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昭和二十年二月二十六日、大月寛少尉は大分の海軍航空基地で、満二十三歳の誕生日を迎えた。
だからといって、特に何もすることはなく、両親へ手紙を書いた。
それを持って部屋を出たところで、同室の山本少尉と鉢合わせした。ともに繰り上げ卒業で軍に入ったため、ひどく話の合う同僚だった。
「お、すまん」
「いや」
「急いでいるな」
「そういうおまえは、手紙か」
「ああ」
「や、ちょうどよかった」
「なんだ」
大月は部屋の中へ戻った。
「鞍替えになった。鹿屋へ行く」
「……沖縄に近くなるな」
「大月とは最後まで一緒にいけると思ったのに、また訓練のやり直しだ」
「なに、俺たちのようなのまで駆り出すようじゃ、この戦もそろそろ終わりだ」
「おい、俺以外のやつの前で、そんなこというなよ」
「わかっている」
「しかし、おまえのヘボ将棋にもう付き合えんと思うと、少々寂しいな」
「ひどいな。おまえだって、似たようなもんだぞ」
ふたりは朗らかに、笑いあった。
「荷物まとめるの、手伝おうか」
「いや、たいしてない。それよりもおまえ、もうすぐ訓練の時間じゃないのか」
山本少尉にいわれ、大月は懐中時計を取り出して見た。
「そうか……そうだな」
「大月、また会おう」
「ああ、靖国でな」
大月少尉は軍靴の踵を打ち合わせ、敬礼した。山本少尉も返礼する。それが彼らの最後の別れだった。
大月少尉は神風特別攻撃隊の神剣隊に所属し、阿部唯三郎大尉の旗下にある。
日本軍は開戦以来、消耗戦を強いられた結果、昭和十九年頃から航空機の不足と搭乗員の不足および技量の未熟が著しく、それを補うために一発必中を狙った体当たり攻撃を採用した。そして同年十月よりフィリピン諸島方面の戦闘で、大々的に特攻隊が投入され、戦局の悪化とともにそれが戦術の主となったのだった。
訓練場に赴いた大月は、その日の訓練の終わりに新しく入ってきた兵士たちの紹介を受けた。
飛行服のまま、滑走路脇の待避所に止められた隊長機の前に呼び集められ、二手に分かれた列の中央に阿部大尉が立つ。
大尉は二十六歳だが、老成した感じの目の細い、穏やかな顔をした人物だった。
「諸君に、このたび我が隊に入った者たちを紹介する。右から、吉成、岡、斉藤、西田、塚原、以上五名だ」
こざっぱりとした軍服を着た新兵たちは、名を呼ばれた者から一歩前に出て敬礼した。
「こちらは向かって左から、今西……」
大尉が隊員の名を呼んでいき、在任の者たちは軽く会釈する。
「……大月……」
彼の名が呼ばれ、頭を下げて前を見たとき、大月は西田という若者と目があった。
うちで飼ってた子猫のタマに似ているな。
というのが、第一印象だった。色が白いのと、びっくりしたようにこちらを見た真ん丸の目がそっくりだ。
「……以上、これで総勢十六名となった。おそらくこのまま作戦遂行まで変わらぬと思うので、みな仲良く励むように」
阿部大尉は自分の年齢に近い若者たちに向かって、田舎の小学校の校長のような訓示を垂れて締めくくった。
これだから、あの人はいいなあ。
と、少しへそ曲りの大月は、この上官を気に入っている。
そして翌日から、五人の新兵が加わり、飛行訓練が始まった。
滑走路を艦上爆撃機『彗星』と零式艦上戦闘機が次々と離陸し、阿部大尉の隊長機を先頭に並んで飛ぶ。
予科練出身で一つ年上の今西少尉が乗る零戦が、大月の横にきた。操縦席の少尉は、にやにや笑いながら後ろを指し示している。
まあな、俺だって速成の訓練で飛行機乗りになったけどな、あいつらは、それ以上にひどいぜ。敵艦まで飛べるのかよ……。
大月は、ちらりと振り返りながら思った。
新しく入った五人の乗る零戦は、ふらふらとおぼつかない飛び方で、仲間についてくるのが精一杯の様子だった。
こりゃ、阿部さんにそうとう絞られるな……。
隊長の阿部大尉は、温厚な顔をしていても、訓練には厳しかった。
彼はアメリカとの開戦以来、フィリピン方面の防空任務にあたっていたが、昨年の終わり頃、この基地へ転属になった。
一方、大月は霞ケ浦航空隊での課程を終えてから台湾の基地へ行かされ、二度ばかり出撃したが会敵できず、すぐに内地へ回されて阿部大尉の下についたので、実戦経験はない。
隣の今西機が、手本を見せるように急降下する。
ちぇっ、気持ちよく飛んでやがるぜ……。
そのあとを大月も追う。
