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暁の墓標  作者: 摩莉花
3/7

 そして三月も半ばとなった頃、東京から慰問団がやってきた。有名な女性歌手とそのバックバンドだった。彼らは兵舎の講堂で、一般に禁止されているブルースやシャンソンを演奏し、また流行歌をうたって、兵士たちから喝采を浴びた。

 彼らの慰問が終わり、楽屋に使っている部屋の前を大月が通りかかったとき、半開きになった戸の向こうに西田の後ろ姿が見えた。

 足を止めて中をのぞき込むと、彼は椅子に座って楽団のセロを抱えていた。

「おい、なにやってる」

 大月が声をかけると、西田が驚いて振り向き、かたわらにいた初老の楽団員もびっくりした顔を向けた。

「ああ、少尉どの」

 西田は立ち上がり、セロを楽団員に返した。

「未練ですね」

「そうか……おまえ、この楽器を弾いていたんだったな」

 大月は、以前に彼が自分のことをセロ弾きだといったことを思い出した。

「おれは洋楽のことはさっぱりわからんが……触ってもいいか?」

 大月の申し出に、楽団員は快くうなずいた。

 彼はぎこちない仕種で、右手でそれを支え、弦を指で弾いた。

「ふうーん、こういうのだったのか。西田がこれを弾くのを一度聞いてみたかったな」

 大月がそういうと、西田は目を大きく見開き、そして寂しげに微笑んだ。

「自分も、今そう思いました」

 そのとき、

「貴様ら、そこで何を油売っているッ」

 廊下から怒鳴られた。

 大月も西田も、思わず不動の姿勢をとる。

 目の前に、険しい顔をした参謀の高井中佐が立っていた。

「余興は終わりだ。平常の勤務に戻れ」

 ふたりは最敬礼をして、急いでその場から立ち去った。

 それを一瞥し、中佐は慰問団の人々に向き合った。

「あなた方も、ご苦労だった。兵たちがずいぶんと喜んでいた。しかし、あんな曲ばかりやっていると、そのうち特高に引っ張られるぞ」

 高井中佐は三十前の若さだが、兵学校出のエリートで骨の髄まで大日本帝国の軍人だった。

「ご忠告、いたみいりますわ」

 澄んだ誇り高い声が、それに答える。

 奥で一部始終を見ていた歌姫は、その美しい顔を赤く怒らせ、気丈にも彼をぎりりと睨んだ。しかしそれを歯牙にもかけず、中佐はそこを去っていった。

 一方、自分の部屋に戻った大月の胸には、あるプランが浮かんでいた。それを今度の外出日に実行しようと、彼は決めた。




 あまり一定していないが、彼らにも訓練が休みの日があり、届けさえ出せば、外出も許可される。

 大月たちの休養日、彼は西田を誘って外に出ようと、下士官や兵たちが起居する区画の六人部屋を訪れた。

「失礼するぞ」

 と、曇り硝子のはまった引き戸を開けて顔を出した。すると、わっと騒ぎが起きる。

「大月少尉どの、何の用でありましょうか」

 部屋の中には四人いて、後ろに菓子袋を隠した斉藤が尋ねる。

「なに、慌ててるんだ? 都合の悪いことでもあるのか」

「いえ」

「おまえのおやつを巻き上げるようなことはせんよ。西田はいるか?」

「はい」

 座って書きものをしていた西田が立ち上がった。

「今日、何か用事があるかね」

「いえ、特になにも……」

「なら、ちょっとつきあえ」

 西田は机の上を片づけ、大月の後についていった。そしてふたりは、事務に外出届を提出して、基地の門を出た。

「少尉どの、どこへ行かれるのですか?」

 大月の後ろを歩きながら、西田が質問する。久しく雨が降らないため、道は乾いてほこりっぽかった。

「セロを捜しにいくのさ」

 なんでもないことのように、大月が答える。

 すると、西田が足を止めた。

「おい、どうした」

「……帰ります」

 西田はそれだけいうと、向きを変えて兵舎に戻ろうとした。

「待て」

 大月はそんな西田の腕をつかみ、強引に引っ張って兵舎の見えない用水路の土手までき、そこで彼を解放した。

「まあ、座れ」

 指し示された場所に西田はしぶしぶ腰を下ろし、大月もその隣に座った。

 よく見ると、あちらこちらで枯れ草の下から土筆が顔を出している。空気は冷たいながら、陽の光は春の暖かさだった。

「西田は、幼い頃から素直で親の言うことを良く聞くおとなしい子だったろう」

 大月は少し目を細め、西田を見た。

「三人兄弟の真ん中で、自分の望みなんてのは、口に出す前にあきらめてしまう方じゃないのか」

 大月にいわれ、西田は考え込むように頭を傾げた。

「そう……かもしれません」

「俺たちは、自ら死を選びとった者だ。もしこの先に人生があるとしたら、俺は農学校で教鞭をとる将棋好きの田舎親父になっていただろうし、おまえはオーケストラの楽団員か音楽教師だろうな。……だがな、西田」

