マウントと相対的剥奪からの脱却法
マウントと相対的剥奪は表裏である。
他人と比較する相対的な評価で優越感を得るのがマウントで、他人と比較する相対的な評価で劣等感を叫ぶのが相対的剥奪だ。
これらは比較対象が現れるたびに発生する衝動的な劣情の発露であり、序列意識を刺激するオ○ニーである。
評価の相手が不特定という点、憎しみに変わるほどの強い情念が生まれない点で、これらは明確にルサンチマンとは異なる。ルサンチマンの対象は特定で憎悪になるくらい明確な情念なのである。
そういう意味でルサンチマンは革命につながるけれど、相対的剥奪は自暴自棄の通り魔的、八つ当たり的なテロにつながる。
優越感や劣等感の比較対象は相対的である。つまり、何でもいい。
男に対して女は、とか。その逆とか、高学歴に対して低学歴は、とか。氷河期世代に対して、ゆとりさとりは、とか。派遣に対して正社員はとか。ファッションセンスがとか。ブランドがとか。
結局の所、叩いている本人が楽しくオ○ニーができればいいわけで、必然その内容は後付となり、評価に値しない。
叩く相手は、自分が属さない集団であればなんでもよいのだ。
マウントや相対的剥奪で得られる劣情や共感は刹那的である。つまり、これを追い求めても永遠に充足されることはない。すぐに嘆き節に変わるだろう。
自分で勝手に比較して、自分で勝手に落ち込んでいる。
あるいは、自分で勝手に比較して、勝手にやり込めた気分になって満足している。
マウントと相対的剥奪。
これが『序列と共感』が表層に現れてくる実例だ。
拗らせてくるとその上さらに承認欲求をも発揮して、『世界を自分の都合のいいように変えてやる』と吠えるノイジーマイノリティーもいる。
でもそれは、ただの公開オ○ニーだよ?
公開オ○ニーしたところで、煙たがれるだけで報われないだろう。せいぜい低い次元でのオ○ニー仲間の刹那的な共感を得られるだけだ。
そしてこれもすぐに嘆き節に変わる。
残念なことに世界中ほぼ全てが、僕らになぞ興味を持っていないのだ。そしてその幻想を追い求めることで、僕ら自身の幸福を追求することからはだいぶ遠ざかる。
挫折感も味わうことだろう。
マウントも相対的剥奪も、通説ではどちらも『絶対的な成功経験が少ない』ことに起因すると言われているが、それは一部正しくて、一部間違っている。
マウントや相対的剥奪から抜け出すには、『絶対評価と相対評価が異なる』ことを知ればいいのだ。つまり、『自分がお山の大将である』ことを知るということだ。
料理でも音楽でもなんでもいいが、小山の中で比較が成立しなくなるぐらい突き抜けた成績を出す、その上で、広い世界を見て自分と同等以上の人がいることを知る。
永遠、全大会で優勝し続けられるアスリートなどそうはいないだろう?
小山の中では比較が成立しないぐらい強くても、頂点付近では勝負は時の運になることを知るのだ。
そうすれば、『比較によって生じる感情などくだらない』と思うようになる。
そのためにはまず、何かに打ち込む必要がある。まず、なにかに真剣に打ち込まないことには、決してその呪縛からは逃れられないんだよ。
だけど、そういった体験や経験は簡単には用意できない。
そもそも成功経験は、多様性のある混沌からは容易に生まれうるのだが、平準化規格化した現代の教育方法では実現が難しい。
『一緒に走り出して一緒にゴールテープを切る』
そんな教育方針があるが、こいつが諸悪の根源だ。
一見競争をしないことで劣等感や優越感が刺激されないように思えるかもしれない。
低IQの馬鹿が机上で考えた浅はかな空論だ。
相手に選択権がある以上、必ず競争は起きる。
授業のたかが一単元で優劣をつけない教育をしても、それ以外の場面で必ず優劣はつくのだ。
何の意味もない教育方針だ。というか害悪しかない。
こんなお為ごかしでは、マウントや相対的剥奪をなくすことにはならない。むしろ増やす。『自分がお山の大将である』ことを知るための競争の機会を奪うことで、むしろ逆にマウントや相対的剥奪に悩まされる人を増やすのだ。




