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その三日後、大月は阿部大尉とともに稲垣中将の執務室へ入った。どっしりとした大きな黒檀の机の向こうに中将が座り、その傍らには高井中佐が立っている。
「阿部大尉、閣下はお忙しい身だ。用件は手短に済ませたまえ」
敬礼したふたりに、中佐がいう。
「はっ。本日伺いましたのは、西田一等飛行兵曹に音楽演奏の許可をいただきたく……」
「阿部っ。貴様、そんなことで」
中佐が怒鳴って、詰め寄ろうとする。
「高井君、話くらい聞いてやりなさい」
すると横から稲垣中将が制止した。しかし、その険しい表情からは、好意的ではないように感じられる。
中将は色黒で頬骨が高く、一見農家の老爺のような素朴な容貌をしているが、気難しいという評判の人物だった。事実、側近の参謀たちをよく叱るということが、下士官たちの間で噂になっていた。
「……ありがとうございます。我が隊の西田一等飛行兵曹は音楽大学の出身で、かねてから出撃前に自分の専門であったセロを弾きたいと願っておりました。村に出入りしていますのは、その練習のためであります。けして、お聞きになったような醜聞はございません」
阿部大尉がいう。
「たとえ、そうであったとしても……」
高井中佐が、厳しい表情で反論した。
「……思慮が足りなかったな。噂をたてられた婦人が迷惑だろう。だいたい西田一飛曹だけでない、他の連中もそうだが特攻にいくというだけで、特別扱いされて当然と思っていないか? おまえたちは一億総特攻のさきがけなのだ。みなが後に続く」
「それは、そうでありましょうが……」
「ここは軍隊だ。なによりも規律を重んじる。ましてや敵が本土上空をたびたび侵し、一般に被害が出ているというこの緊急時に、何を甘ったれたことをいっているのだ。おまえたちに詳しい話はしていないが、沖縄に米軍が上陸し、国防圏が危うくなっておる。そして本日は航空兵力挙げての総攻撃が開始されて、今現在、仲間たちが戦っているのだ」
そこで中佐は、天を仰いだ。
「明治以来、東アジアで唯一の独立国であり、欧米と堂々と互してきた我が国が、この戦いに負ければ、植民地になってしまうかもしれないのだぞ。民族の尊厳も伝統も、すべてが壊滅してしまうのだ。同盟国とはいえ、独逸が侵攻した国々を見よ。国民は虐殺されるか奴隷状態に置かれるか、だ。敗戦とは、そういうものなのだ。それなのに、貴様らは……」
彼は、ぎりっと歯噛みをした。
「それに西田一飛曹だけを特別扱いにしたら、士気にもかかわる。民間人と頻繁に接触しているということで、他にも里心がついて動揺するやつが出たら、どうする」
「しかしッ」
阿部大尉の左後ろに立っていた大月が、一歩前に進み出た。
「なんだァ、貴様はッ」
「はっ、神剣隊所属の大月であります」
彼は敬礼し、中将の目を真っ直ぐに見つめた。
理は中佐にある。けれども、ここで引き下がるわけにはいかなかった。阿部大尉ともども、叱責必罰は覚悟の上だった。
「西田一等飛行兵曹にとっては、一生の大事であります。聞くところによれば、織田信長が幸若舞をひとさし舞って桶狭間の奇襲攻撃に赴いた古事もあり、歌舞音曲がいちがいに軽佻浮薄なものとは申せません。もとより、この命を御国のために捧げるのに否やはありませんが……」
そこで大月は一呼吸おき、精一杯の願いと気迫を込めて、噛みつかんばかりに叫んだ。
「……閣下、武士の情けでありますッ」
そして、深々と頭を下げた。
それだけかよ、
と、阿部大尉が気をそがれたように、大月を見る。
そのとき、
「よかろう」
稲垣中将が、静かにいった。その目がふっと、和らいでいる。
「閣下ッ」
「高井君」
中将は、かすかに笑みを浮かべた。
「彼等は、君のいうように先駆けだ。わたしも、いずれ出る」
「それは……」
「だから、想いの残らないよう配慮してやりなさい。村人との接触が頻繁で問題というなら、その人たちの慰問に参加という形で、練習の成果を見せてもらおうではないか。……阿部大尉」
「はっ」
中将がふたりに向き直った。
「存分にやるようにと、その西田という若者に伝えなさい」
「お言葉、感謝いたしますッ」