 大月は目をそらし、前を向いた。

「人は、いつか死ぬ。それがいつなのかは、本当のところ誰にもわからん。おまえが以前いっていたように、今は戦をしているから死ぬ確率は高いが、こういっている俺だって、明日なにかにかつまづき、うちどころが悪くてぽっくり逝くかもしれんし……」

「少尉どの……」

「いや、だからな」

 大月は、咳払いをした。

「……もう諦めるな。特攻で死ぬとわかっている俺たちに、残された時間は短い。やりたいことは、やれるだけやっとけ。俺は海軍に入って飛行機のおもしろさを知ったから、空で死ねるのはむしろ本望だ。けれど、おまえは未練があるのなら、おもいきり手を伸ばしてそれをつかみ取れ。ひとりで心細かったら、俺がついていてやるから……」

「はい……」

 西田は一瞬、顔を歪ませたが、笑顔で答えた。

「そうですね。セロが見つかるとは、かぎりませんし」

「おまえ……俺がこれだけいっても、まだ消極的なやつだな」

「少尉どのは、とてもポジティブです」

 と、声をあげて笑った。

 大月はそのとき、西田の笑い声を初めて聞いたことに思い至った。

 彼等は軍服の枯れ草を払って立ち上がり、周囲を見渡した。

 彼方の山の頂にはまだ雪が残っていたが、ところどころにある雑木林に早くも木蓮が花を咲かせ、木々が芽吹き始めている。近くの田に白鷺が一羽、舞い降りてきた。

「どうされるおつもりですか」

「いや、学校がないかなと……。まあいい。村へ行って、誰かに訊こう」

 ふたりは歩き出した。そして途中、野良仕事をしている人を呼び止めて場所を聞き、近くの子どもたちが通う国民学校へとやってきた。

「今日は日曜日ですから、誰もいませんよ」

 西田がいう。

「用務員さんがいるさ。ほれ、行くぞ」

 運動場に足を踏み入れたとき、ピアノの音が聞こえてきた。そして、ソプラノの歌声。

「あ、『ローエングリン』だ」

「なんだそりゃ」

「オペラですよ」

「ああ、歌劇か」

 そういった大月の表情を西田が見るに、この上官は『歌劇』と聞いて宝塚の少女歌劇団をイメージしたようだった。

 大月は、けげんな顔をしている西田にかまわず、用務員室を探し当てると戸を叩き、出てきた老人にわけを話した。

「ははあ、それでセロを。いやあ、岡崎先生なら、知ってみえるかもしれんねえ。ほら、今歌をうたっている人ですよ」

 老人の話によれば、彼女は東京で音楽学校を出たが戦時下のことで職もなく、母方の叔父を頼ってこちらにき、代用教員をしているのだという。

 用務員は、快く音楽室に案内してくれた。

「岡崎先生、失礼します」

 ピアノの音がやんだ。

「はい?」

 返事をして戸口に出てきたのは、髪をおさげにし、白のブラウスに紺のモンペをきた小柄な若い女性だった。用務員の後ろに軍人がふたり立っているのを見て、不思議そうな顔をしている。

「いンやあ、先生。このお人たちは、ほれ、ちょっといったところの航空基地の兵隊さんたちで、戦地にいく前に一度セロを弾きたいとか、いいなさるんじゃが、ご存知ないかねえ」

