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アア、燃エテイル……。
ゆっくり重い瞼を開けると、朝の陽射しでカーテンが明るかった。
今日モマタ、朝ヲ迎エルコトガデキタ……。
覚悟ができていても、やはり安堵の想いが全身に広がっていく。
そのとき小さなノックの音がして、担当の看護師が入ってきた。
「おはようございます。黒木さん、よく眠れました?」
「ええ、お陰さまで」
「体温計をどうぞ。また、あとで来ますから」
「はい……。あ、林さん。カーテン、開けてってくださいな」
「いいですよ」
四十すぎの少し太ったその看護師は、にこやかに返事をして窓際へ行き、カーテンの紐を引いた。
劇場の緞帳が開くように視界がひらけ、外の景色が見える。カーテンで押さえられていた冷気が、ふわりと広がってゆく。
「今日もいい天気になりそうですね」
患者が落ち着いた様子で外を眺めているのを確かめ、看護師は病室を出て行った。
窓の外では、薄雲のかかった青空を背にした信州の山々へ霞が幾重にもかかり、田起こしのされていない田んぼのあぜ道には草が萌え始めている。そして近くに目を転じれば、街の公園や病院の周りに植えられた桜の花も満開で、人通りのない早朝の静けさの中、すでに音もなく散り始めていた。
これまで楽しいこともあったはずなのに、五十年以上も前のことを夢に見るなんて……。
黒木タエ子は、体温計を腋にはさみながら、ほうっと溜め息をついた。
桜並木の道路を大型トラックが二台、黒い煙を吐き出しながら走り去ってゆく。病室の外では、変わらない一日が始まっていた。
今年八十八になる彼女は、半年前に末期の肝臓ガンとの告知を受け、長男の嫁がクリスチャンだった縁で、長野のこのホスピスへ入所している。
他の個室もそうなのだが、タエ子の部屋は窓から外が見えるようにベッドが置かれ、クリーム色の壁にはコスモスの花が描かれた絵が飾られている。そして入り口近くには、トイレとシャワーが備えつけられていた。
入所した当初は彼女も身の周りのことぐらいできたのだが、微熱の続いたこの数日、ベッドに起き上がるのもおっくうになっている。
もう、そろそろかねえ……。
告知を受けたときの、死ぬことに対する動揺は治まっていた。まだ少し恐怖感があるにしても、痛みは鎮痛剤でコントロールされているし、両親も兄弟も、そして友人のほとんどが向こうにいる。
入所したとき洗礼を受け、ときどきやってくる神父から聞く神さまの話に心安らいだ。また幼い頃、祖父母に聞いたあの世についての昔語りも思い起こされ、近頃では、この世を離れるのではなく、生まれる前に還っていくのだと、彼女は感じるようになっていた。
でも、あれをやっとかないと……。
そう思いながら、眠ってしまったらしい。次に気がついたとき、看護師がベッドの傍らにいた。
「あら、黒木さん。起こしちゃいました? 体温計、もらいにきたの」
タエ子が腋からそれを抜いて渡すと、彼女はクリップボードの用紙へ数値を記入し、体温計を胸ポケットに収めた。
「食欲、あります? 朝ごはん、食べられるかな」
「ええ……多分」
「そっかあ。じゃ、持ってくるね。えっと、それから……」
と、看護師は二、三問診をして、再びそこを出ていった。
しばらくすると、朝食が運ばれてきた。お粥と野菜を柔らかく煮付けた副菜とりんご味の栄養補助飲料。
ゆっくり食事を済ませたあと、壁づたいにトイレへ行く。そして清拭のために配られたタオルで身体を拭いて……。入院していても、朝はそれなりに忙しい。
やがて回診の時間となって、担当医師の診察を受ける。
タエ子を診てくれたのは、川本という小太りの体型をした五十代の医師だった。
『髭をはやせば、プラシゴなんとかというオペラ歌手にそっくりじゃないの』と、彼女はいつも思っている。
「うん、黒木さん。病状は安定していますから。熱の方は、もう少し様子を見ましょう」
「はい、ありがとうございます」
タエ子が答えたとき、いきなりドアが開いた。
「あ、すいませーん」
孫の幸男だった。金色に染めた頭が見えている。
「いや、今終わったところだよ。どうぞ」
川本医師は軽く会釈をして、そこを出ていった。
看護師が点滴の用意をしている横を、幸男はおずおずと中へ入ってきた。
「や、おばあちゃん。元気?」
「見てのとおりだよ」
タエ子の憎まれ口に、針を刺してそれを固体していた看護師が微笑む。
