言葉が先か、感情が先か?
人が何かを話すとき、まず感情が先にあって、そこから言葉が選択されるのか?
それとも人は言葉によって物を考え、言葉によって感情が惹起されるのか?
今回はそんなことを考えてみたい。
……こんな言葉がある。
『はじめに言葉ありき。 言葉は神とともにあり』
予め言っておくと僕は特定の宗教を信じてはいないし、宗教的な解釈については触れないでおく。
紹介したものは世界で最も読まれている本の一節だ。
はじめに言葉ありき。このパターンを考えてみる。
例えば、『紅葉』という言葉を目にしたとき、物悲しさだったり儚さだったり寂しさだったりと言った感情が湧いてこないだろうか?
こういう例えば『紅葉が見られる国』というくくりの中で通じる『間主観的な感情』は、言葉が先にあって起こる感情である。
『バレンタイン』と聞いて、『あの子にチョコをもらいたい』とか思うのは、そういう文化の影響下にある人達だけなのだ。
次に感情が先にある例を考えてみよう。これは簡単だ。
主観的な感情は常に言葉に先んじる。例えば、剣山に手を突っ込んだとき、痛みや不快感があって、そこから『痛ぇ!』だの、『Ouch!』だのと言った『言葉』が出てくる。
別に『痛ぇ!』や『Ouch!』という言葉があるから痛くなるわけではないのだ。
そんな事を考えてたら、手が痛くなってきたな。ふぅ。
そういえば、ネズミなどの動物にも、『感情』のようなものはあるらしい。というのは、痛覚刺激に対し反射が起こるだけでなく、将来起こる痛みを忌避するために『痛みから生じた不快感』をどうやら学習しているらしいのだ。それはつまり、痛みに対しなんらかの、例えば『避けたい』といった感情のようなものを抱いているということだ。
だから、『言葉が先か、感情が先かの答え』は、大抵の場合は感情が先と言えるだろう。
じゃあお次は、もう少し大きな視点で『言語』が感情に影響を与えるパターンを考えてみよう。
マルチリンガルの人で、例えばスペイン語で物を考えているときはおおらかだが、ドイツ語で物を考えているときは、例え同じことを考えていても、怒りっぽくなるという人がいる。
言語の罵倒表現や攻撃的な言い回しの多寡、慣用表現の違い、抑揚やアクセントの強弱などによって、言語が同一人物の主観に影響を及ぼしたりもするのだ。
ちょっと怖いよね。
何語を話しているかによって、出来事に対する苛つき具合とかが変わってくることもあるんだ。
最後に、『間主観的な感情』が『言語』に及ぼす影響を考えてみる。
これは流行語などに見られるだろう。仲間内で使ってた流行り言葉が新しい言語のスタンダードになったりとか。まぁそこまでいかず一過性の『流行り言葉』で終わることがほとんどだと思うけど。
これらをまとめると、
『言語』は、『主観』に影響を及ぼし、『主観』は『言葉』に先んじる。
『言葉』は、『間主観的な感情』を惹起して、『間主観的な感情』は『言語』に影響を及ぼす。
最後、飽きてきてちょっと強引にいった感があるけど、うまいことまとまったよ。
循環したよ。きゃっほい。
以下余談。
『はじめに言葉ありき』の『はじめに』の部分は、言葉や神をも内包する『万物の始源』や『根源的原理』をあらわす。
根源的原理って、『神の力』そのものじゃね?
ちなみに古典ギリシャ語で、アルケー(αρχη)という。
アルケーの正体については昔から諸説あっておもしろい。
実は、『いたもん』に出てくるアルケーというシステムやアルシェというキャラはここから来ているのだ。