「あら」

 女先生は、右手で口元を押さえた。

「わたくし、小さい頃ヴァイオリンを習っていたから、それは持っているのだけれど……」

 と、首をかしげていたが、やがて何か思いついたようだった。

「ああ、そうよ。お寺の正嗣さんは、どうかしら」

「そうじゃ。そうそう、あの人なら」

 老人も相槌を打つ。

「じゃ、おじさん。わたし、ご案内してくるわね」

「おう、いっといで」

 にこにこと、老人は三人を送り出した。

「えっ、よかったのですか?」

 西田が、先に立って歩いていく女先生に訊く。

「かまいませんわ」

 振り返った彼女は、ふわりと笑った。

「申し遅れました。わたくし、岡崎千春と申します」

「僕は西田です。こちらは、大月少尉です」

 大月は、軽く頭を下げた。

「ずいぶんと歌い込んでいらっしゃったようですが……」

「ええ、わたくし、東京音楽学校で声楽をやっていましたの」

「あ、僕も同じところです。一年でしたが」

「じゃ、あなた。学徒で……」

 先生は、気の毒そうな表情をした。

「奇遇だな。先輩だったのか」

 大月がいうと、西田は嬉しそうに返事をした。

「はい。科が違いますけれど」

 まるっきり学生の頃に戻っているな。

 と、彼の表情の変わりようを見て、大月はおもしろかった。

 そして三人は畦道を歩いて村はずれの寺にいき、玄関の木鐸を叩くと、住職が出てきた。

 国防服を着た初老の住職は先生から話を聞いて、息子を呼んでくれた。

 廊下の向こうから、大月と年頃がさして変わらない青年がやってくる。ロイド眼鏡をかけたその若者は、右足を大きく引きずっていた。

「僕が正嗣ですが……」

 彼は大月たちの視線が足に注がれているのに気づき、ばつが悪そうに説明した。

「大陸で、匪賊にやられました。壊疽になりかけましてね、切らなかっただけましです」

「すまない……」

 大月がいった。

「いえ。それより、セロがご入り用とか。僕の部屋にありますから、どうぞ」

 通された離れの部屋で、ケースから出された楽器を抱え、西田はさっそく弓を動かした。

 深い音色が、あたりの空気を震わす。

「僕のは本当に道楽で、世間がこんな時ですから、親父は壊せっていってたんですが」

 と、入り口のそばに立っていた住職に彼がちらりと目をやると、老いた父親は苦笑いをした。

「……とっておくもんですねえ」

「あら、『カノン』?」

「ええ、パッヘルベルの。一番好きな曲なんです」

「それなら、わたくしのヴァイオリンと、叔父さまの……なんといっても、わたくしに幼い頃、教えてくれたのは、叔父ですもの。それに、あとヴィオラがあれば、やれるわ」

「僕、ヴィオラも弾けるんですが、楽器を持ってなくて……。うーん、檀家の人に訊けば、なんとかなるかなあ」

「あの……そこまでしてもらわなくても……」

 突然の話の展開にとまどった西田が、大月を見る。

 やれよ、

 と、彼は小さくうなずいた。

「ねえ、やりましょうよ」

 岡崎先生もいう。

「本当に、いいのでしょうか。……でも、もし実現できるのなら、たいへん嬉しいのですが」

「けど、譜がないよ」

 と、正嗣氏が考え込んだ。

「僕が……書きます。覚えてますから」

 西田が言った。

「なら、決まりだ。ヴィオラは、きっと見つけますから、やりましょう」

 先生も正嗣氏も、なんだかはしゃいでいる。

 結局その日は、各自がすることを決めて、西田たちは寺を辞した。

 門まで送ってくれた住職は、大月と西田に深々と礼をして言った。

「息子のあんな嬉しそうな顔は、久しぶりに見ました。戦地で大怪我をして戻ってきてから、部屋からも出ず、ふさぎ込んでましたからなあ。まあ、こういうご時勢で、兵隊に行って生きて帰ってくるような奴は男でないとか、世間の目もありますし……おや、これは、とんだ愚痴を」

「いえ。けれども、ご迷惑ではないでしょうか」

 西田が気づかう。

 一昨年の昭和十八年夏から、製鉄所を狙って中国の成都よりB29が北九州に来襲し、かなりの被害を被った。また昨年に入ってからは、東京、名古屋、明石の航空工場を目標に敵襲を受け、体当たり特攻などの防空戦闘隊の奮戦によって致命的な被害はなんとか免れたものの、南方で日本に近いサイパン、テニアン、グアムの三島が陥落し、航空基地が敵の手に渡ったことから、今年の三月より日本本土の各都市に対する夜間の無差別爆撃が始まっていた。

 新聞やラジオは詳しいことを伝えないが、被害に遭った親戚や知人、疎開してきた人たちの話によってその状況は伝わり、敵が間近に迫っているのを誰もが感じ、その恐怖から、『米軍が本土に上陸したら、略奪が始まり、男は皆殺し、女は暴行を受ける』など、さまざまな流言が飛び交っている。

 そしてこのような戦時下、優雅に楽器の練習などしていたら近在の人々から何をいわれるか、わからない。

 けれども、住職は穏やかに答えた。

「うちとこは、かまいませんよ。どうぞ、ご存分に練習場にしたってください」

「ご厚情、感謝いたします」

 大月が頭を下げた。

 そして兵舎への帰路、西田は顔を輝かせて語りかけた。

「すべて少尉どののお陰です。セロが弾けるだけでなく、『カノン』が演奏できるなんて。これ以上の喜びはありません」

「よかったな」

 大月も、西田のそんな顔を見て嬉しかった。

「少尉どの」

「うん」

「僕は少尉どののためだけに弾きますから、絶対聞いてくださいね」

 部下というより後輩か弟といった、もっと身近な甘さを伴った感覚で、西田がいう。

「ああ……」

 大月は、破顔した。

「期待しているよ」

 その後、西田は時間を惜しんで楽譜作りに精を出している。そして大月は、将棋の相手がいなくなって暇を持て余していた。





セロは、昔風の表記で、チェロのことです。

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