「液が落ち終わったら、ブザーを押してくださいね」
「はい」
看護師がいってしまうと、幸男は椅子を引き寄せ、またいで座った。
「ほら、ばあちゃんに頼まれたテープ、持ってきてやったから」
「そりゃ、ありがとう。でも、お駄賃は出ないよ」
「かわいくねえババアだなあ。そんなもん、期待してねえよ。ボランティアさ」
医師や看護師にタエ子は丁寧な口をきいていても、孫に対しては容赦ない。けれどもそれは、口先だけのカラ元気だと幸男は知っていた。見舞いにくるたびに痩せて元気をなくしていく祖母の姿を見るのはつらいが、当の本人が覚悟を決めてるんだから、自分も腹を据えなきゃ、と思う。
「……けど、似合わねえよな。パッヘルベルの『カノン』に『ソルヴェークの歌』が好きなんてよ。俺なんざ、こんなの聞くのは小学校の音楽の時間以来だ」
「わるかったね。死んだ二番めの兄さんがクラシックが好きだったから、その影響さね。それにこれでも女学校出てるんだよ。昔はお嬢さまだったのさ」
「ますます似合わねえ」
幸男は爆笑した。
「やな子だねえ。ほら、さっさとかけとくれよ」
「わーかったよ」
幸男は立ち上がり、枕元近くのチェストに置かれてあったラジカセにテープを入れた。
「CDにすりゃあ、こんなすり切れるなんてこと無いのに」
「おまえの持ってきてくれたCDラジカセってやつ、操作がわかんないのさ。それにレコードだったら、好きなのばっか聞けないじゃないか」
「はいはい。リクエストしてたラヴェルの曲も入れといたから」
「そりゃ、すまなかったねえ」
『カノン』が静かに始まった。
幸男が再び椅子に腰を下ろそうとすると、タエ子が思い出したようにいった。
「ああ、そう……。下の戸棚にあるバッグの中に手紙があるから、出しとくれ」
「もう、人使いの荒いババアだなあ」
文句をいいながらも、幸男はしゃがんで戸棚を開け、いわれた通りに手紙の束を捜し出すと、寝ている祖母の目の前へそれを持ってきた。
「ばあちゃん、これかい」
タエ子は点滴の針が刺さってない左腕を伸ばして受け取り、ぎこちない仕種で確認した。
「ひい、ふう、みい……ああ、五通ある。それじゃ、幸男。これをあたしの見ている前で焼いとくれ。ほら、そこにちょっと大きめの器があるから、それに水を入れて、その上でさ」
「穏やかじゃねえな。もしかして、昔の恋人からのラブレター?」
幸男はからかうように、にやりと笑った。
「馬鹿、そんなんじゃないさ。兄さんからの手紙さね」
「なーんだ」
古びた手紙を受け取った彼は、その中の一通を封筒から抜いて広げた。
『出撃の日。御父上様、御母上様……』
達筆な文字が綴られている。
「これって、特攻で死んだっていうばあちゃんの兄さんの?」
「そうだよ。見るんじゃないよ。あんたには関係ないんだから」
「えっ、でも……」
「こんなもの、残されたら、あんたたちが困るだろ。本当は棺桶に入れてもらおうかと考えてたんだけど、生きてるうちに自分で始末しとこうと思い直してさ。でも今、出来ないから、頼んでるんじゃないか。ほら、やっとくれ」
「怒るなよ。せっかちだなあ」
タエ子の剣幕に、幸男は気の進まない様子で、いわれたように用意し、ポケットからライターを取り出すと焼き始めた。
「……あんた、いい子だよ」
それを見て、タエ子は安心したようにつぶやいた。
「へっ」
幸男は照れて、それだけいった。
ほんと、いい子だよお……。
タエ子は心の中で繰り返した。
高校に入ってから不登校になった幸男は、一年もたたないうちに学校をやめ、家でぶらぶらしていたが、最近になってアルバイトを始め、勉強も再開して大検を受けるためにがんばっている。そしてタエ子がここに入所してから、一週間に一度、二時間半かけて東京から見舞いに来てくれるのは、長男の一人息子である幸男だけだった。他の家族は一カ月に一度くれば、いいほうだ。次男のところの孫ふたりなど、姿も見せない。今頃、女子高生の美子は繁華街で男を引っ掛けているだろうし、小学生の俊夫は一日じゅうゲームをして家の中に引きこもっていることだろう。親たちは仕事や趣味に忙しく……。
どいつもこいつも、不孝者ばっかりだよ……。
今の風潮かもしれないけど、親不孝者を育てたのは自分なのだし、薄情な孫を持ったのは運命だと、タエ子は諦めていた。おそらく臨終の際には、そばに誰もいないと思っている。
それにくらべて、兄さんたちは親思いだったねえ……。