今西少尉は、ラバウルの激戦を闘い抜いてきたつわものだった。眉のきりりとした男らしい容貌の若者で、普段は快活なのだが、深酒をすると目がすわり、表情が一変する。
あれが、死相というものだろうか、
と、大月は思う。
戦友の多くを太平洋で亡くし、今西自身、死に場所を求めているようなところがあった。下の者に対して、あまり面倒見もよくなく、一匹狼のようなところもあるため、親しい相手がさはどいなかったが、この基地にきてから、大月とは飲み友達になった。
陰気な酒の飲み方をする彼をたいていの者が敬遠するのだが、大月は特攻を志願した自分もはたから見ればあんなものだろうと思っているし、人の事情の詮索もしないため、今西少尉に受け入れられているようだった。
そして、この隊の中で実際の戦場を闘ってきたのは、隊長と今西少尉だけで、あとは特攻が初陣という者が大半だった。
やがて、一回めの編隊飛行が終わる。
「おい、そこの少年」
地上に降り立ったとき、大月が呼びかけると、五人が一斉に立ち止まり、互いに顔を見合わせた。
「大月、新入りをあまりからかうな」
阿部大尉が、笑ってそばを通り過ぎていった。
「違いますよ」
「あの……誰のことでしょう」
五人の中で、頬がぷっくりと膨らんだ若者が尋ねた。斉藤という男だった。
「おまえだ」
「自分……でありますか」
指を差されて、西田省吾一等飛行兵曹が不動の姿勢をとった。
「ここに来る前、どこで飛行術を習った?」
「大村航空隊に、八か月ばかりおりました」
彼らはみな、学業途中で召集され、海軍に入営したのだった。
「八か月……」
大月は、その期間の短さに一瞬絶句したが、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「それにしちゃ、まあまあか……」
「少尉どの」
「なんだ」
「自分は、二十一になります。『少年』というのは、おやめください」
「それは悪かった」
大月は素直に謝った。
「では西田、聞きたいことがあるのだが……」
「なんでありましょう」
「昨日、初顔合わせのとき、俺の方を見ていたな」
「はい、えーそれはその……」
「怒らないから、はっきり言え」
「は、実は少尉どのに睨まれていたような気がしまして……」
大月は色黒で筋肉質の上、目つきが鋭かった。
「あれは、普通の顔なんだが……。俺はそんなに人相が悪いかね」
そして大月少尉は真面目な表情をして、両手で顔をごしごしこすった。
西田たちが、ぷっと吹き出す。
「申し訳ありません。自分の思い過ごしでありました」
「うんそうか、そりゃよかった。呼び止めてすまなかったな」
そんな出来事のあと、五人の新兵たちは大月に親しみを持ち、特に西田はなにかと用事をつくって彼のそばに寄ってくるようになった。
「少尉どの、入ってもよろしいでしょうか」
「おう、西田か。いいところに来た。将棋の相手をしてくれないか」
この基地に来て一週間、夕食後の自由時間に西田が大月の部屋を訪ねると、彼は紙の将棋盤を机の上に広げていた。
「はあ。斉藤が金平糖を手に入れたので、おすそわけに持ってきたのですが……」
「お、そりゃすまんな」
大月は酒もいけるが、甘い物にも目がなかった。
「まあ、入れ。山本の後釜がなかなか来なくてな。俺ひとりだから、気がねするな」
「はい」
西田は中へ入った。
三日前に芋きりを持って初めて少尉の部屋へ来たとき将棋に誘われ、「知らないから」と断っても、「教えてやる」と、強引に相手をさせられている。
「西田が先手だ」
駒を振って、大月がいった。
西田は彼の向かい側に座り、まず歩を進めた。そして、互いに次々と駒を動かしていく。
「おや、『蟹囲い』かい」
「なんですか?」
「ほら、そっちの形だよ」
「へえ、そうなんですか」
西田はあまり興味がないので、ただ闇雲に駒を動かしているだけだ。
「なあ、西田」
「はい」
彼は自分の番がきたので、将棋盤から目を離さずに返事をした。
「俺とふたりきりのときは、学生の頃に戻ってもいいんだぞ」
顔を上げると、大月が微笑んでいる。
「おまえ、どこの学生だったんだ?」
「音楽大学の……セロ弾きでした」
「俺は東農大だ。土壌と稲の品種改良の研究をして、青っぱな垂らしている餓鬼どもに、腹いっぱい食わせてやりたかったが……。繰り上げ卒業して、ヒコーキ屋になった。ここに志願したのだって、誰かがいかなくてはならないのなら、俺が行けばいいと思っただけさ。故郷には弟が二人いて、両親のことは心配なかったからな」
