二項分類と理由付けとモラトリアムとスクランブル交差点
例えば、あてもなくたどり着いたスクランブル交差点の中央でアラーム代わりの音楽が折り返しの回数を数えるとき、君の心に浮かぶのは不安だろうか? あるいは焦燥?
そんなシチュエーションで、僕のテンションは上がるのだ。
だって、めっちゃ自由じゃん?
引き返してもいい、直進してもいい、右に行ってもいい、左に行ってもいい。
どうよ? 可能性にみちあふれてるでしょ?
『作品を読めば作者の考え方がわかる』みたいなことを言う人がいるじゃん?
拙作『いたもん』の転移後スクランブル交差点の中心から始まるシーンは『自由』の象徴として入れてるんだぜ? 読み解けたかい?
無理だろうね。
知ってた。僕と同じような考え方をする人は極端に少ないんだ。
僕は、受験後の結果発表までのモラトリアム期間とか大好き。
だって、僕の方から『辞退』してやったっていいんだぜ?
反対に、思考が拘束されることは嫌いだ。
例えばバイアス、あるいはスキーマ。そんなものに支配されてたまるか。
逃げられない部分もあるけどな。
だから逃れられる部分については、例えば、
『男は~。女は~。』、『賢人は~。愚者は~』、『健常者は~、障害者は~』、こんな二項分類的な考え方からは、距離をおきたいのだ。
なぜって?
だってさ。二項分類的な考え方には、必ず『例外』がある。そして『例外』は差別の温床になる。
ちょっと考えてみてよ。今あげた例、差別を作るだけの空虚な分類に見えてこないかい? だいたいどこで線引すんのよ?
基準のコンセンサスとれてるかい? 独りよがりになってないかい? 実際大概ちゃんと取れてないだろ?
いや、わかるよ?
物事を二項に分けると安心するんでしょ?
どっちつかずの状態に物事を置くのが嫌なんでしょう?
わからなくはない。
世間ではそっちの考え方が主流だし、僕は出される結論に、曖昧にうなずくか、『そういう傾向もあるかもね』と曖昧な反応しかできない。
そんな感じだから、結果として、昔から僕は孤立しがちだ。
そうそう、『AだからB』みたいな理由付けも僕はまずしないね。
それが成立する条件が『実はかなり厳しい』ってことを僕は知っているからさ。
同じようなことを考えている人がいたら、ぜひぜひ感想をください。




