偽善は善だし、『偽』かどうか決めるのは事実でなく主観
偽善は悪! おこちゃまの頃は僕もそう思ってたさ。
でもね。偽善ってさ、『善』なんだよ。
そして、偽善の『偽』の部分を決定するのは、事実でなく主観なのだ。
その事をチョロっと考えてみようか?
『
ぎぜん
【偽善】
本心からでなく、うわべをつくろってする善行。
Oxford Languagesの定義より引用
』
ある男が、業火の中から子供を救いだしました。
救われた子はやがて大人になって大流行する新型コロナウイルスのワクチンを完成させ大勢の命を救いましたと。
そんなストーリーがあったとする。
善行の連鎖だ。
いいことって連鎖するんだな。やっぱり善行って素晴らしいよな。
ところがね、救ったある男は実は消防士でさ。
お仕事で助けただけなのよ。
ちょっと雲行きが怪しくなってきたね?
だけれども、同じ消防士から見たとき、その救出劇は命がけになるというような、他の消防士では到底不可能な、例えば大やけどと引き換えになるような英雄的な救出劇だったとしよう。
・お仕事でやっただけじゃん…偽善でも善でもないよ(通りすがりの小学生)
・職務だけど、自己犠牲の精神がなければできないような通常期待される以上に偉大なことをやってのけた…まぎれもない善行だ(仲間の消防士)
・高給取りが高級を維持するためにやったのだ。偽善だー!…偽善(仕事が見つからないおっさん)
・周りの目があったから消防士として行かざるを得なかったのだ。偽善だー!…偽善(ライバル消防士)
第三者の主観や持っている専門知識によって、コロコロ変わるでしょ? ちょっと面白くね?
『偽』かどうかを決めているのは、第三者の主観だし、偽善ってさ。定義にある通り『善行』なんだよね。
本心からかどうか、なんて本人にしかわからんじゃん。それにこの場合『本心』って何よ?
消防士本人に聞いてみたら、『いやあのときは体が勝手に動いたのだ。今にして思うと上辺を気にする気持ちも少しはあったかもしれない』と消防士が語ったとしよう。
その場合、偽善になるのかね? なるのかもしれないし、第三者の受け取り方によっては、『善』あるいは『偽悪』とされることもあるだろうさ。
でも、いずれにしても、行った事実はどう転んでも善行だよね?