「ははあ、弟さんがみえるんですか。自分は……いえ、僕には兄と妹がいます。兄は陸軍のほうで今頃、大陸のどこかにいることでしょう。そして多分……母は無事を祈って近くの神社に毎日詣でていると思います」
「そうか」
「特攻に志願したのは……自分が臆病なのを知っていたからです」
そのときふいに西田は、大月に自分の本音をいいたいという衝動にかられ、迷いもなく、誰にも話さなかったことを口にしていた。
「妙なことをいうな」
大月は腕組みをして、彼を見た。それに西田は気弱げな笑みで答えた。
「僕の実家は農家で、比較的裕福な方です。けれども、どういうわけだか、僕は昔から自分が異質な存在だという気がしてしょうがないのです。同じ部屋の連中は……斉藤は、死ぬのは嫌だけれど召集令状が来たから仕方がないという感じで入隊し、特攻に志願したのだって、はずみのようなものらしいですが、塚原と岡と吉成は、軍人を尊敬し、自分たちはこの国と家族を守るのだという、堅い信念を持っています。でも、僕は……」
彼はうつむきながら、ぼそぼそと話し出した。
「小学生の頃から、『日本は神国である。けして負けない』とか、『アジアから欧米列強の勢力を追い出して、みなが平等で平和な大東亜共栄圏をつくるのだ』などと教えられてきましたが、級友たちが戦ごっこをしているのさえ恐ろしく、十六年十二月の真珠湾攻撃の成功で世間が浮かれ、アメリカとの開戦に沸き立っているときなど、この世の終わりのような気がしました」
大月は黙って聞きながら、将棋盤をながめて次の手を考えている。
「勇ましい手柄話や戦勝のことを新聞で読んでも、僕には戦場で起こっている悲鳴や爆音や飛び散る血などを想像してしまって……。こんな自分に長い行軍や飢えや暑さ寒さ、昼夜を問わない戦闘は、とても耐えられそうにありません。それに敵をこの手で殺せるかどうかも……。でも特攻なら、たった一度の戦いです。敵艦に突っ込んでいけばいいんですから。一昨年の学徒出陣で学生が、そして最近は以前なら赤紙が来なかった妻子持ちの壮年の人たちまで召集されて前線に送られています。男はみな戦わねばなりません。兵役拒否など考えられませんし、もし拒否したとしても御国の命令にそむけば、刑務所行きです。家族も非国民といわれて、どんな目に会うことか。また、刑務所にいっても、思想犯の疑いをかけられれば、特高に責め殺されるか、死刑になるかの、どちらかでしょう。自分自身の身体を傷つけて、兵役逃れをする気力もなく、それで……どうせ死ぬのなら、確実な方がいいと思ったのです」
「……おまえ、変わっているな。それではまるで、自殺じゃないか。特攻は……そう、一種の自己犠牲だと、俺は思うけどなあ」
そういう大月の表情に変化はなく、金平糖を袋から取り出して口にほうり込んだ。
「軽蔑なさいますか」
「いや」
彼は手を伸ばして、駒を進めた。
「人それぞれだ。それに人間は、状況によって違ってくるからな。なんともいえんよ。まあなんにしろ、ここまできたのなら俺たちは、自分の任務を遂行するまでだ。今聞いた話は忘れる。おまえも、これから人前では、陛下や御国のためとか、模範回答をしとけよ。今のは、おまえの本当の気持ちだろうが、これを少しでも洩らせば、鉄拳制裁どころか、下手すりゃ処罰される。俺たちの上官の阿部大尉どのは話のわかる良い方だが、そんな人間ばかりじゃない。ここは軍隊で、上の命令が絶対の世界だ。理不尽が平気でまかりとおる。わかるな?」
大月は、ちらりと上目づかいで西田を見た。彼の顔が、ますます暗くなっている。
「はい……。自分も航空学校で経験しました……」
「そうか……。俺たちは、軍隊という組織の中では歯車のひとつにすぎないんだ。学生の頃の自由な心は、この部屋の外では閉じ込めておけ。素直すぎるのも、ときとして命とりになる」
俺みたいな偏屈者になついて、かわいいヤツだと思っていた。しかし、こいつ……俺とは毛色が違うが、同じような変物だな……。
西田の本心を聞いてそう思った大月だが、自分の心は明かさず、その場は一応説教をしておいた。
「はい……わかっています」
「ところで、西田の妹は兄貴のおまえに似ているのか?」
「いやその……あんまり」
西田は顔を上げ、困ったように答えた。
「気ばかり強い妹で……」
「そりゃ残念だな」
「はあ……それで少尉どの」
「なんだ?」
「これは『王手』というのでしょうか」
大月が将棋盤を見ると、いつの間にか勝負がついていた。
「西田、おまえ……おぼえが良すぎる」
大月は頭をかかえ、おおげさに溜め息をついた。