている。どうか、私の代わりに伯爵家を継いで、私の義務を……」
「カロリーヌ様、私にはそんな……カロリーヌ様!」
返事が返ってくることはなかった。
◆
「カロリーヌ様!」
カロリーヌは自分の声で目を覚ました。瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。
「カロリーヌ様……私は必ずやり遂げます。ソワン伯爵カロリーヌとして、必ず家を復興してみせます!」