戦地から来る手紙は、検閲されているのであたりさわりのないことしか書かれてなかったが、常に両親や妹のタエ子のことを気づかっていた。
けれどもその兄たちも……。
しっかり者の長兄はシベリアで抑留されて還らず、今もあの冷たい大地に墓もないまま眠っている。そして音楽が好きだった次兄は南の空に散り、からの白木の箱で戻ってきた。特攻に志願していたことすら知らされてなかった母は天を恨み、国を恨み、それ以後長く神社へ近寄らず、初孫が生まれたとき、久しぶりに境内へ足を踏み入れたのだった。
それにしても、省吾兄さんは、どうして特攻なんて志願したのだろう……。
気の優しい兄だった。そしてタエ子はずっと疑問に思っていた。他の戦地だったら、まだ生きて帰ってこれた可能性があったのに。
しかしあの当時、東南アジアや南方の島では激戦が続き、玉砕が相次いだ。シンガポールへ行った長兄の友人は、戦後B級戦犯として処刑されている。
それから思えば――病や飢え、辛い行軍や敵の血を浴びるような地獄を味わわず、ただ国や家族のためと信じて死んでいけた兄は、ある意味で幸せだったのかもしれない。
多摩の裕福な農家に生まれたタエ子は、たいした苦労も知らずに育った。しかし戦局が厳しくなる中、女子学生も挺身隊として工場へ徴用された。タエ子も家から歩いて半日離れた軍需工場の寮に入り、働いていた。
そして昭和二十年三月十日夜半、寝ていたところを空襲警報で起こされ、次の瞬間、爆風で吹き飛ばされた。
気がつくとあたりは火の海で、級友たちの生死もわからない。そのときは、ともかく家へ帰ろうと思った。勘を頼りに歩き出し、高台まで来たとき振り返ると、彼方に望む東京が燃えていた。
空から火の雨が降り注いでいる。夜中にも関わらず、真昼のように明るく、無数のB29のぶうーんという飛行音とひゅうという爆弾の投下音、加えてひきもきらぬ爆音に振動。物の焦げる匂い……。
眼下の街も爆撃を受け、ところどころ火事となり、それが燃え広がっている。タエ子の後からも、煤だらけとなり、ぼろを着た人たちが次々と避難してきていた。我が身をよくよく見れば、自分も火傷や切り傷を負い、髪も焦げ、同じような格好をしていた。
……あの情景は、今でも夢に見る。
のちに知ったことだが、このときの空襲で約十万人の死傷者がで、級友たちも半数が亡くなった。
その二か月後に、次兄の戦死が知らされた。そしてさらに三か月後の夏、戦争が終わった。
結核を患っていた父は戦後の混乱の中で死に、農地改革で田畑もなくなり、実家は没落した。
やがて世の中が少し落ち着いた頃、タエ子は結婚し、夫とともに営んでいた鉄工所をもりたて、二人の子供を産み、苦労して育てた。それは、同じ時代の波をくぐってきた誰もが経験したことだろう。
けれども、その結果がこれだった。子供たちは家業を継がず、孫は一人を除いて、小遣いをせびるとき以外、寄りつきもしない。
情けないねえ……。
タエ子は、五年前に脳溢血で亡くなった夫に語りかけた。
人の心のありようが変わり、景色も変わった。
タエ子の故郷は、かつて遥かに富士山を望み、広がる水田の間に杜が点在した武蔵野の農村だった。ところが今はその面影もなく、団地が立ち並ぶモダンな街となっている。物があふれ、人々の生活は豊かになったが、しっかりと護岸工事された川は汚れ、スモッグでかすむ稜線に山の姿はぼやけて見えない。
兄たちは、いったい何を守ったのだろう。あの戦争で死んでいった人たちは、どうして死ななければならなかったのか。どれほど多くの人間が、戦地で空襲で死に、また生き残った者も身体と精神に受けた深い傷を抱え、その後の人生を苦闘せねばならなかったことか。そして、若者たちが命を散らして守ろうとしたこの国は……。
胸が重苦しくなった。
こんなばあさんが考えても、仕方のないことだけどねえ。向こうへいって兄さんたちになんていおうか……。
「少し、疲れたよ……」
タエ子は深い溜め息とともにつぶやいて、目を閉じた。
幸男はすでに手紙を焼き終わり、後片付けをしている。
カセットレコーダーの『カノン』も終わり、グリーグの『ソルヴェークの歌』に代わった。
タエ子の閉じた瞼から、涙が一筋流れる。
「ばあちゃん、眠ったの?」
幸男の問いに答えはなかった。
前奏のあと、帰らぬ男を生涯待ち続けた女の、愛の歌が流れ始めた。
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