阿部大尉と大月は、礼をいい、最敬礼をして、そこを出た。
大月がドアを閉めかけたとき、
「わたしを、木石とお思いですかっ」
という、高井中佐の声がもれ聞こえてきた。
「おい」
大尉が肩をたたく。
振り返ると、苦笑いをしている。
最後にちらりと見えた中佐は、目元を赤くしていた。
大月は執務室のドアをそっと閉め、複雑な気持ちで、そこを立ち去った。
翌日の訓練の終わりに、西田は阿部大尉から、彼の行動が問題となっていたことと、大月少尉がそれを弁明した経緯の説明を受けた。
「だから、おまえは今までどおりにしていていいのだが、閣下が四月九日に練習の成果を見たいとおっしゃって、講堂での演奏を望んでおられる。出来るか?」
「明後日ですか……。わかりました」
そして、大尉がそこを離れると、同じ部屋の仲間が、わっと寄ってきた。
「西田、演奏会やるのか?」
斉藤がいう。
「なあ、どんな曲やるんだ?」
同期の塚原も、たたみかけるように声をかける。
「えーっと、その……」
こいつらには『カノン』だけじゃ、つまらないだろうな……。
そう考えて言いよどんでいたとき、彼は名案を思いついた。
目で大尉を探すと、大月少尉と話をしている。そして大月が阿部大尉のそばを離れたのを見計らい、彼は近寄っていって、自分の考えをいった。
「ふむ」
阿部大尉は少し頭をかしげたが、
「聞いておいてやる」
と答え、にっと笑った。
それから西田は礼をいおうと、大月の姿を探したが、見つからなかった。
夕食のあと、部屋に阿部大尉が訪ねてき、西田の申し出に許可が下りたことを伝えてくれた。
彼はさっそく張り紙を作り、それを食堂のよく見えるところに貼った。
それには演奏会の日時に加え、
「楽器を演奏できる者、飛び入り参加募集」
と、書かれてあった。
大月さんなら、きっとこうするだろう……。
と、彼は思った。
明日の自由時間は特別な外出許可も下りている。岡崎先生たちに、即興演奏が出来るか聞いてみよう……。
彼は他にもいくつか簡単な曲をやるつもりだった。
そして大月の部屋に行ったのだが、そこに彼はいなかった。
兵舎をひと回り探して、自分の部屋に戻ると、他の隊の江崎一等飛行兵曹と木村飛行兵長という、二人の若者が、張り紙を見て、さっそく応募してきていた。
彼はふたりと打ち合わせをし、阿部大尉に彼等にも外出許可が出るか聞き、その了承を得た。そして、その都度、誰彼となく大月の居場所を尋ねたのだが、誰も知らなかった。
そのうちに、消灯時間が迫ってきた。
あとは、あそこかな……。
西田は外に出た。そして少し離れたところにある、飛行場へ向かった。
しばらく歩いて、後ろを振り返る。
灯火管制が敷かれ、光が外に漏れないようにされているため、木造二階建ての兵舎は黒々と闇の中に沈んで見えた。
明日から天気が悪くなるのか、夜空の欠けた月には暈がかかって、ぼんやりとした光を地上に投げかけている。
飛行場に行き着くと、滑走路脇には艦上爆撃機『慧星』や零戦が覆いをかけられて、静かに並んでいた。
しかしそこにも人影はなく、西田は月明かりを頼りにあたりを見回した。すると、大きな作業小屋に模した整備工場に目が留まった。そこの戸が少し開いている。
近寄って、中をのぞき込むと、
「だれだ」
誰何の声がした。
頭上の裸電球を一つだけつけて、整備中の愛機『慧星』を前に、大月少尉がこちらに背を向けて座っていた。
「西田です」
「何の用だ」
「少尉どのに、お礼を申し上げようと……参りました」
そう言いながらそばに行き、前に回って見たところ、大月は一升瓶を抱え、茶碗酒をあおって、酒盛りをしていた。
「少尉どのは、何を……」
「祝い酒だ。おまえも飲むか?」
「いただきます」
ひざまずいて差し出された茶碗を受け取り、そこに注がれた酒を一気にあおったとたん、西田は咳込んだ。
それは、近在の農家が闇で作っている芋焼酎で、悪酔いするために「爆弾」と基地の兵士たちに呼ばれているものだった。
どこから、こんなものを……。
西田は、あきれた。
初め会ったとき、ちょっとおもしろそうで頼りがいのある上官だと思ったけど、これでけっこう世話が焼けるかも……。
悪意でなく、そう感じた。
