真面目な人ほど宗教にハマりやすい
真面目な人と聞いたとき、どんな人を思い浮かべるだろうか?
融通がきかない。頑固者。信念を曲げない。堅物。そんなところかな。
実は、ぼくも中学生の頃ぐらいまでは真面目な人と呼ばれていた。
目上の人から言われたことは素直に聞き、打算なくすすんで人の嫌がることをする。
そんな真面目な生き方をぼくがやめたのは、生きる上で、真面目な人に価値を見いだせなくなったからだ。
真面目では、孤立を防げない。真面目では、いじめから逃れることはできない。
孤立しがちなぼくには、一対多で周りと渡り合うための、不真面目な政治力学が必要だった。
真面目の背景にある考えとは、――、僕もかつては真面目な人だったから理解るのだけれど――、まあ身も蓋もない話、承認欲求か、あるいは信念(こう有りたいと思う自分)に固執することだろう。
どちらも、『自分のありかた』に執着しているということに注目されたい。
さて、そんな真面目な人が『答えのない質問』を受けたらどうなるだろう?
『理想の自分』を追い求めるタイプの真面目な人は、『質問に答えられない愚かな自分』を受け入れられずに、『ない答え』を必死に探してぐるぐると思考を循環させるんじゃないだろうか?
いわく、「あなたは何のために生まれて来たのですか?」とか。
いわく、「金銭は本当に人を幸せにするものでしょうか?」とか。
いわく、「人の最高の幸せはどこにあるのでしょうか?」とか。
いわく、「どうすればすべての不幸を取り除けるでしょうか?」とか。
ぼくなんかは不真面目なので、『解無し』と決めこんでそれ以上は深入りしない。
考えても仕方のないことは、僕にとっては価値のないことだ。
ところが、真面目な人は、ぐるぐるぐるぐる答えを出そうと頑張ってしまう。
『自分のありかた』を大事に思うあまり、『答えにたどり着けない自分』を受け入れられないわけだ。
なんとか答えを出そうと、予め答えなんて用意されていない問いを、答えがあるものと思って、考えこんでしまう。
宗教家は、そこを付け狙うのだ。
矢継ぎ早に『解のない質問』を浴びせかけ、思考力を奪ったところで、『信者が等しく金銭にとらわれない生活を送り、神に仕えることこそ唯一無二の幸せ。汚れた財産はお布施しなさい』とかって予め用意していた説法を持っていくわけだ。
『自分に出せなかった答え』を宗教家によって与えられた真面目な人は、こうして宗教にハマってしまう。
自分のあり方に対する執着が、思考力を失わせるのだ。
ぶっちゃければ、こだわりだの信念だのといった執着は弱点だ。僕の目には背後のコンプレックスが透けて見える。
そんなわけで、ぼくは、真面目な人を素晴らしいとは思えないのだ。




