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暁の墓標  作者: 摩莉花
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 翌朝、大月は二日酔いの様子もなく、普段と変わらない姿を見せた。そして食堂の張り紙を見た大月が、食事をしていた西田に、にやりと笑いかけ、西田は答える代わりにうなずいた。

 その日も訓練と楽器の練習で慌ただしく過ぎ、やがて演奏をするように指定された九日となった。

 前日の日暮れから降り始めた雨は勢いを増し、止む様子もない。雨で飛行訓練が出来ない日は、敵艦の識別演習や体力づくりにあてられるのだが、それも早めに切り上げられ、午後には講堂に席が設けられた。

 玄関で岡崎先生たちをひとり待っていた西田に、阿部大尉が声をかける。

「ひどい日になったな」

「はい」

 そして、ささやいた。

「本当なら、明日、第二神剣隊が出撃のはずだったが、悪天候で中止だ」

 西田の顔が、こわばる。

「しっかりやれよ。なんか、手伝うことはないか?」

「とんでもありません。十分です」

 いくら気さくな上官といえども、そんな真似はできない。あとで他の上官から叱られてしまう。

 そこへ江崎と木村がきた。

 西田は、ほっとした。彼等の楽器は、ハーモニカとアコーディオンで学校から借りることになっている。

 やがて先生たちが、楽器を持ってやってきた。手を貸して、荷物を控えの部屋に運び、準備を整える。

 講堂の壇の脇から会場を見ると、下には百人近い兵士がすでに座って待っていた。後ろの方に各隊の隊長たちも並んでいる。

 これは兵士たちによく聞いてもらえるように、西田が阿部大尉を通じて頼んだものだった。

「久しぶりに、緊張するわ」

 そう言いながらも、岡崎先生は嬉しそうだ。

 いつもお下げに編んでいる長い髪をほどいて垂らし、白のブラウスに紺色のタイトスカートといった清楚な姿をしている。一方、正嗣氏と校長先生は、地味な国防服を着ていた。

 西田たちが壇上に並んだとき、ざわめきが起こった。兵士たちは岡崎先生の姿を見て、郷里の姉や妹を思い出したようだった。

 校長先生が挨拶をする。

「よっ、木村ァ。江崎ッ」

「西田ァ」

「がんばれよッ」

 拍手と共に、声が飛ぶ。まるで演芸会だった。

 一曲め。江崎一飛曹がアコーディオンで、『琵琶湖周航の歌』を演奏した。これは三高の寮歌でもあり、アコーディオンにあわせて歌い出す兵士もいた。四本の弦楽器は、静かに伴奏をしている。

 西田は、弓を持つ右手に白い包帯をしていたが、演奏には支障がないようだった。

 その曲の途中、稲垣中将と高井参謀が、そっと後ろから入って来た。慌てて立ち上がった士官たちを無言で制止し、中将は用意された椅子に座った。

 次は、木村飛兵長のハーモニカで、彼は『埴生の宿』を独奏した。

 兵士たちの一部が歌っている。だが、高井中佐は顔色を変え、腰を浮かした。

 しかし、中将に軽く腕を押さえられて、たしなめられると、席をけってその場を出て行った。

「元は、外国の曲だ」

 大月の後ろに座っていた阿部大尉が、耳元でこっそりと言う。

 やるな……。

 大月は、壇上の西田を改めて見た。

 度胸をつけやがって……。

 そして三曲めは、岡崎先生がヴァイオリンを椅子に置いて立ち上がり、前に進み出ると、アコーディオンとハーモニカの伴奏で『おぼろ月夜』を歌った。

 柔らかな、包み込むような歌い方に、情景が浮かんでくる。

 曲が終わり、湧き起こる拍手に対して先生は、にっこり笑って頭を下げた。

 続いて、ハーモニカが『故郷』のフレーズを演奏し始め、アコーディオンが加わり、弦楽器もそれを追うかのように奏で始めた。兵士たちの間から、湧き上がるように歌声が流れ出す。