その西田の手から茶碗を取り戻し、大月は再び焼酎を注いで水でも飲むように、口から流し込んでいる。
「あの……何が、あったのですか?」
とても『祝い』などという雰囲気ではない大月の様子に、西田は恐る恐る訊いた。
「おまえが来る前に、俺と同室だった山本という奴が、戦死した。昨日、戦艦『大和』の水上特攻に先駆けて出撃してな。故郷の家では特攻戦死の旗が立てられ、親は涙をこらえて祝辞を述べる客に頭を下げているだろう。やつは覚悟を決めていたから、俺も笑って送ったが……」
大月は茶碗を置き、一升瓶からじかに焼酎を飲み出した。
「山本は、物事のよく見えるやつだった。あいつは死ぬより生きていた方が、どれほど御国のために役立ったか。俺は単純な男でな。命と引き換えに国を護れと言われれば、多少の疑問を感じても、そうかと命令に従うだけだが、やつはこの戦争の行く末と、その後の国の将来を考えていた。この戦争は、負ける。そして俺たちの死は、民族の誇りにもつながる、と……。決死の戦いで、国民の何分の一かが死ねば、米英は恐れをなして日本から去っていくかもしれない、もしくは講和のときに少しでも有利な条件を引き出せる……。そう、言っていた」
「少尉どの……」
西田も、この戦が勝てるとは思っていない。特攻は無駄死にかもしれない、とも感じている。けれども、それはこういう時代に生まれてきた運命だと、あきらめていた。そして彼は、少し悲しかった。山本という人物をよくは知らないが、大月をこれほど嘆かせるとは。
嫉妬にも似た感情が湧き起こり、彼はすぐにそれを押し殺した。
「もちろん、俺もあとから行くさ。だがな……」
虚空を睨んだ大月の目が、すわっている。
「『一億総特攻』だと? 確かに大日本帝国憲法には、天皇の絶対不可侵と統治権が明記されている。しかし、天皇とその周辺の人間、政治家や軍部のお偉いさん達が生き残り、国民がみんな死んじまって、どこに国があるというんだ? いつだって、泣きを見るのは、金も力もない大勢の、普通に生きている人間なんだ。誰だって、本当は死にたくない、生きていたいさ。戦うより、家族と平和に暮らすほうがいいに決まっている……」
大月が怒りのあまり立ち上がり、一升瓶を飛行機に向けて振り上げた。
「くそうっ。……大本営は、何を考えている。どうして、こんな戦争を始めたんだッ」
「少尉どの……大月さん、やめてくださいッ」
暴れる大月を、西田が止めようとし、ふたりがもみ合う。
ガチャン、
と、瓶が落ちて割れた。
「ちくしょうッ」
大月が叫び、その瞳に凶暴な光が走る。
殴られる……。
西田が思い、身を縮こまらせたとき、大月は振り上げた手を下ろし、彼をきつく抱きしめた。
西田は一瞬、あっけにとられ、何が起こったのか、わからなかった。
「……頭を冷やしてくる」
しかし、すぐに大月は西田から腕を離し、背を向けると歩き出した。
工場から外に出た大月は、建物の脇にあるポンプ式の井戸から水を汲み上げ、頭からそれをかぶった。
ざまあねえ……。
西田にあんな姿を見られてしまった。
後ろに人の気配がしたので振り返ると、西田が間の悪そうな顔ををして立っている。
「あの……瓶の始末して、電気消しときましたから……」
「すまない……」
そのとき、かすかに血の匂いがした。
「おい、西田。おまえ……怪我をしたのか?」
「あ、いえ……」
「見せてみろ」
逃げ腰の西田に近寄って、強引に腕をつかんで調べてみれば、右の手のひらが真っ赤だった。
「こいつは、ひどい」
大月は彼を井戸の所まで引っ張ってき、傷を洗った。そして月明かりでそれを詳細に見て、傷口に顔を近づけ、それを吸い、血を吐き出した。
西田の背筋には、これまで感じたことのない甘さを伴った戦慄が走る。
「あ……あの……少尉どの……」
「これで、破片は入ってないと思うがな、あとで救護室へ行って消毒してもらえ」
大月はそう言いながら、自分の腰に下げていた手ぬぐいを裂いて、西田の手に巻いた。
「……面倒をかけて、すまなかった」
「いえ……」
それからふたりは、無言のまま夜道を歩いた。
西田はその間、何故か胸が躍り、ひどく浮き浮きとした気分だった。そして、消灯間際に自分の部屋へ帰ってから、かばってくれたことの礼を、大月に言っていないのに気づいたのだった。