『……うさぎ追いしかの山

   小鮒つりしかの川……』

 そして二番の歌詞からは、岡崎先生も歌い、全員が合唱して三番まで演奏は続いた。

『……こころざしを果たして

   いつの日にか 帰らん

   山はあおき ふるさと

   水は清き ふるさと……』

 やがて伴奏の楽器の音が消え、歌が終わったときには、多くの兵士たちが泣いていた。

 もはや二度と帰ることのない故郷の風景と、両親や兄弟そして友人のことを思い起こしたのだろう。

 後ろに居並ぶ士官たちにも、声はなかった。

 岡崎先生が涙をこらえながら席につき、ヴァイオリンを構える。江崎と木村が壇を降りて椅子に座ると、ざわめきもおさまってきた。

 校長先生が立って、

「パッヘルベルの『カノン』であります」

 と、曲名を告げる。

 西田がそのとき、ちらりと大月の方を見た。

 大月は、

 聞いているぞ、

 と、うなずいた。

 セロの弦が震え、『カノン』が始まる。

 この四重奏は、専門の演奏家からみれば、技術は未熟で解釈も稚拙かもしれない。けれども、四人とも真剣に、心を込めて弾いていた。

 そして、伏し目がちに一心に演奏している西田を見て、大月はその表情をどこかで見たように思った。

 ああ、そうだ……。大学のとき、友人に連れられて行った教会聖堂のマリア像だ――。

 そこにいつものおとなしくて気弱な西田はいず、自信に満ちあふれ、その精神の清浄さを音に表現する、大月の知らない彼がいた。

 やがて四本の弦は、響き合い、重なり、また絡み合いながら、徐々に高みへと昇っていく。

 そして最後の音が天上へ抜け、ゆっくりと響きが消えた。

 一瞬の静寂のあと、拍手が起こる。

 壇上の四人は、立ち上がって頭を下げた。

 稲垣中将も、手を叩いている。

 四人は何度も礼をし、そして楽器を持って退場した。

「いやあ、いい演奏でした」

 校長先生が戻ってきた控え室で、噛みしめるように言った。

「僕もここまで出来るとは、思いませんでした」

 正嗣氏が、ヴィオラをしみじみ眺めている。

「あら、まるで他人事のような言い方ね」

 晴れやかな笑顔を見せて、岡崎先生が言う。

「本当にそうなんだ。こんなにやれるとは思わなかった」

 と、正嗣氏。

 そんな会話を聞きながら、西田は黙ってセロの手入れをし、ケースに納めた。

「あの、今日は……いえ、今まで本当に、ありがとうございました」

 彼は万感の想いを込め、礼を言った。

「いえ、いいんですよ」

 校長先生が、優しく言う。

「僕は……」

 正嗣氏が、不自由な足を引きずって近寄ってきた。

「僕は、戦地から戻ってきてから、気がくじけていました。でも、この演奏をすることで、生きる張り合いが出来ました」

 そして、ぎゅっと西田の手を握った。

「……礼を言うのは、僕の方です」

「わたくしも、そうですわ」

 岡崎先生が横に来る。

「学校を出ても、自分が学んだ音楽を生かす道を見つけることができずに、腐っておりましたの。でも……」

 岡崎先生は目に涙をため、すんと鼻をすすった。

「わかったような、気がします」

 そこへ、江崎と木村が荷物運びを手伝おうと、入ってきた。

「ありがとう」

 先生は西田と握手をし、江崎と木村にも同様にした。

「お元気で。……でも、泣くなんて。だめね」

 と、自分のヴァイオリンを持って、廊下へ出ていってしまった。

 校長先生と正嗣氏は、泣きそうな顔で「万歳」を三唱した。

 西田たち三人は、起立の姿勢をとり、それを聞く。

 それから先生たちは、降りしきる雨の中を帰っていったのだった。






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